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庫裏での生活はこまやかで素朴で、そして示唆に富んだものだった。正しい水の汲み方、賢い薪の割り方、優しい炊火の付け方。どの作法もレモニカの理解の外にあったが、護女たちの生活と所作を美しいと思った。
救済機構の中心的な教えとレモニカの信仰とは重なるところがなかったものの、その推奨される生活様式や心映え、倫理観は大きく外れない。それでもグリシアン大陸に遍く広がる偉大なる神々への信仰を、救済機構の教えに置き換えねばならない、とその教義は示しているのだ。相容れぬ、とレモニカは密やかに思う。
ある夜、護女たちは年に一度のほとんど全員での再会を祝してささやかな会食をすることになっていた。レモニカも招待され、儀礼的に遠慮したのち応ずる。
どこに隠れていたのか、優に百を越える護女たちが一堂に会する。年齢は様々だが、どうやら身体の規定とやらは女性の平均よりも低いらしく、上の年代ほど人数が少なくなっている。余りにも均質な背格好の少女たちが食堂に集まっている様は不自然な光景で不気味にさえ感じる。
並べられた料理は多種多様で、レモニカにはどこがささやかな会食なのか分からなくなった。西は青き島々の海の香りを封じ込めた魚料理から、東はミーチオンの丘の間に古くから伝えられる馨しき羊料理まで。どうやら大陸中を旅してまわり、困難を乗り越えて多くを学ぶ護女たちは土地々々の珍味佳肴をも会得して再現しているらしい。銀の大皿に盛られているのは檸檬を絞り、香草を添えた丸焼きの魚だが、あまりにも巨大だ。琺瑯をかけた大きな銅鍋にはアムゴニムでは一般的な具沢山の汁物が縁を越えて盛られている。人数が多いとはいえ、特に粗食の教え等はないらしい。
春も麗らかな森や野原で歌う小鳥たちのように、食事と共に旅路を語り、お茶と共に再会を喜ぶ。食事もお喋りも尽きることなく、それを咎める者もいない。その楽し気な様子を見ると、辛い修業の日々の内の今日ばかりは、ということかもしれない、とレモニカは想像した。
しかし当のレモニカは長旅の疲労に攫われた苦悩、そして見知らぬ場所での不安と緊張に限界が来て、先に休ませてもらうことにした。
ノンネットに付き添われ、ノンネットとエーミの部屋へ向かう。元々は四人部屋で今までは二人で使っており、今はノンネットと共に三人で使っている。薄暗い部屋で、サイスの姿で寝台に座る。ミーツェル先生が見れば卒倒する光景だろう。
「すみません。ケブシュテラさん。無理をさせてしまいました」とノンネットは健気に謝る。
「こちらこそ、申し訳ございません。水を差してしまいましたわね。わたくしはお先に休ませていただきますので、どうかお戻りになってください」
「お言葉に甘えさせていただきます。お休みなさいませ」
ノンネットが立ち去って、寝台に寝転がったレモニカの体が様々に変化する。食堂の護女たちが歩き回るために次々に変身し続けてしまう。しばらくは眠れそうにない。真っ暗で静かな部屋で、レモニカの思考は渦巻いている。
攫われるのは何度目だろう。これは宿命なのだろうか。忌まわしい運勢だ。それに今までのどれよりも脱出は困難なように思えた。あのフォーリオンの海の渦の上や水柱の上でさえ、ベルニージュやネドマリアがいたお陰で少しも希望を失わなかった。
レモニカは聖ミシャ大寺院の山門を越えた時点で拘束を外された。絶対にこの敷地から逃げ出す心配はないというチェスタの自信の表れだろう。どこにも異常はないが、知らぬ内に何かの呪いをかけられたのかもしれない。
ふと体の変化が固定されたことに気づく。暗くてよく分からないが人間の形だ。誰かが一人、僧房に近づいているということだ。そろそろ会食もお開きなのかもしれない。さらに少しして部屋の扉が開く。レモニカがこっそり薄目を開けて盗み見るとそれはエーミだった。手に持った蝋燭の明かりが、翠の瞳を不思議に輝かせている。会食から戻ってきたのか、そもそもあの場にいたのだろうか、レモニカは思い出そうとするが思い出せない。思い出せないということはいなかったのだろう。
この数日、同じ部屋に寝泊まりしながらエーミの嫌いなものを知ることはできなかった。エーミはレモニカとノンネットが寝静まってから部屋に戻ってきて、起きた頃にはいなくなっていた。日中は近寄るどころか話すことさえ稀で、エーミはいつも孤独なようだった。
