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午後のスタジオは、朝より少しだけ乾いた空気をしていた。
一度家に帰って、シャワーを浴びて、着替えて、顔を洗って。
ちゃんとリセットしたつもりだった。
実際、朝方ルイの部屋を出た直後のあの熱っぽさは、だいぶ落ち着いている。
呼吸も普通にできる。
思考も散らかっていない。
鏡に映る自分の顔も、少なくとも仕事場に来る顔には戻っていた。
それなのに。
スタジオの扉を開けて、先にいたルイと目が合った瞬間。
胸の奥で、静かに何かが鳴った。
大きくはない。
昨日みたいな、息が止まるような激しさでもない。
でも確かにある。
安心の裏に、まだ熱がある。
「おはよ」
カノンが手を上げる。
「午後入りだとなんか一日短く感じるな」
「それはお前がいつも騒がしいからだろ」
ゴイチが軽く返す。
アダムは壁にもたれたまま、無言でスマホから顔を上げた。
タイキも「おはよ」と返しながら荷物を置く。
その流れの中で、ルイが一度だけ視線をよこした。
ほんの一瞬。
でも、その目が朝の続きの温度をちゃんと持っていて、タイキの指先が少しだけ落ち着かなくなる。
昨夜のことも。
朝のことも。
たしかにあったのに。
ルイはそれを無理に滲ませない。
むしろ、前より少しだけ自然に見えるくらいの顔で、いつも通りみたいにそこに立っている。
その“いつも通りみたい”の中にだけ、少し違うものがある。
タイキはそれを、まだ言葉にできないまま感じていた。
⸻
ウォームアップが始まる。
床に手をついて身体を伸ばし、足首を回して、肩を開く。
音がまだ流れていない時間の、少しだけ緩い空気。
タイキは鏡の前で前屈しながら、今日はちゃんとやれると思っていた。
朝の余韻はある。
でも、それはもう乱すものじゃなくて、身体の奥に沈んでる熱みたいなものだ。
少し離れたところで、ルイが髪をかき上げた。
その何気ない仕草に一瞬目が行きかけて、タイキはすぐに自分を戻す。
集中。
言い聞かせるまでもなく、今日はちゃんと戻れる気がした。
それだけ、朝の“整える”は大きかった。
そう思った矢先だった。
「タイキ」
低い声で呼ばれて、タイキが顔を上げる。
ルイがすぐ近くに来ていた。
いつの間に、と思うくらい自然な距離だった。
「前髪」
ルイが言う。
「目入ってる」
「え?」
反射で自分の額に手をやるより早く、ルイの指が伸びた。
ほんの軽く。
本当に、髪を払うだけの動きで。
額にかかっていた前髪を、指先でそっと整える。
「……っ」
タイキの肩がわずかに揺れる。
触れたのは一瞬だ。
それも、ほとんど髪だけ。
#ころんくん
Yuka🍀🐼
79
ちゃちゃ@あきしお最高
281
#パクリ❌
でも、その“ほとんど”の中に含まれた近さが、思っていた以上に効いた。
ルイは何でもない顔をしている。
周りが見ても、ただ前髪を直しただけに見えるはずだ。
「これで見える」
と、ルイは軽く笑う。
「……ども」
それだけ返すのが精一杯だった。
前なら、こういう触れ方もあった。
髪が邪魔そうなら払うことくらい、別に珍しくもない。
メンバー同士の距離感として、不自然じゃない範囲。
でも、違う。
前とは、触れ方が違う。
どこが、と聞かれたら説明は難しい。
でも、違う。
指先の置き方。
払ったあとのほんの少しの間。
それから、触れたあとに一度だけ目を見てくる感じ。
ただ整えただけじゃない。
ちゃんと“お前に触れた”って分かる触れ方だった。
タイキは、鏡の中の自分の顔が少しだけ熱を持ったのを見て、無言で視線を落とした。
⸻
音が入る。
レッスンの空気が一気に仕事のものへ変わる。
動きの確認。
フォームの修正。
立ち位置の微調整。
タイキはもう、意識をちゃんとそっちへ向けられていた。
朝みたいに視線ひとつで全部持っていかれる感じではない。
でもその代わり。
今日は、仕事の流れの中で、ルイの触れ方が少しずつ増えていく。
「そこ、肩もうちょい開く」
ルイが横から言う。
「こう?」
とタイキが動くと、ルイの手が肩に触れる。
肩甲骨の少し上。
ぐっと押すんじゃなく、位置を知らせる程度の軽い手つき。
それなのに、その手が置かれた瞬間だけ、タイキの意識はぴたりとそこへ集まる。
「違う、もう少し力抜いて」
ルイが言う。
そう言いながら、今度は親指のあたりでほんの少しだけ位置を直す。
「……あ」
「そう、それ」
「分かった」
短いやり取り。
仕事としては完全に自然だ。
むしろ正しい。
