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又亭には、毎週木曜の午後にやってくる老夫婦がいた。
夫は気難しそうに眉をしかめては、珈琲を一口飲んで頷くだけ。
妻は明るくて、小さな声でいつも笑っていた。
二人はいつも同じ席に座る。
店の奥、陽の射す窓辺のテーブル席。
静かに本を読んだり、外を眺めたり、時々ささやくように話をしていた。
「この店、ほんとうに落ち着くわね」
「……ああ、ここだけは時間が止まってるみたいだ」
何年も、そんな風景が続いた。
けれどある日から、二人のうちひとりの姿が見えなくなった。
「いらっしゃいませ」
その日、マスターが迎えたのは、ひとりきりになった老紳士だった。
ゆっくりと歩いてきたその人は、いつもの席に腰をおろし、そして言う。
「……二つ、ください。今日も、ね」
マスターは何も訊かなかった。
ただ、静かに珈琲を二杯、淹れた。
テーブルの向こうの席に、誰もいない椅子。
その前にも、湯気の立つカップが置かれた。
老紳士は、そちらにそっと視線をやり、こう呟く。
「この香り、好きだったんですよ。
彼女……いや、うちの人は。甘さ控えめで、苦味のあるのがね」
マスターは静かに微笑む。
猫又亭は、そういう“想い”を受け取る店なのだ。
それからというもの、老紳士は一人で店を訪れるたびに、
必ず「二つ、ください」と言った。
注文はいつも同じ。
苦味のあるブレンドをふたつ。
テーブルには二人分の珈琲が並ぶ。
ときおり、彼は空席に向かって話しかける。
「今日は風が強くてね」
「花が咲いていたよ、あの道の」
「まだ、君の席は温かいままだよ」
それはまるで、今もそこにいるかのようだった。
ある日のこと。
若い女性客が、ふとその様子を見てマスターにそっと尋ねた。
「……あの人、誰とお話ししてるんでしょう」
マスターは少しだけ目を細めて、ぽつりと答えた。
「大切な人と、ですね。
今も変わらず、時間を過ごしておられるんですよ」
マスターの言葉を理解できたかどうかは分からない。
けれど、その女性も黙って頷いた。
それから何年かが経ったある日。
老紳士は、いつものように猫又亭に現れた。
けれどその日は、少しだけ顔がやわらかく見えた。
「……マスター。今日は、ひとつで」
静寂が流れる。
マスターは、それでもいつもと変わらぬ穏やかな手つきで、一杯の珈琲を淹れた。
老紳士はそれを受け取り、ひとくちだけ口に含み、ほっと息を吐く。
そして、空席の椅子にそっと手を伸ばした。
「――長い間、ありがとう。
君のぶんまで、ちゃんと味わったからね」
まるで、旅立ちの挨拶のようだった。
その日以来、彼の姿は猫又亭に現れなかった。
けれど、ふたり分の珈琲が静かに並ぶあの窓辺の席は、
今もどこかあたたかさを残している。