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又亭に吹き込む風の匂いは、季節の変わり目を教えてくれる。
それは、雨上がりの土の香りかもしれないし、夕焼けの風の熱かもしれない。
少女――澪(みお)は、今日もカウンター席に座っていた。
あれから一年。彼女はもう、目が見えないまま日々を過ごしていた。
だが、猫又亭は変わらない。
珈琲の香り。温かな湯気の立つ音。
窓の向こうの、風に揺れる鈴の音。
「いらっしゃい、澪ちゃん。今日も風が気持ちいいね」
マスターがそう声をかけると、澪は静かに微笑んだ。
「うん。今日の風は、青い。草の匂いがしたから」
マスターは感心したように頷いた。
「さすがだ。視えなくても、澪ちゃんの心はちゃんと空を見てるんだね」
澪は少しだけ笑って、言葉を探すように続けた。
「ねえ、マスター。私ね、あの時……“一日だけ目を戻す代わりに、忘れる”って、選んだでしょ」
「うん、覚えてるよ。あれは……特別な妖がくれた、儚い贈り物だった」
澪は手のひらを胸に当てた。
「……でも、私ね。忘れなかった」
「え?」
「少しだけでいいって願った。だから、きっと“名前”や“形”は消えても、あの色は……ちゃんと心に残ってる」
マスターは何も言わず、ただ優しく珈琲を淹れた。
静かに、ゆっくりと、澪の前にカップが置かれる。
「ありがとう、マスター」
風が、また吹いた。
その瞬間だった。
入り口の風鈴が、ほんの一瞬――違う音を立てた。
澪がふと顔を上げる。
「……今、誰か通った?」
「いや、誰もいないよ。風かな」
でも、マスターは知っていた。
それはきっと、**あの“特別な妖”**だったのだと。
澪の瞳に、あの日“光”を灯し、そして何かを持っていった者。
「マスター、風の匂い、変わったね」
「どんな匂いがする?」
「……懐かしい、雨音の匂い。少しだけ、泣きそうになるくらいに」
その言葉に、マスターはほんの少しだけ目を細めて微笑んだ。
きっとそれは、彼女が“忘れてしまったもの”が、
ほんの少し、季節の端で揺れたのだろう。
それからも、澪は時折店に訪れる。
目は見えなくても、彼女は“景色”を記憶に刻み続けている。
そして風が、雨を運ぶたびに――
彼女の心は、確かに“あの日”を感じているのだった。