でも、前のルイはたぶん、こんな時もっと雑に触っていた。
悪い意味じゃなく、本当に“フォームを見るための接触”としてしか扱っていなかった。
今は違う。
仕事のために触れてる。
それは本当。
でも、その中にある気遣いの細さが違う。
置き方がやわらかい。
離すタイミングが丁寧。
必要以上に触れない。
でも、“ちゃんと触れた”感覚だけは残す。
それがずるい。
タイキは、自分の肩に残るわずかな熱を意識しながら、何でもない顔で次の動きに入る。
安心している。
たしかに。
昨日より、朝より、今の方が落ち着いている。
でもその安心の先で、また別の場所に触れてしまう。
こうやって、自然な顔で触れられると、落ち着く。
でもそれだけじゃなくて、ちゃんと嬉しい。
そのことを、もう自分でも誤魔化せなかった。
⸻
通しの前。
立ち位置に散るタイミングで、タイキは少しだけ気持ちを入れ直すために呼吸を整えた。
その背中へ、ふっと手が添えられる。
一瞬だけ。
送り出すみたいに、肩甲骨のあたりへ。
「大丈夫」
ルイの声は低く、短い。
「自然にできてる」
タイキの喉が小さく鳴る。
振り向くほどでもない。
周りの誰かが見ても、ただの確認の一部。
それくらいの一瞬だった。
でも、その一瞬に含まれたものをタイキは見逃せない。
ルイは今、ちゃんと自然に触れられていると思っている。
仕事に支障がない程度。
不自然にならない程度。
でも、前より少しだけ近い関係のまま。
たしかに、その通りだった。
前なら、ここまでいちいち全部に意味を感じなかった。
でも今は違う。
違うのに、不思議と嫌じゃない。
むしろ、その自然さが嬉しい。
「……ん」
タイキは小さく返して、前を向く。
そのまま音が流れて、通しが始まる。
⸻
ルイは、今日の自分の触れ方をちゃんと意識していた。
前髪を直す。
フォームの確認で肩に触れる。
送り出す時に背中へ手を添える。
どれも、やっていること自体は大したことじゃない。
むしろ、前からやっていてもおかしくないことばかりだ。
でも、前とは違う。
前は本当に何も考えていなかった。
相棒として、近い人間として、ただ必要な距離で触れていただけ。
今は違う。
タイキがどう感じるかを知っている。
自分がどう感じるかも知っている。
それでも触れるのは、たぶん今日のタイキがちゃんと落ち着いているからだ。
朝のあの時間を経て、一回離れて、整えて。
それでもまた来た熱を、今日は壊さずに持てている。
だから、これくらいなら大丈夫だと思えた。
いや、本当は思いたいだけかもしれない。
でも少なくとも、今のタイキは触れられるたびに逃げたりしない。
驚いても、固まっても、ちゃんと戻ってくる。
それが嬉しい。
そして何より。
触れたあと、タイキの空気が少しだけやわらぐ。
それが分かるのが、どうしようもなく効く。
大丈夫、自然にできてる。
背中に手を添えた時、ルイは本当にそう思った。
タイキも。
自分も。
この距離で、まだちゃんと仕事ができる。
その実感が、少しだけ甘い自信になる。
でも同時に、危ないとも思う。
自然にできるからこそ、もっと触れたくなるからだ。
通しが終わったあと、タイキが水を飲みに行く。
トレーニングウェアのまま、少しだけ肩で息をしている。
ルイはその横顔を見て、また胸の奥が持っていかれる。
ペットボトルを口に当てる角度。
喉が動く瞬間。
汗で少しだけ張り付いた髪。
呼吸が整っていくまでの静かな時間。
ほんと、奪っていく。
ルイは心の中でそう呟く。
こっちが触れているつもりで、実際はどんどん持っていかれている。
前髪を直した時の目。
肩に触れた時の息の止まり方。
背中に手を添えたあとの、小さく返して前を向く感じ。
タイキは今、安心感の先に触れ始めている。
そのことに自分でも気づいている顔をしている。
そしてルイもまた、その変化の先に心を持っていかれる。
タイキがペットボトルを下ろして、ふとこちらを見る。
目が合う。
今度は、前より長く。
少しだけ赤い顔。
でも、もうすぐには逸らさない。
その目に、ルイは静かに笑みを返した。
タイキはそこでようやく視線を外す。
でもその顔は、前よりずっとやわらかかった。
安心している。
その先でちゃんと揺れている。
その全部が、今日のタイキだった。
ルイは小さく息を吐く。
たぶん今、一番危ないのは自分の方だ。
⸻
タイキは、水を飲みながら思っていた。
前髪を直された時。
肩を調整された時。
背中に手を添えられた時。
全部、自然だった。
不自然じゃない。
仕事の流れとして成立している。
