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待ち合わせ場所として教えられた荘厳な建築物に面したカフェで、着ている服装からすればもっと姿勢良く座りなさいと苦言を呈されかねない態度で椅子に腰掛け、辺りをちらちらと窺っているのは、今日こそは恋人とのフォーマルなデートをすっぽかすまいと固く誓っていたリオンだった。
タキシード着用でクラシックコンサートなどに出席すれば、緊張と初めて聞くクラシックが今までリオンに与えてくれていた心穏やかな眠りへと背中を突き飛ばすことは疑う余地もなかったが、ここ数日来の出来事でウーヴェにだけは恥を掻かせたくないプライドから、何が何でも最後までコンサートを聴いてやるとも誓っていた。
まずその手始めに、今回の一連の騒動を生み出すことになったパーティには出席できなかった後悔から今日は遅刻も土壇場でのキャンセルも絶対にしないと決め、同僚達が呆れる程の早さで仕事を終えると同時に帰宅したのだ。
その気合いの入れようは周囲からすればおかしな事ではあった為に、足早に警察署を出ようとするリオンを面白半分に引き留める同僚もいれば、笑って送り出しながら明日のランチで失態話を期待していると唇の端を持ち上げる同僚もいるほどだった。
そんな同僚達の同情なのか嘲りなのかが微妙すぎて分からない笑みをさらりと受け流し、待ち合わせまで30分も余裕がある時間にタキシードに身を包んだリオンがタクシーから降り立ち、緊張から来る浮ついた気持ちを静めて喉を潤したい為にカフェに入り、外に面したテーブルに腰掛けてミルクたっぷりのコーヒーを飲んでいたのだ。
煙草を口の端に銜え、急に吹き付けた寒風にコートの前を合わせて身体を震わせ、同じように寒さに震えながら足早に通り過ぎる人たちを見るとはなしに見ていたリオンだったが、足早に通り過ぎる人々の間に小さな身体が見え隠れしている事に気付いて煙草を揉み消すとつい癖のように目でその姿を追いかける。
特徴的な赤いコートに身を包み、母親か父親かは分からないが彼女を愛する大人が寒さから小さな身体を守るための帽子を被らせ、小さな手には相応しいこれまた小さな手袋をしていた。
その暖かそうな姿は幼い己の姿と重ね合わせると直視できないほどの光を放っているように感じてしまって視線をそらせた時、耳に馴染んでいるが初めて聞く人でさえも何故か不思議と落ち着ける声が名前を呼んだことに気付いてゆっくりと顔を振り向ける。
そこには薄手のコートを羽織りながら少しだけ肩で息をしているウーヴェが立っていて、思わずその容姿に見惚れてしまう。
スーツ姿を初めて見る訳ではないが、タキシードに身を包むウーヴェを見るのは初めてだった。
職業柄同じ医師同士や著名人が顔を出すようなパーティに出席するため、時には嫌々ながらもタキシードを着ることがあるとは教えられていたが、自分とは違ってタキシードに着られている雰囲気は全くないどころか自分を表現するための手段として活用できている姿にただただ感心するあまりぽかんと口を開けてしまい、ウーヴェに疑問の声を発せさせる。
「リオン?」
「へ?あ、や、うん・・・仕事終わったのか?」
「ああ」
よく考えれば仕事が終わったからこそこうしてここに立っていられるのだが、その事についてウーヴェは何も言わずにいた為にリオンも気付かずに照れたような笑みを浮かべ、コーヒーを飲んでたと告げて隣の椅子を視線で示す。
「タクシーで来たのか?」
「仕事終わって大急ぎで家に帰って着替えてきた」
借り物ではない自分のタキシードを初めて着るからか、何だか随分と肩が凝ってしまうと眉尻を下げながら囁いたリオンにウーヴェが小さく吹き出し、そのコーヒーを飲んでから中に入ろうと目を笑みの形に変化させる。
「・・・似合ってるよなぁ、オーヴェ」
「そうか?」
「そう。うん・・・思わず見惚れちゃったぜ」
