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部屋のドアが閉まると同時に、今日一日の喧騒がふわりと遠ざかっていった。
淡い灯りのホテルの一室には、静けさと、どこか落ち着かない空気が漂っている。
ベージュのカーテンの隙間からは、遠くのネオンがかすかに揺れていた。
「は〜、疲れた……」
永玖がふわっと声を上げ、颯斗のすぐ前を通って、ベッドの縁に荷物をどさりと置いた。
柔らかいシーツがわずかに沈み、部屋の中にベッドがきしむ音が響く。
その背中が少し伸びをするように動いて、首の後ろのシャツが引っ張られた。
「……あれ、ネックレス絡まってる」
永玖は首を傾けながら、指で何度かチェーンをいじる。
けれど細い金属はすぐに絡まり、余計に複雑に結ばれていくばかりだった。
「はやとー、これさ、ちょっとやってくんない?」
何気ない声だった。
頼りにしているのだろう。
だけど、その無防備な言い方に、颯斗の胸の奥が少し痛んだ。
うなずきながら立ち上がり、そっと永玖の背後に回る。
彼の襟元に手を伸ばすと、すぐそこに体温があった。
耳の後ろの皮膚が、ほんのり赤くなっている。
ライブ終わりの熱がまだ残っているのかもしれない。
汗ではないけれど、すこし甘い匂いがふわりと鼻先をかすめた。
ボディソープか、柔軟剤か。
それとも、永玖自身の匂いなのか。
颯斗は無言のまま、細いチェーンに指先を伸ばした。
絡まった部分をそっとつまみ、丁寧に、力を入れすぎないようにほどいていく。
小さなチェーンがカチャカチャと音を立て、永玖の髪がふわりと揺れた。
「ん〜、取れそう?」
「……もうちょい」
その会話すら、息を詰めるように短くなる。
距離が近すぎて、言葉を発するたびに永玖の髪が揺れ、頬がかすめそうになる。
ふと視線を下ろすと、シャツの襟からのぞく鎖骨が目に入った。
目を逸らすべきなのに、逸らせなかった。
(近い……近すぎる)
鼓動が速くなるのが自分でもわかる。
けれど、永玖はまったく気にしていないように、前を向いたままリラックスしている。
「……できた」
ようやく絡まりがほどけたチェーンを指先から外し、掌に乗せて差し出すと、永玖がぱっと振り返る。
「ありがと、助かった〜」
そう言って、何のためらいもなく肩をぽん、と叩いてきた。
その一瞬。
ほんの一瞬だったはずなのに、永玖の指の温度が、シャツ越しにじんわりと残った。
「……おまえ、さ……」
思わず出た言葉。
けれどその先が続かない。
どう言えばいい。
「好き」だなんて言って、今の関係が壊れるのは怖い。
永玖が困った顔をするのが、怖すぎる。
だから言い換える。
せめてもの抵抗のように。
「……おまえ、無防備すぎるんだよ」
少し低い声で。
少しだけ、滲ませて。
「え? なにが?」
永玖はきょとんとした顔で見上げてくる。
その目は澄んでいて、何も知らないままだった。
(ほんとに……気づいてないんだな)
自分が、どれだけその笑顔に救われてきたかも。
どれだけその距離に苦しんでいるかも。
永玖はわかっていない。
それがいちばん、苦しい。
夜。
部屋の灯りが落ち、カーテンが閉じられると、世界はふたたび静かになった。
永玖はベッドの向こう側で、すうすうと安らかな寝息を立てていた。
毛布を抱きしめるようにして眠るその姿が、子どものように無邪気で、胸を締めつける。
寝返りを打つ音さえしない、静かな部屋の中。
ただ、時計の秒針だけが、かすかに空気を刻んでいる。
隣を見れば、すぐそこに永玖がいる。
手を伸ばせば、届く。
届いてしまいそうなほど、近くにいる。
けれど、想いは届かない。
指先が、そっと永玖のタオルケットに触れる。
静かに、それを引き上げてやった。
少しはだけていた肩に、そっとかけ直す。
その指が、永玖の手の甲にかすかに触れた。
びくり、と胸が跳ねた。
こんな些細なことでどうしてこんなに乱されるんだろう。
「……好きなんだけどな」
ほんのかすかな声。
彼の耳には、届かない。
きっと、この想いは、まだ——どこにも届かない。
永玖は変わらず、穏やかな寝顔を見せている。
その無防備な姿が、愛しくて、怖かった。
頬にかかる髪を見つめながら、颯斗は心の中でそっと呟いた。
——お前が誰にも触れられませんように。
——できることなら、このままずっと、お前の隣にいられますように。
けれど、願いは言葉にはならなかった。
静かな夜の空気に、重たい想いだけがじっと、残り続けていた。