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8時少し前に夕食を終え、わたしは8階のVIP専用サロンに向かった。
先日、玲伊さんがメイクをしてくれた、あの部屋だ。
エレベーターの扉が開くと、そこはまるで別世界だった。
他の階とは印象がまるで違う。
廊下には赤い絨毯が敷きつめられていて、突き当りにあるドアは重厚な木製で天井まで高さがある。
この前は玲伊さんの部屋から直接、サロンに入ったから、こんなにすごい空間が広がっているなんて知らなかった。
さすが、VIP専用。
でも、VIPって一口に言うけど、いったい、どんな人たちのことを指すんだろう?
わたしには想像もつかない。
ドアは自動で、その前に立つと厳かに開いていく。
扉の向こうには黒いスーツ姿の玲伊さんが立っていた。
「ようこそ。お待ちしておりました」
大切な顧客を出迎えるように、彼は胸に手を当てて丁寧に一礼した。
慇懃《いんぎん》な姿勢を崩さない玲伊さんは、まるで英国貴族に仕えるバトラーのようで、自分がお嬢様になったように錯覚してしまう。
「玲伊さん……」
その姿がいつもの何百倍も素敵で、頭がふわっとして、気が遠くなりそうになった。
昨晩、必死で引いた心の防御線は、いともあっさり突破されてしまった。
「なんてね。さ、こっちへ」
彼はいつもの表情に戻ってわたしの背に軽く手を当てて、室内へと導いた。
「遅くに悪いね」
「いえ、どっちにしろ、夕飯を食べにくるので」
「そうだったね。そこに座って、ちょっと待ってて」
ソファー替わりの寝椅子に座って待っていると、玲伊さんが小さなグラスに入った橙色の飲み物をトレイにのせて運んできた。
みかんジュースよりも濃厚なオレンジ色。
人参ジュースかな。
「どうぞ召し上がれ」
「これ、何ですか?」
「綺麗になる魔法の薬」
「えっ?」
玲伊さんは、また少しいたずらっぽい目を向けてくる。
「嘘だよ。いや、ある意味、本当か。絶世の美女といわれた楊貴妃が好んだクコの実をメインに、美容にいい素材をブレンドした特製ジュースだから。飲んでごらん」
「クコの実って、よく杏仁豆腐の上にのってる赤い実ですよね」
玲伊さんはそうだよ、と頷いた。
あれ、ちょっと薬っぽい味がするから苦手なんだよね、実は。
わたしはおそるおそる口をつけた。
あれ、これは飲みやすい。
「美味しいです。とっても甘酸っぱくて」
わたしがきれいに飲み干すと、玲伊さんは笑みを浮かべた。
「そう。口にあって良かったよ」
玲伊さんは、わたしの手から空になったグラスを取り、テーブルのトレイの上に置いた。
そしてわたしの隣に座り、長い脚を組んだ。
「さて、初日の感想は?」
「うーん、思っていたよりもずっと疲れました」
「そう? そんなに大変だったかな」
「はい。わたし、写真を撮られるのが大の苦手で。それにずっとおばあちゃんと二人の生活を続けていたから、人が多いところにいるだけでも疲れてしまって」
「そうか。まあ、はじめてのことは誰だって疲れるものだし。でもすぐ慣れるよ。ヘッドスパもしてあげるから、疲れが取れるといいね」
「ヘッドスパ? わ、それもはじめてです」
玲伊さんは準備するからちょっと待ってて、と言って、オーガンジーで仕切られているブースに入っていった。
前に焼肉店で会った女性は、玲伊さんにシャンプーしてもらうのは最高の癒し、と言っていたけれど。
わたしにはそんな余裕、まるでない。
ドキドキしすぎて、癒しどころか、さらに疲れが増してしまいそうだ。
こっちへと言われたので、わたしもブースに入った。
鏡の前に座り、前にもつけてもらった黒のケープをかけ、髪をとかしてもらう。
「だいぶパサついているよ。でも、段がついていなくて良かった」
「髪を結ぶことが多いので、段は入れないようにしていて」
鏡のなかの玲伊さんはにっこり微笑んだ。
「いや、助かったよ。さすがに髪の毛の成長を速めることはできないからね。今回のプロジェクトでは、ストレートの黒髪の美にこだわりたいんだ」
「はあ」
ストレートの黒髪の美ねえ。
そのモデルがわたしでいいのかな。
本当に。
「今日はシャンプーとヘッドスパとトリートメントをするよ。仕上がりを見て、これからの回数を決めるから」
「はい」
「椅子、動かすよ」
玲伊さんがスイッチを押すと、セット椅子は機械音を立てながら、なめらかに洗髪台の方に動いていった。