コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
明日から10月だ。
由樹は新しい懸垂幕の箱を片手に展示場の外に出ると、立体装置の紐を外し、強すぎる太陽の日差しに顔に皺を寄せた。
「新谷くーん!」
開け放たれた窓から渡辺が叫ぶ。
「懸垂幕さあ、下ろしたら管理棟の裏の喫煙場所の隣に粗大ごみ置き場あるじゃん、そこに置いてくれる?」
「わかりました」
片手でサンバイザーを作りながら言う。
「あと、その段ボールだけど……」
渡辺が涼しそうな事務所から笑う。
「絶対にカッターで開けないでね?」
「……はい」
由樹は新しい懸垂幕が入っている段ボールと一緒に持ってきたカッターをこっそり隠した。
紐を引っ張り懸垂幕を下ろすと、新たな懸垂幕をポールにはめていく。
「全家床暖房、省エネ3冠」
白地に赤い文字で書かれた目立つ懸垂幕を、するすると上げていく。
風の抵抗のため重くなる紐を必死につかみ上げると、由樹は残りをポールに巻き付け一息ついた。
日差しは暑くても、吹く風はもうすっかり涼しい。
◇◇◇◇◇
『八尾首市って寒いよな』
先日のアプローチ練習の際、篠崎は唐突に言い出した。
『そう思わないか?新谷』
『そうですね。去年は何度も死にかけました』
『大袈裟な……』
答えると、その発言に篠崎は新谷の頭を軽くたたいた。
『でもさ想像してみろよ。帰った瞬間から、家中が木漏れ日のような温かさだったら』
『…………』
由樹は思い浮かべた。
雪を踏みしめながら寒い中バス停から歩いてくるサラリーマン。
「さみっ」と叫びながら友達の家から走ってくる小学生。
かじかむ手を擦り、友達と身を寄せ合いながら帰路を急ぐ部活帰りの高校生。
玄関のドアを開けたら。
そこはもう春の木漏れ日のような暖かさ………。
『………素敵、だと思います』
素直に答えると、篠崎は由樹の頬にその温かい手を当てた。
『温かい家でさ。母親が帰りを待っててくれた瞬間って。もしかしたら人生で最高に幸せな瞬間の1つかもしれないよな』
由樹は一人、時庭市に残してきた母親のことを考えた。
そうだ。
学校からの帰り道、氷のように冷えた手を握りしめてくれた、母親の温かい手。
あの瞬間の安堵感と幸福感は、何物にも代え難い。
『その幸せな瞬間がさ、俺たちの家作りで実現出来たら、最高だよな』
由樹はその優しい笑顔を見つめた。
確かにそうだ。
いつの時代でも変わらない。
その幸せの瞬間を自分たちで演出できたら……。
(でも……)
篠崎さん。
あなたは、本当に。
父親にならなくて、平気ですか……?
その問いかけは言葉にならなかった。
『そういうことだよ、新谷。性能じゃなくて、それによって得られる幸せの話をするんだ。お前の得意分野だろ?』
由樹はただ、他意なくその話をして微笑んだ篠崎を見つめて、頷くことしかできなかった。
◇◇◇◇◇
「…………」
大きなため息をつきながら、段ボールと古くなった懸垂幕を持って立ち上がる。
今更そんなことを考えてもしょうがない。
篠崎は、「俺を選べ」と言ってくれたのだ。
自分が篠崎を選んだように、篠崎も自分を選んでくれたのだ。
こんなことをグジグジと考えているのは、真摯に自分と向き合ってくれている篠崎に対しても失礼だ。
由樹はそう自分を奮い立たせると、管理棟に向かって歩き始めた。
土日は、10個ほど並ぶテーブルが満席になり、ちょっとしたオープンカフェのように様変わりする管理棟だが、平日は静かなものだ。
さらに木曜日は水曜日と連休のメーカーが多いため、そこはいつも以上に閑散としていた。
裏にまわり、懸垂幕を置いたところで、喫煙スペースに男が立っていることに気が付いた。
「……あれ?」
視線を上げると、そこには今一番会いたくない人物が立っていた。