リオンの素直な誉め言葉が胸に柔らかな強さで突き刺さり、一瞬覚えた息苦しさにウーヴェが顔を背けて小さく息を吐くと、リオンが身体の緊張を解きほぐすように大きく伸びをする。
「な、一応マザーやゾフィーに聞いて来たんだけど、俺の格好おかしくないか?」
コーヒーを飲み干して気合いを入れるように両頬を叩いたリオンが反動をつけて立ち上がり、コートの前を広げながらウーヴェの前でくるりと一回転する。
「・・・・・・」
どうだろうと不安と期待を滲ませた顔で問い掛けるリオンにウーヴェはどんな言葉も返さずにただじっと見つめ、どうしたんだと問われてようやく我に返ったらしく、咳払いをしながら似合っていると小さく笑みを浮かべる。
「コートを脱げば似合っていることがもっと分かるな」
「そっか?」
「ああ」
現にリオンの後ろを通る女性が好意の視線を向けながら遠離っていくのを目の当たりにし、自分の言葉に疑いの眼差しを向けるリオンに本当だと肩を竦めたウーヴェは、そろそろ時間だし先生を待たせるのは気分的に好きじゃないと告げて立ち上がり、会場となっている建物へと向かうのだった。
確かにウーヴェの言葉通り、コートを脱いでクロークに預けたリオンはホール内にいる女性達の視線を少なからず受ける存在だった。
くすんだ金髪はいつもとは違って無造作ではなくちゃんと計算された上でのお洒落だと教えるように丁寧に結わえられ、耳にはウーヴェがプレゼントしたその夜から決して外されることのない青い石のピアスを控えめに煌めかせていたが、前髪を掻き上げるタキシードの袖口から見えるカフリンクスはピアスと同じ色のものだった。
リオンがカフリンクスをしている所など今まで見た事がなかったウーヴェがそっと顔を寄せてどうしたと囁けば、悪戯小僧の顔のまま笑みを浮かべてジルから借りて来たと返される。
「・・・ネクタイは?」
「これはコニー。あ、ついでに靴も。ハンカチはダニエラ」
みんなから借りて今己を着飾っているが、そもそもタキシードの上下もウーヴェに買って貰ったもので、自前のものと言えばこの身体しかないと肩を竦めるリオンにウーヴェが緩く顔を左右に振る。
「本当に大切なことは他にある。そうだろう?」
「・・・うん」
ここに借り物だらけの衣装で訪れていようが周囲の目にはそんなものはどうでも良く、本当に問題なのは中身だと目を伏せるウーヴェの言葉にしっかりと頷いたリオンは、卑下してるんじゃねぇと言い訳じみた事を呟いて高い天井を見上げる。
こんなにも格式張った場所に来たのは仕事を除けばほとんど無く、出るのはただただ感嘆の溜息で、それに気付いたウーヴェがリオンのジャケットを軽く引っ張って注意を向けさせる。
「オーヴェ?」
「・・・俺は中身のない人間は好きじゃない」
「・・・・・・うん。ダンケ、ウーヴェ」
密かな告白をしっかりと受け止め、つい先程まで胸の裡に居座っていた暗い感情を溜息とともに昇華させたリオンは、ウーヴェが呼吸を忘れてしまうような笑みを浮かべて力強く頷くと笑みの質を切り替えてトイレと呟き、感心している様子のウーヴェを唖然とさせてしまう。
「・・・早く行ってこい」
「自然は待ってくれねぇからさ」
リオンの言葉にただ溜息をついて背中を拳で一つ叩いたウーヴェは、走り去る背中にカウンター前で待っていることを伝えて苦笑し、ロビーの片隅で提供されているドリンクを貰う為にカウンターへと向かうが、その背中に穏やかな声が投げ掛けられて振り返る。
「待たせたかな、ウーヴェ」
「先生。今日はご招待をありがとうございます。喉が渇いたので何か頼もうと思っていたのですが、先生はどうですか?」
「いやいや、コンサート中に寝てしまってはいけないから今日は飲まないようにと妻にきつく言われているのでね」
せっかくのお誘いだが今はガマンして食事の時に楽しもうと片目を閉じて茶目っ気たっぷりに笑うアイヒェンドルフにウーヴェが了解の意味を込めて目を細め、自分は飲むのを止めるつもりはない為にビールを注文するが、恩師が何かを聞き出したい顔をしていることに気付いて苦笑する。
