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ー-Prologue(プロローグ)
風の音も、雲の匂いも、もう思い出せない。
私は今、空を落ちている。
白い雲が、冷たく背中をなぞり、青が、どこまでも広がっている。
それは海のようで、宇宙のようで、でも決して手が届かないものだった。
制服の裾が舞い上がり、私の身体は重力を忘れていた。
何かに掴まろうとしても、もう何もない。
でも、不思議と怖くはなかった。
「…..あのとき、あたしは、なにを願ったんだっけ?」
地上の記憶は、かすれている。
名前、顔、声、温もり。すべてが雲の彼方に置き去りになった。
けれどーーひとつだけ、覚えていることがある。
あの日、私は「空に溶けたい」と、強く願った。
その願いの代償が、これなのだとしたら。
それでも、後悔なんて一ーできないよ。
空を見上げたつもりだったのに、気づけば落ちていた。
そんなふうに感じたのは、今日が初めてだった。
校舎の屋上。フェンスの手前に立ち尽くしたまま、私は靴のつま先を少しだけ前に出した。
見下ろせば、運動場が小さく遠くに見える。部活の声も届かないほど、ここは静かだった。
風が吹いて、髪が舞う。
制服の袖口を、細く冷たい風が撫でていく。
「落ちるって、どんな感じなんだろうね」
誰に話しかけるわけでもなく、私はそうつぶやいた。
のだから。
返事はない。然だ。屋上には私しかいない
***
昨日、クラスメイトの**志乃(しの)**が突然いなくなった。
欠席でも転校でもない。教室の空気に、彼女だけがいなかった。
机はそのままだった。でも、椅子には誰も座らなかった。
担任は何も言わなかった。まるで最初からいなかったかのように、時間割が進んでいった。
誰も、騒がなかった。
志乃は、私にとって”唯一の味方”だった。
無理に笑わなくていい、無理に喋らなくてもいい、そんな存在。
だけど私は、最後にちゃんと何かを伝えたっけ。
「また明日」も言えなかった気がする。
「ばいばい」すら、ちゃんと交わせていない。
そんなことを思い出すたび、胸の奥がふわっと浮いて、そのままストンと沈んでいく。
まるで、心だけが先に落ちていってしまったみたいだった。
***
屋上の空は、やけに澄んでいた。
真っ白な雲が、ひとつ、ふたつ。
そのすき間に、深い青が広がっている。
私は空を見上げる。
手を伸ばせば、そこに届く気がした。
……でも届かない。
なにも掴めないまま、私の指先は宙を彷徨っていた。
「……志乃はさ」
私はぽつりと呟く。
言葉にしなければ、自分がここにいることすら忘れてしまいそうだった。
「本当に、どこかに行っちゃったの?」
風の音だけが返事をする。
私はその音にまぎれて、ほんの少しだけ涙をこぼした。
「……あぶな」
突然、背後から声がして、私は肩をびくっと
跳ねさせた。
振り返ると、そこにいたのはーークラスメイト
の**片瀬悠馬(かたせゆうま)**だった。
「なにしてんの、おまえ」
そう言いながら、彼はポケットに手を突っ込んだまま、私から少し離れた位置に立っていた。
その目は、驚きというより、呆れに近かった。
私は咄嗟に言葉が出なくて、唇を少し噛んだ。
さっきの自分の姿が、どう見えていたのか。そう考えただけで、急に足元が熱くなる。
「……なんでもない」
「なんでもないやつが屋上でフェンスにしがみ
ついて空見てる?」
「……うるさい」
自分でも驚くくらい小さな声だった。
それでも悠馬は、少しだけ眉を上げて、ため息をついた。
「別に怒ってるわけじゃないけどさ。…..ほら、もうチャイム鳴ったし。戻んなよ」
そう言って、彼は私に背を向けて階段へと向かう。
足音が遠ざかっていく中、私は少しだけ躊躇って、それでも結局あとを追いかけた。
階段の踊り場に差し込む光は、夏の終わりの匂いがして、少しだけ目が眩んだ。
***
教室に戻ったとき、席に座っていた誰もが、こちらを見ようとはしなかった。
担任の先生が「席に戻って」とだけ言い、何事もなかったかのように授業が始まる
私は、ただ自分の席に座った。
志乃の隣だった席。
今は空いたままのその机を、誰も気にしないふりをしていた。
私はノートを開く。
けれど、手は動かず、ただ一つの名前だけが脳裏をかすめ続けていた。
星野 志乃。
あの子は、いまどこにいるんだろう。
屋上から落ちていくような感覚の中で、私は、彼女の気配を探し続けていた。
六時間目のチャイムが鳴って、授業が終わった。
私はノートを開いたまま、筆を動かさずに座っていた。
黒板の文字は途中から読めなくなっていたし、先生の声も、遠くの方で水に沈んだように響いていた。
隣の席一一志乃の机は、今日一日中空っぽだった。
かった。
誰も何も言わなかった。先生さえ、触れな
教室って、こんなにも冷たかったっけ?