「セゾンちゃん。こんにちは」
男は咥えていた煙草を指に持ちかえると、こちらを見下ろしてニコニコと笑った。
(セゾンちゃん?なんだそれ……)
あからさまに眉間に皺を寄せた由樹に、男は白い煙を吐き出した。
「怖いよ、セゾンちゃん。可愛い顔が台無し」
言いながら煙草を挟んだ手とは逆の手で胸ポケットから名刺入れを取り出した。
「ちゃんと挨拶したことなかったよね。俺、ファミリーシェルターの牧村。よろしくね」
(いや、知ってるし……)
男は小指と薬指で器用に1枚引き出すと、それを前に差し出した。
「あ、どうも」
相手は片手なのに、それも薬指と小指で挟んだふざけた渡し方なのに、職業柄ついそれを両手で受け取ってしまう。
「あ、俺、名刺、事務所に……」
「いーよ。君のは既に持ってるから」
言いながら男は楽しそうに、名刺入れの裏ポケットから1枚の名刺を取り出した。
「『セゾンエスペース 営業スタッフ 新谷由樹』くん?」
「え、なんで?」
見慣れた名刺の登場に思わず声が裏返る。
牧村は楽しそうに笑った。
「さあ、なぜでしょう?」
言いながら、2枚目、3枚目を取り出す。
「………?」
新谷はきょとんと、自分よりも少し背が高い彼を見上げた。
牧村は少し馬鹿にしたように顎をあげて由樹を見下ろしている。
「………!」
その顔にピンときた。
由樹は対称的に顎をぐっと引くと彼を睨んだ。
「……プレゼンファイル」
「ご名答」
牧村がクククと笑う。
商談用のプレゼンファイルのハードカバーには名刺を差し込むポケットがある。
彼が3枚の名刺を持っているということは……。
3件の客を盗られたということだ。
「いやーお客さんにさ『このハードカバーも安くないでしょうから、俺の方からセゾンさんに返しておきますよ』っていうと、客は罪悪感もあるんだろうな。ほいほい俺に渡してくれるんだよね」
「…………」
「やめてよそんな怖い顔はー。大丈夫だよ。君が取りこぼした客は俺が幸せにしてあげるから」
腹の底から怒りが湧いてくる。
由樹は男を睨み上げた。
「でもさ。君のプレゼン資料、すごくわかりやすかったよ。家作りの夢を壊さないまま、木造の良さと、中でもセゾンオリジナルの良さがよく伝わる一冊だった」
「……よくそんなこと言えますね」
今すぐここを立ち去るべきなのに。せめて冷静にいたいのに。由樹は沸き上がる怒りを抑えられなかった。
そしてそれは、
「どうせあなたは1から10まで否定したんでしょ?」
自分でも閉口してしまうほど幼稚な言葉に姿を変えた。
「……俺が、セゾンを否定?まさか」
牧村は灰皿に煙草を押し付けると、由樹に歩み寄った。
「なんで君が負けたか教えてあげようか。セゾンちゃん?」
男から薄く煙草の香りがする。
「それは俺が、セゾンエスペースの家作りを認めているからだよ」
「え……」
その大きな手が由樹の頭に伸びる。
「……っ」
身構えたが、その手は由樹の頭頂部に優しく着地した。
「さて。俺行かなきゃ。楽しかったよ。またお話しようぜ?セゾンちゃん」
言うと牧村は、切れ長の目を細めて微笑んだ。
(………あ)
由樹はとんでもないことを言いそうになり、慌てて口を手で塞いだ。
その様子に牧村は気にする様子もなく、ファミリーシェルターに向けて歩き出した。
長い脚のせいか、遠ざかるスピードが速い。
その後ろ姿を見ながら、由樹はやっと息をついた。
「……あの人。篠崎さんに似てる……」
抑えた言葉は、声に出してみると余計に現実味を帯びた。
『俺がセゾンエスペースの家作りを認めているからだよ』
由樹はしばらくそこに突っ立ったまま、彼が発した言葉の意味を考えていた。
「……ミシェルの牧村、か……」
ほんの数十秒で印象の変わった彼の姿が事務所に吸い込まれていくと、由樹は小さく息をついた。