「きみの大事な人はどうしたのかね?」
一緒に来てくれと手紙に書いたはずだがと周囲を見回して己が思い描いている人物と合致する容姿の人が見当たらないことに首を傾げ、ステッキで軽く絨毯を突いて上目遣いに見つめてくる彼に苦笑し、自然に呼ばれていると婉曲に伝えれば恩師の目が丸くなった後好意的に細められる。
「では一緒に来てくれたのだね」
「はい」
グラスの中で弾ける琥珀の泡を見つめながら小さく頷くウーヴェにアイヒェンドルフも頷き、ならばコンサートを楽しんでその後の食事会を楽しもうと嬉しそうに笑みを浮かべる。
「・・・戻ってきました」
ウーヴェの声に期待を込めて顔だけを振り向けたアイヒェンドルフは、スラックスのポケットに片手を突っ込んで大股に歩いてくる背の高い青年の姿を見、ウーヴェの顔を見つめた後もう一度振り返ってその青年の左右や後ろに女性の姿がないかどうかを確認するが、それを確かめるよりも先にリオンがウーヴェの隣にごく自然な態度で並び、もうビールを飲んでいると口を尖らせる。
「喉が渇いたんだ」
「そんな言い訳は聞こえません。ったく、目を離すとすぐに酒を飲むんだからなぁ」
そんな二人きりの時ではごく当たり前の会話だが、アイヒェンドルフの存在に気付いたリオンが目を丸くした後、驚きに染まる顔を失礼にならない程度に見つめ、自己紹介をしつつ手を差し出す。
「リオン・H・ケーニヒです。今日はご招待下さり、ありがとうございます」
「あ、ああ、アイヒェンドルフだ・・・こちらこそ、来てくれてありがとう」
呆然とリオンの手を握り返したアイヒェンドルフは、己よりも頭一つ以上背の高いリオンを見上げ、意味ありげにウーヴェを見た後で咳払いを一つしながら片手を立ててすまないと謝罪をする。
「先生?」
謝罪の意味を教えて欲しいウーヴェと、また違う意味で不安を感じているリオンが同時に彼を見つめるが、もう一度咳払いをしたアイヒェンドルフが不意に表情を切り替えて厳めしい顔で二人を交互に見つめる。
「きみがバルツァー会長の護衛をしていたと?」
「Ja.仕事で護衛を頼まれました」
「そうか」
リオンの言葉にアイヒェンドルフが仰々しく頷き、眼鏡の下の瞳に不安を浮かべる愛弟子を見つめた後、二人の肩を同時に撫でる。
「そろそろ時間だ、席に着こう」
「・・・はい」
三人の胸の裡には問いかけたい言葉や伝えたい思いが溢れかえっていたが、開演の時刻が近づいている事を周囲の人々の動きから察したアイヒェンドルフの言葉に皆が口を閉ざして頷き、ホールに向かう人の後についていくのだった。
「────乾杯」
「乾杯」
タキシードやドレスで着飾った人達が談笑するテーブルの最も奥まった席に座り、ワイングラスを目の高さに掲げたアイヒェンドルフが乾杯と告げた為、並んで座っているリオンとウーヴェも小さく返しながらグラスの縁を触れあわせる真似をする。
「・・・美味しいワインだね」
「そうですね。この間友人の店でチリ産のワインを飲んだのですが、口にあってついつい飲み過ぎました。今日も飲み過ぎそうです」
アイヒェンドルフとウーヴェがワイン談義に花を咲かせ始めたのを尻目に、いつもと比べれば借りて来た猫のように大人しくオードブルを口に運んでいたリオンは、オードブル-リオンにはメニューと実物を同時に教わらなければ全く分からない料理方法で調理されているもの-が隣の席からそっと押しやられてきた事に軽く目を瞠り、嬉しさと呆れを同時に感じて溜息を一つ零す。
こうして食べ物をそれとなくリオンに差し出してきた事からこの食事会をウーヴェが心底楽しんでいる事を教えてくれてはいたが、端正な顔に穏やかな笑みを浮かべている恋人の非常に性質の悪い癖として、心底楽しんでいる時には酒の量が増えて食べることを疎かにすることがあった。