そんなことを思いながら、私は、机の上に頬を乗せた。
***
「なあ」
そのとき、不意に声をかけられて、顔を上げる。
さっき屋上に来た、片瀬悠馬が立っていた。
「……なに?」
「志乃のこと、好きだったんだなって顔してた」
…….うるさい」
「やっぱりな」
悠馬は、勝手に椅子を引いて志乃の隣の席に腰を下ろした。
その仕草が、あまりにも自然で、何も知らないみたいで、少しだけ腹が立った。
「ねえ、知ってた?」
私の声が、思ったより大きく出た。
「志乃ってね、いつも同じ要を見てたの。屋上で。夏の雲はすぐ形が変わるのに、あの子はずっと同じ場所に目を向けてた。意味わかんないって、最初は思ってたけど……」
声が震えた。
胸の奥で、なにかが軋んだ。
「ーーあの子、誰にも言わなかったけど、たぶん、どこかに行くつもりだったんだよ。最初から。もう、ここにいないって、決めてたんだと思う」
悠馬は何も言わなかった。
ただ、私の言葉を途中で遮らずに、聞いていた。
静かな教室。誰もいない放課後。
私たちの声だけが、やけに響いた。
「でもさ、そんなのズルいよね」
私は、机の上にぽつりと涙を落とした。
「私、あの子の隣にずっといたのに、最後の一言すら、ちゃんと伝えられなかった」ありがとうも、バイバイも。
会えてよかったも、また明日も。
どれひとつ、ちゃんと届いてなかった。
***
「….志乃、ノート残してたよ」
悠馬が、かばんの中から取り出した。
一冊の、よれたキャンパスノート。裏表紙に、小さく名前が書いてあった。
「先生の机の上に置いてあった。誰も気づいてなかったっぽいけど。……中身、見てない」
私は、手が震えるのを感じながら、そのノートを受け取った。
重かった。まるで、本当に志乃の気配が詰まっているようで。
ページを開く。静かに、そっと。
その最初のページに、たった一行だけ、こう書かれていた。
>空を知ってるあなたに、手紙を書いています。
放課後の教室には、もう誰の声もしなかった。
カーテンの隙間から差し込む夕陽が、床を斜めに照らしている。
その光が、志乃の席の上を静かに横切っていた。
「誰かがいなくなるって、こんなにも静かなことなんだね」
自分の声が、こんなに細く聞こえるのは初めてだった。
志乃と最初に話したのは、去年の秋だった。
隣の席になった日、私は教科書を忘れて、焦っていた。
そのとき、何も言わずに半分、机の上に開いてくれた子ーーそれが、志乃だった。
「別にしゃべらなくてもいいんだよ」
あの子は、私にそう言った。
「ただ、隣に誰かいるって思えるだけで、ちょっと楽になることもあるから」
私はその言葉に救われた。
でも、その大事さに気づいたのは、ずっと後になってからだった。
***
「星野ってさ、ずっと前から変だったよな」
誰かの声が、廊下から聞こえた。
「屋上で空ばっか見てたし。てか、勝手にいなくなるとかさ、意味わかんねぇし」
私はその瞬間、立ち上がっていた。
机が揺れて、ペンが床に落ちた。
心臓の音が、すごくうるさかった。
ドアを開けて、声の主を睨んだ。
「あの子は、変なんかじゃない」
そう言った自分の声が震えていたのは、怒りじゃなくて、悔しさだった。
「ちゃんと、優しい子だったよ。……知らないくせに」
廊下の向こうで笑い声が小さく消えた。
私は教室に戻って、机の上に突っ伏した。
涙はもう出なかった。
けれど、胸の奥が焼けるように痛かった。
志乃はもういない。
でも、たしかにここにいた。
私はそれだけを、どうしても誰かに伝えたかった。
伝えられなかった言葉は、いつだって、いちばん重い。
***
その夜、家に帰って、部屋のドアを閉めた瞬間、私は机の引き出しを開けた。
一枚の紙が折りたたまれて入っていた。
差出人の名前はなかった。けれど、私は一目でわかった。
一一志乃の字だった。
便箋の中央に、小さな文字でこう書かれていた。
>ねえ、「さよなら」って、誰のために言う言葉だと思う?
志乃の字で書かれた、たったそれだけの言葉。
だけど私は、それを読んだ瞬間、喉の奥がきゅっと詰まったような気がした。
頭じゃなくて、胸の中心に、何かが落ちた。
重たく、やわらかく、静かに。
私は便箋を両手で持ったまま、ベッドに倒れこんだ。
蛍光灯の光がまぶしかった。
目を閉じると、今日の教室の匂いや、志乃の机の横顔が、ひとつひとつ浮かんできた。
まぶたのが熱かった。
私は、彼女に「さよなら」を言われなかった。
でも、だからこそ、あの問いが刺さった。
>「誰のために」一ーか。
誰のためだったんだろう。
私のため?志乃自身のため?
それとも、言えなかった私が、今も言おうとしてる?
布団の中で、私は志乃の声を探すように、何度もその便箋の文字をなぞった。
紙の上には何の続きもなかったけれど、でもその「問い」が、今も生きているように感じた。
それはまるで、志乃が今もどこかで、私にだけ残してくれた呼吸のようで。
***
夜が更けても、眠れなかった。
窓の外の空は、うすく滲んだ墨のように広がっていて、星はひとつも見えなかった。
私は枕元のノートを開いた。
ページの隅に、ふと、自分でも知らないうちに書いていた言葉があった。
>ー一落ちるって、たぶん、誰かを忘れられないってこと。
音もなく、自分の中にしずかに降ってくる感情。
明日もあの席は空のままなんだ、と思ったら、心がふわっと浮き、またすとんと沈んでいった。
それでも私は、少しずつ、自分の足で立ちたいと思っていた。
志乃が、残してくれた”問い”に、答えを見つけるために。