そんなエーミがレモニカの枕元に忍び寄り、上から見下ろしている。レモニカにもその気配が感じられる。
「ここから脱走したいならついてきて」
エーミの言葉にレモニカが目を開くと、蝋燭は消されていて暗闇の中にエーミの人影があった。
レモニカは跳ね起きて、何も言わずに部屋を出て行くエーミの後を追う。庫裏を出て、聖ミシャ大寺院の行く手の見えない白樺の森の中を行く。昼の去った空を覆う厚い葉々は星々の瞬きさえ隠し、庫裏を抜け出した二人をからかうように夜風と囁き交わしている。
真っ暗で足元の不確かな森ながら、まるではっきりと見えているかのようにエーミは足取り確かに進んでいく。かといって遅れるレモニカを置いていかないように時々振り返って気遣ってもくれている。今までの印象に比べて、思いのほか心優しい人物のようだ。
「加護官に気を付けて。護女の脱走を許さないから」とエーミは淡々と注意する。
レモニカは少しだけ息せき切って言う。「何をどう、気を付ければいいのですか? もしも捕まったらどうなりますの?」
「前に沢山の護女が脱走した時は誰一人捕まらなかったらしいから分かんない」
「沢山の少女の内の一人も捕まえられない加護官などおそるるに足りませんわね」
「でも誰も捕まえられなかった加護官の長は……酷い目に遭ったらしい」
「では、わたくしたちが脱走に成功すれば……」
「やめとく?」
「やめませんわ」
とうとう敷地を囲む壁までやってくると、エーミが振り返ってレモニカの両手を取る。どうやら同じ年頃の少女に変身しているらしいとレモニカは気づくが気づいていないふりをする。生々しい人間関係とは無縁でいたい。
エーミが早口に小動物に語り掛けるような声音で呪文を唱えると、二人の少女は羽根の塊のような柔らかな風に包まれて、優しく持ち上げられ、高く堅い石壁の頂に上る。しかしそこから見えるはずのジンテラの街ではなく、真っ暗な夜闇どころか、まるで黒い壁を凝視しているかのような景色が現れる。
「これは、街はどうなっているのですか?」とレモニカはエーミに尋ねる。
「どうもなってないよ。エーミには普通の街に見える」とエーミは黒い壁を見つめて言う。「どうにかなってるのは君。えっと、ケブシュテラ。君がこの寺院の敷地に封印されているからだよ」
「もしもわたくしがこの闇に飛び込んだらどうなるのでしょう」
「別にたいしたことにはならないよ。少なくとも脱出できないのは間違いないけど。さあ、言う通りにして。まず目を瞑る」
レモニカは素直に目を瞑り、新たな、しかしなじみ深い瞼の裏の闇を見つめる。
「次に光が現れる」そう言ってエーミは再び呪文を唱える。今度の呪文は何かに命じるような厳めしい声色だった。
確かにレモニカの瞼の裏に光が現れた。光というよりは炎だ。立ち上るように揺らめいている。蛍のように飛び回るが、ずっと強い光を放っている。
「絶対に目を開けないで、その光を捕まえて」とエーミは言うが、レモニカは困惑する。
「どうすればよろしいのですか?」
「どうすればって。普段やってるようにだよ」
エーミの言葉は腑に落ちなかったが、レモニカは試しに両手を伸ばす。すると自分の両手が、見えて、思わず瞼を開きそうになる。驚くのも当然だろう。レモニカにとって自身の瞼の裏に自身の手と腕が現れたのはこれが初めてだ。
「何が何やら」と言ってレモニカは、己の瞼の裏の両手を眺める。
それは本当の両手に見える。つまり幻ではないと同時に、別の何かに変身した時の、赤の他人の両手ではない。魔法少女に触れたり、シャリューレのそばにいた時に何度となく見た自分本来の両手のように見える。
レモニカは己の手に勇気づけられ、決心し、目の前に踏み出せば壁の下に真っ逆さまだということを忘れないようにして光の方へ手を伸ばす。
光は逃げたりせずに、簡単にレモニカの両手に収まり、閃くような稲光を放った後、再び瞼の裏は黒に塗りつぶされた。
「捕まえましたわ。次はどうすればよろしいの?」
「次はない。目を開いていいよ」
レモニカが目を開くと、そこにはジンテラの輝かしい街並みが広がっていた。世界のどこよりも救済機構の篝火が焚かれた街は、星々の隠したる神秘の夜を削り取らんばかりに煌々と夜空を照らしている。