のべつ幕なしに飲んでいる訳ではない為、余程親しくなければ気付かれることのない悪癖だが、さすがにこういった席ではリオンも無粋な忠告をするつもりはなかった。ただ、飲むのならばそれに見合うだけのものを食べて欲しいと思ってしまうのだ。
悲喜交々の思いを胸の裡に納めながらもやるせない溜息を零したリオンにウーヴェが気付いたのか、些かばつの悪い顔で食べてくれと囁いてくる。
「・・・メインは絶対に食うか?」
この後サラダやスープと続き、今日のメインである肉料理はしっかりと食べるのかを問いかけるがなかなか返事はなく、オーヴェと低く名を呼べば諦め混じりの溜息がテーブルの上にこぼれ落ち、デザートまでちゃんと食べると宣言した為にリオンがにっこりと笑みを浮かべて隣の席の恋人を褒めるように約束だと呟く。
その二人のやり取りを見守っていたアイヒェンドルフは内心の驚きをどうにかこうにか抑え込んでグラスのワインを飲み、さり気なさを装ってリオンの名を呼んで二人の視線を集めさせる。
学生の頃、同級生達との間に柔らかいが一線を越えようとするものには容赦なく硬くなる見えない壁を築いていたウーヴェだったが、まさか今こんな風に穏やかに恋人とは言え他人の言葉を聞き入れて素直に頷く姿などあの頃からは想像出来ず、リオンと名乗った青年との関係が本当に良好なものである事を教えてくれていたが、一体どこでどうして知り合い、そして事件についてどこまで知っているのかを知りたくなるが、せっかくの楽しみの場で愛弟子の精神状態が不安定になる様な話題を提供するわけにもいかず、咳払いをした後で仲が良いんだねと穏やかに笑ってグラスをテーブルに置く。
「学生の頃からオー・・・ウーヴェは食べる事よりも飲むことを優先していたんですか?」
ウーヴェの名を呼び直した事にウーヴェが軽く目を瞠り、アイヒェンドルフも何かに気付いて目を細めるが、学生の頃はほとんど食べなかった事を告げたため、この一事から過去の出来事を辿って行かれては堪らないウーヴェが口を塞ぐように恩師を呼ぶ。
「先生・・・!」
「授業が終わって一緒に食事に行っても小さな子どもと同じぐらいしか食べなくて、一度無理に食べさせたら大変なことになったよ」
その大変なことを今ここで告げるには憚りがある為に黙っているが、今見ている限りでは食べるようになってきたとアイヒェンドルフが片目を閉じた為、リオンも安堵に胸を撫で下ろしながら苦笑する。
「もっと食べて欲しいと思うんですけどね」
「太る心配はしなくても良さそうだから、もう少し食べた方が良いとは思うね」
肩を竦めながら、それでも以前に比べれば食べるようになったのならば良いかと自身を納得させるリオンの横ではウーヴェが顔を赤くしたり青くしたりと大忙しで、ワインのお代わりに手を伸ばしている暇がなく、皮肉なことにリオンの思惑通りに酒を飲むペースが緩やかになってしまう。
「・・・先生、そろそろ話して下さっても良いのではありませんか?」
「何をだね?」
咳払いをして己の過去で盛り上がろうとする二人を制止し、そもそも今日の招待の理由を話してくれとウーヴェが苦笑すると、リオンも一瞬にして表情を切り替えて背筋を伸ばす。
「きみの恋人を一度見てみたかったと前に言っただろう?」
「それは・・・お聞きしました。でも本当にそれだけなのですか?」
「もちろん。と言いたいが、来週に赴任先の病院がある町へと引っ越すことが決まったんだよ」
だからその前にどうしてもきみとこうして食事をし、楽しい時間を持ちたかったとグラスを掲げたアイヒェンドルフに教えられて軽く目を瞠ったウーヴェは、引っ越しをせずとも通えばいいのにと、この時ばかりは己の残念さを隠すこともせずに眉を寄せてテーブルの上で拳を握るが、環境の良い場所で過ごしてみたくなった事と、妻の病気の静養もかねていると教えられてしまっては己の我が儘を押しつけるわけにはいかなかった。
先日のパーティで久しぶりに再会をしたときには以前と変わらない元気な姿だったが、見えない病を抱えているのかと問いかけようとしたウーヴェの舌が、恩師の表情と声から察した事柄に縛り付けられたように動きを止めてしまう。
