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──自我なんて、重すぎたのよ。
異形の光が、滴るように天井から降ってくる。
ここは《契約の祭室》。現実ではない、しかし現実より濃い場所。
白い肌が冷たい床に沈む。ルーチェは身を屈め、長い黒髪を仰け反るように解いた。
その赤い瞳には、血よりも深く、絶望よりも静かな光が揺れていた。
「ねえ……仮面の王様。わたし、もう“自分”でいたくないの」
ローブの影が揺れた。
仮面の奥の彼は、依然として何も答えない。だが、それでいい。それがいい。
沈黙は、彼の本質。彼の意志。彼の優しさであり、残酷さでもある。
「ねえ、今日だけは──優しくして……」
ルーチェは囁きながら、仮面の下に手を伸ばす。
だが、その仮面は落ちなかった。外れるはずもない。
代わりに、彼の指がそっと彼女の手を包む。ひどく冷たく、ひどく確かに。
それだけで、ルーチェの呼吸が乱れる。
「……ああ、あなたが、あなたでいてくれるなら……わたしは、消えていい」
その言葉と共に、彼女の赤い瞳が淡く揺らいだ。
まるで意識と記憶が、霧となって剥がれ落ちるように。
契約の刻印が、彼女の肩から胸へと、淡い光を放つ。
それはただの魔法陣ではなかった。“存在”の接続痕──魂の継ぎ目。
フォールン・ロードは黙したまま、指先を彼女の額へと重ねる。
その瞬間、空間が──“軋んだ”。
鋼のように冷たく、肉のように柔らかい世界が、ひとつ、裏返る。
「…………あ」
ルーチェの視界に、白と黒の階層反転構造が映る。
上下も重力も意味を失い、彼女の周囲には意味だけが増殖する空間が、胎動していた。
《……識別コード:Lilith_Sequence_143。汝の存在を再構成しますか?》
それは、声ではなかった。
存在そのものへの問い。
呼吸でも思考でもなく、ただ“ある”というだけの干渉。
《我、汝に名を与えん。無き名を。無限の終わりを》
彼女の身体から、“概念”が剥がれていく。
「私はルーチェである」という名。
「私は女性である」という性。
「私は個人である」という前提。
すべてが淡く、ほどけて、崩れていく──
それは至福に似ていた。
「……ああ……これで……やっと“わたし”じゃなくなれる……」
それは本当の意味での“契約”だった。
ルーチェが願ったもの。
アイン=ソフィ=ウルが与えるもの。
自我の消滅と無限への回帰。
消失と、神聖の融合。
だが──その時。
フォールン・ロードが、彼女を抱きしめた。
その腕の中に、“重さ”があった。“温度”があった。
彼の中に流れる、かすかに青い魔力が、この世界から彼女を切り離す刃を、そっと鈍らせる。
「っ……なんで……っ、拒まないの……!?」
ルーチェが叫ぶ。自我が崩れながらも。
その声に、仮面の下の男はただ、息をする。
何も言わずに、存在する。
アイン=ソフィ=ウルの干渉が、軋んだ世界の歪みの中で、静かに霧散する。
《……汝の存在座標、固定されました。再構成中断》
声なき声が、無に還った。
ただの沈黙が、部屋に戻ってくる。
ルーチェは、フォールン・ロードの腕の中で嗚咽を漏らした。
それは泣き声ではない。
それは言葉でもない。
それは──彼女が、まだ“彼女”でいられるという、証だった。