光を捕まえたはずの手はいつの間にか体の横に垂れ下がっている。ずっとそこにあったかのような感覚にレモニカは静かに混乱する。
「今ので封印を解いた、ということですか?」
「うん。その通り。ケブシュテラは筋が良い。この魔術は栗の毬を素手で剥くくらい難しいのに、林檎の皮を素手で剥くくらい簡単にやってのけた」
「林檎の皮を素手で剥くのも難しいと思いますが、まあ毬栗を剥くよりは簡単ですわね」
レモニカは再びエーミの手を取って風に包まれて地上へ降りる。
「ありがとうございます。エーミさま。お陰で助かりましたわ」
エーミはじっとレモニカを見て首を横に振る。「まだ助けてないよ、ケブシュテラ。君の封印は二つある。この壁を越えさせない魔術と、このジンテラから出させない魔術」
絶望的な表情にならないように、レモニカは無理にでも微笑みを浮かべる。「そうでしたのね。しかしこれ以上貴女にご迷惑をかけるわけにも」
「迷惑だったら初めから助けてない。むしろ助からない方が迷惑だよ。迷惑だから助かって」
エーミの言い草にレモニカはおかしくなって噴き出す。
何か言おうと口を開きかけたレモニカの機先を制するようにエーミが言う。「どうしてここまでしてくれるの、って言いたそうな顔してる」
レモニカは驚いて開きっぱなしになった口を閉じ、再び開く。「まさにその通りのことを言おうと思っていましたわ。どうしてですか?」
「困ったときはお互い様。そう思ってるからだよ」
そう言ったエーミの顔は至極真面目なものだった。それに応えるように受け止めるようにレモニカもエーミを見つめ返す。
「承知いたしました。ではご助力願いますわ、エーミさま」
「エーミで良いよ。さあ、行こう」
エーミの綿のように柔かな手に手を引かれ、レモニカは聖都ジンテラの厳かな夜を迎え入れた街を行く。昼間よりも遥かに活気に溢れている。チェスタに連れられてやって来た数日前の昼時は、確かに人が往来しているのに、まるで世の果ての何もかもが砂に還った僻地の廃墟のように静まり返っていた。彼らの生活は昼夜逆転しているとでもいうのか、今起きてきたばかりのように溌剌として営みを送っている。
眩い光の中を行くと、レモニカの体に力が漲って来るように感じられた。松明のぱちぱちという音がレモニカを祝福し、篝火の煌めきがレモニカの魂を照らし出してくれる。少しばかりの焦げ臭さは妙な焦燥感を覚えさせた。レモニカが思っているよりも庫裏での生活に堪えていたのだ。
ふとレモニカはおかしなことに気づくが、先を行くエーミを引き留めることなく尋ねる。
「そちらでよろしいのですか? エーミ。ジンテラの外縁は、まあ、どちらの方向にもあるのでしょうけれど、わたくしは近道を参りとうございます」
「そもそも外縁から出る方法はエーミも知らない。でも脱出方法を知る方法は知ってる」
意味は分かるがレモニカは眉根を寄せて困惑する。
「込み入っているのですわね。具体的に何を求めていらっしゃるのか、お聞きしてもよろしいですか?」
エーミは滔々と説明を始める。「聖ラムゼリカ焚書寺院にある、焚書機関が管轄している魔導書『深遠の霊杖』。松明でもあるそれに火を灯して握ると千里眼の力を得るんだよ。それは自分の欲しているものがどこにあるか把握できる。結界を脱出する方法みたいな概念でさえ見つけられる」
レモニカはさすがに足を止め、エーミを引き留める。
「ちょっと待ってください。それって焚書機関の寺院に飛び込んで魔導書を奪うということですか?」
「飛び込まないよ。忍び込む。それに奪わなくても、使わせてもらうだけでいいんだよ」
レモニカは高まりつつある己の声を鎮める。「そういう問題ではなく、とんでもなく危険なことだと思うのですが。それこそ最たる教敵に認定されかねない所業では?」
「そうかもしれないけど、それじゃあどうするの? 戻る? それとも一か八かよく知らない封印を解こうとしてみる?」
最も良かったのは、このように行き当たりばったりではなく、きちんと計画を立てて臨むこと、だっただろう。今更言っても仕方ないことをレモニカは承知している。
「分かりました。もう後戻りなんてできませんものね。参りましょう、エーミ。焚書機関の寺院、聖ラムゼリカ焚書寺院へ」