「パーティで会えて本当に良かった、妻もそう言って喜んでいたよ」
「・・・・・・私も、久しぶりにお会いできて嬉しかったです」
恩師と長年ともに歩んできた夫人が抱えている病の予測を付け、それが間違っていない事にも気付いた衝撃と寂寥感はどうしても拭い去れなかったが、夫人が最も信頼をしているアイヒェンドルフが穏やかに全てを受け入れている態度だった為、またウーヴェが口を挟むことを遠慮してしまう。
「仕方がない事だよ、ウーヴェ。いつか訪れる事だ」
アイヒェンドルフの言葉にウーヴェが悔しさや寂寥感が滲んだ双眸を伏せた様子からリオンもデリケートな、だが決して避けて通ることの出来ない話をしている事を察してウーヴェの腿にそっと手を載せれば、テーブルクロスと身体の影になって見えないからか、それとも不安を感じているからか、その手に手が重ねられて指の間に指を差し入れてくる。
それをそっと受け止めて言葉ではなく温もりで思いが伝われと願いつつ、恋人とその恩師の会話を黙って耳を傾けていたリオンにアイヒェンドルフが顔を向け、暗い話をしてしまったねと自嘲気味に笑った為、問題ありませんと頷きタイミング良く運ばれてきた料理に表情を切り替える。
「美味そう・・・!」
「・・・ああ、そうだな」
「飲み物はどうする?何か頼もうかね?」
「俺はビールで。ウーヴェにはワインをお願いします」
二人とも今日は電車かタクシーかと問われて二人同時にタクシーですと返せば、アイヒェンドルフがにこにこと笑みを浮かべて頬杖をつく。
「本当に仲が良さそうで良かったよ」
同じ事柄に関して同じ思いを持てる相手と一緒にいられるのは本当に幸せな事だが、ウーヴェも彼の忠告を素直に受け止める必要があると笑って諭されて神妙な面持ちで頷き、その横ではリオンが仰々しく本当にその通りだと頷くと、眼鏡の下の双眸が冷たく光る。
「・・・デザートはベリーのタルトだったな」
「・・・・・・まさか」
「俺に沢山食べて欲しいんだろう?だったらデザートを食べることにしよう。それで文句はないな、リオン・フーベルト?」
リオンが決して逆らうことの出来ない綺麗な笑顔を浮かべ、驚愕に目と口を丸くするリオンの顎を人差し指で軽く持ち上げたウーヴェは、恋人の口からあぁだのうぅだのと意味を成さない言葉が流れ出した事に気付き、ケチの付けようのない笑みを湛えてありがとうと礼を言う。
「・・・オーヴェのトイフェル・・・アクマっ」
「人聞きの悪いことを言わないで欲しいな。飲むのなら食べろと言ったのは誰だ?」
「食えって言ったけどさ、確かに言ったけど・・・!」
何もデザートだけ人の分まで食べなくても良いだろうと悲しそうに肩を落とすリオンにアイヒェンドルフが呆気に取られた顔を浮かべるが、お代わりしたビールとワインが運ばれてきたと同時に堪えきれずに笑い出してしまう。
「先生・・・?」
「本当に・・・仲が良いようで安心したよ」
「ウーヴェって本当はトイフェルなんです。尻尾を隠してるんですよ」
「おや、そうだったのかね?それはそれは見てみたいものだ」
酷いと思いませんかと泣きべそを掻きながら恋人の恩師に迫るリオンを睨み付けるウーヴェだが、己の恋人が男だと知った恩師の口や態度から嫌悪感が出なかった事に今更ながらに安堵し、物事の本質を慣習や宗教上の理由などのフィルターを通しても正確に見抜く人である事を改めて思い出し、アイヒェンドルフに師事した時間は自分にとって掛け替えのない宝である事にも気付く。
大学の頃は高校ほど酷くはなかったがそれでも他者との間に壁を作って暮らしていた。
その壁の存在を認めながらも見守ってくれていた恩師に心の中で礼を言い、ワイングラスを目の高さに持ち上げて穏やかな笑みで恩師を見つめる。
「先生、本当にお疲れさまでした。そして、新たな病院でのご活躍をお祈りしています」
ウーヴェの言葉にリオンもグラスを手に取り、新たな旅立ちにと唱和すると、照れたように目を細めるアイヒェンドルフが持つグラスに軽く触れあわせ、その後の料理を三人で目と舌で味わい、アイヒェンドルフが望んだ楽しい時間を過ごすのだった。
「今日はありがとうございました」
「今日のような楽しい時間を過ごせて本当に嬉しいよ。ありがとう」
リオンがアイヒェンドルフの手を握って礼を言っている横で、眼鏡の下の双眸を少し曇らせたウーヴェが恩師を見て笑みを浮かべ、差し出された手をしっかりと握る。
「・・・あちらでもどうぞお元気で」
「ありがとう。来ることがあれば顔を見せてくれたまえ」
「はい」
温かく時には茶目っ気を込めた目でいつも見守ってくれ、穏やかに己が目指す背中を見せながら導いてくれた恩師の言葉に有りっ丈の思いを込めて頷き、必ずお伺いしますと告げて手の温もりを忘れないように肌と脳味噌に刻み込む。
大学在学中には密かに父のようにも感じていたアイヒェンドルフの新たな旅立ちを祝う為に笑みを浮かべ、奥様にもよろしくお伝えくださいと目礼をすると、アイヒェンドルフもありがとうとゆったりと頷いて歯を見せる。
「さて。ではそろそろ帰ろうか」
レストランの前でタクシーを待っていたアイヒェンドルフがこちらに向かってくるタクシーに気付いて手を挙げ、振り返って二人に目を細める。
「次に会うときは君たちの結婚式になるのかな?」
「先生っ」
「や、そうだと良いですね」
アイヒェンドルフの悪戯っ気と本気が絶妙に混ざり合った言葉にウーヴェが珍しく慌てふためき、その横ではリオンがにこやかに笑みを浮かべてその通りになりたいと頷いているが、少し落ち着きを取り戻したウーヴェが咳払いをしてその時は必ず先生に招待状を出しますと笑みを浮かべ、期待しているとの答えを貰って笑みを深める。
「先生、タクシーにお乗り下さい」
「そうしようか。・・・今日は本当に楽しかったよ。ありがとう」
「ありがとうございました。お休みなさい」
タクシーの助手席に乗り込んで窓を開け、さり気なくも紳士な態度でステッキを軽く掲げるアイヒェンドルフに二人同時に頷いて満点を与えるときの顔で頷かれて苦笑し、走り去るタクシーが角を曲がるまでじっと見送ると、どちらからともなく溜息を零して一方は石畳を見つめ、一方は曇り始めた夜空を見上げる。
「・・・帰ろうか、オーヴェ」
「・・・ああ」
ここから電車を使うかタクシーを使うか、ほぼ同時に切り出した二人だったが、それ以上どちらも言葉を発する事は無く、結局リオンが腹を括ったようにタクシーで帰ろうと宣言し、次いでやってきたクリーム色の車に向けて手を挙げると、ウーヴェが頬をひとつ叩いた後で後部席のドアを開けて乗り込むリオンに続いて乗り込み、自宅の住所を告げる。
楽しい時間を過ごしたはずの二人だったが、タクシーの中ではウーヴェはずっと窓の外を見つめ、リオンが時折話しかけてくる運転手の話に愛想良く付き合っていた為か、二人の間に会話らしい会話は交わされることはないのだった。
沈黙したままアパートのエレベーターに乗った二人だったが、ウーヴェの手がぴくりと動いた後、やや躊躇いがちながらもしっかりと意思を持ってリオンの手に触れた為、リオンもその動きの意図を察して掌に掌を重ねて指を曲げれば、躊躇いを振り解いたウーヴェが強く握り返す。
「どうした?」
「・・・・・・リオン」
「うん。ここにいるぜ」
自宅フロアに辿り着き、片手でドアを開けたウーヴェが背後でドアが閉まった事を確認すると足早に廊下を進み、ウーヴェの手に引かれるようにリオンがついていくと、ベッドルームのソファに力なく座り込んだ為、その横に座って白い髪を撫で付けてやり、眼鏡もそっと外しながら見えた額にキスをする。
「オーヴェ」
その胸に抱えた思いを口にしろと囁きながら額やこめかみにキスをし、優しく髪を撫で続けているとウーヴェの身体がリオンの方へと傾いでもたれ掛かってくる。
その甘えるような仕草が珍しさと胸の中で言葉に出来ずにいる思いがどれほどのものであるかを教えてくれたようで、肩を抱いてそのままソファに倒れ込んで乗り上げてくるウーヴェの腰に手を回す。
「今日は楽しかったな。初めてクラシックのコンサートを聴いたけど寝なかったぜ」
「・・・そうだったな」
「うん。生で聞いてみたらまた全然違うよな。結構好きかも、俺」
その後の食事の時間は楽しかったし有意義な時間だったと笑みを浮かべた直後に表情を切り替え、先生が向こうに行ってしまうことは本当に残念だなと囁いてより強く身体を寄せてくるウーヴェの背中を撫でて恋人の肩越しに天井を見上げる。
余程アイヒェンドルフの事を敬愛している事が自然と伝わってくる態度に口を挟むことはせず、ただ残念だけどまた会えると突き抜けたように笑えば、怪訝な顔で見下ろされた気配に気付いて視線を重ねて目を細める。
「ほら、次は結婚式かって言ってただろ?」
「あれは・・・」
「え、オーヴェ、もしかして俺と結婚するのイヤなのか!?」
「!?」
ヒドイひどい、そんなのあんまりだぜハニーと泣き真似をしながら見上げるリオンに呆気に取られたウーヴェだったが、肩を揺らして何とか込み上げてくるものを抑え込もうとしてもどうしても堪えきれずに小さく吹き出し、そんな情けない顔をするなとリオンの額を指先で突く。
「リオン」
「お願いハニー。結婚するって言ってくれよ・・・!」
まるで胸の前で手を組んでお願いと縋るような声にウーヴェが声に出してくすくすと笑ってしまい、笑うなと笑うリオンの肩に額を押しつけてその温もりを確かめる。
結婚式かとアイヒェンドルフが笑った言葉の裏には少しばかりの悪戯と本気が込められている事をしっかりと見抜いていたが、結婚の言葉を思い浮かべたことなど無かった。
女性との結婚でさえまともに考えることもなかった自分が同性の年下の恋人と結婚するなど、以前のウーヴェならば逆さまにして頭を振ったとしても落ちてこない考えだったが、今体中で感じている温もりの持ち主が告げた言葉に対しては何故か嫌悪感も否定的な意見も沸き起こらず、思わずそれも良いなと口をついて出そうになるのを何とか堪え、返事をしてくれよと情けない声で催促されて口元に笑みを浮かべながら顔を上げ、間近にある男の貌を見つめて目を瞠る。
声は情けないもので鼻を啜るような音すら聞こえた為に見える表情は声に相応しいものだと思っていたが、じっと見つめてくるリオンの表情は穏やかさと真摯さが入り交じった不可思議なもので、鼓動を一つ跳ね上げながら無言で目を伏せて口を開く。
「リーオ・・・俺の特別な人・・・今はこの言葉で・・・許して、欲しい・・・」
「────その言葉だけで満足だ」
結婚してくれと言ったのは嘘ではないが、勢いもあるから自分たちの未来のことはちゃんと二人で向き合って決めようと笑われて安堵の溜息を零し、身体から力を抜いて再度リオンに寄りかかる。
「着替えてさ、軽くシャワー浴びて寝ようぜ、オーヴェ」
「・・・ああ」
お前のタキシード姿は本当に目の保養になるがお楽しみはまたの機会に置いておこうと笑って起き上がり、ウーヴェの背中をぽんと叩いたリオンは、ウーヴェがそっくりそのまま同じ言葉を返すと睨んできた為、小首を傾げて意味が分からないと肩を竦める。
「・・・何でもないっ!」
「あ、まーた照れ隠しに怒鳴るんだからなー」
俺の恋人は本当に恥ずかしがり屋さんなんだからと、暢気な声を挙げて立ち上がるリオンの腰を拳でひとつ殴ったウーヴェは、聞こえてきた唸り声を無視し、タキシードをクリーニングに出すからリネンボックスに入れておけと振り返って目を細め、男と言うよりは獣の顔で睨んでくるリオンに片目を閉じるのだった。
その後二人の間に訪れた濃密な時でリオンは、ウーヴェが感じていた思いをやんわりと吐き出させ、口走ってしまった本音と熱と快感とで譫言のようにリオンを呼び続けるウーヴェをただ抱きしめ、どんなことをも考えられないように強すぎる快楽に身を沈めさせるのだった。