だからこそ余計に、前との違いが分かる。
こういう関係になる前のルイと、触れ方が違う。
ただ近いんじゃない。
ただ雑に触れてくるんじゃない。
こっちが受け取れるように、でも逃げすぎないように。
その中間をちゃんと選んでいる手だった。
それが、たまらなく安心する。
でも、その安心の先がある。
ただ落ち着くから嬉しい、じゃない。
触れられるともっと欲しくなる。
そこにもう、自分でも見ないふりできない種類の熱がある。
タイキはペットボトルを握ったまま、小さく息を吐いた。
もう知ってしまった。
ルイに触れられると、安心する。
でも、それだけじゃ終われない。
その先にちゃんと触れてしまっている。
だからたぶん。
今日の午後のスタジオは、昨日より静かで、昨日より熱かった。
通しがひと段落つくとスタジオが賑やかになった。
今度はSTARGLOWのメンバーだけじゃない。
次の合同ステージに向けた若いトレーニーたちと、何人かの先輩アーティストも混ざって、空気が少しだけざわついている。
鏡張りの広いスタジオ。
流しっぱなしの音源。
誰かの笑い声。
ストレッチする床の擦れる音。
端で振り確認しているグループ。
水を飲みにいく人影。
タイキは軽く首を回しながら、その空気の中でルイを目で追っていた。
別に、見張るつもりなんてない。
そんなの自分でも分かってる。
でも、気づくと視線が向いている。
ルイは今日も、仕事になるとちゃんとしていた。
先輩にも後輩にも分け隔てなく、空気を読んで、必要なところに入っていく。
振りの確認を頼まれればすぐ応じるし、トレーニーが詰まっていれば横から自然にアドバイスもする。
ルイにとっては、たぶんそれが普通だ。
でも今日は、その“普通”がやけに刺さった。
「そこ、肩もうちょい抜いた方がいい」
ルイがひとりのトレーニーに言う。
年下の男の子が「ありがとうございます」と目を輝かせる。
ルイは軽く笑って、そのまま肩を組むように隣に立って、鏡越しに位置を合わせてやっている。
その距離が、妙に近く見えた。
タイキは無意識に持っていたペットボトルのラベルを親指でこすった。
別におかしくない。
教えてるだけ。
ルイはそういうのが上手い。
人に緊張させずに入っていける。
分かってるのに、胸の奥に小さく何かが引っかかる。
そのあと、別の後輩が「ルイさん、それ飲んでいいっすか?」と笑いながら、ルイの手元のペットボトルを勝手に取った。
ルイは「いや、別にいいけど」と言いながら、特に嫌そうにもせずそのまま受け流す。
後輩は口をつけて水を飲んで、何事もない顔で「うわ、冷た」と笑う。
「……」
タイキの眉が、ほんの少しだけ寄った。
同じペットボトルで飲むとか。
別に男同士なら、たまにある。
あるけど。
なんか、嫌だ。
嫌っていうほどでもない。
でも、見たくはない。
うまく言葉にできない種類のもやっとした何かが、じわっと広がる。
さらに追い打ちみたいに、別のトレーニーがルイに後ろから「ルイさん、ここどうですか?」と軽く腕を引いた。
その距離の詰め方も、無邪気な後輩らしいやつだ。
ルイはそのまま振り返って、「ここはさ」と自然に教え始める。
その横顔が、また仕事モードで綺麗すぎるから余計にだめだった。
「……何その顔」
横からカノンの声が飛んできて、タイキははっとした。
「は?」
「いや、なんか」
カノンが肩を揺らして笑う。
「珍しく顔に出てる」
「出てねぇし」
即答したのに、カノンは「ふーん」とだけ言って、それ以上は言わなかった。
でも、その“ふーん”が妙に分かってる感じで、タイキは少しだけ居心地が悪くなる。
タイキは視線をルイから外した。
外したつもりだった。
でも数秒後には、また見ていた。
肩を組む距離。
後輩の無遠慮なスキンシップ。
誰にでも向けられるルイのやわらかい対応。
そんなの前から見てきたはずなのに、今日はやけに胸に引っかかる。
俺の前では、あんな触れ方じゃないのに。
ふと浮かんだその考えに、自分で少しだけ息を呑む。
いや、違う。
そこじゃない。
そういう比較の仕方をしてる時点で、もうかなりだめだ。
でも止まらない。
他のやつに向けてる距離感と、自分に向けてる距離感が違うことを、タイキはもう知ってしまっている。
知ってしまったからこそ、余計に気になる。
それはつまり――
そこまで考えたところで、スタジオの空気が少し変わった。
「ちょっと休憩しよっか」
スタッフが声をかける。
音が止まる。
みんなそれぞれ水を飲みに行ったり、その場に座り込んだりし始める。
新しい曲の音源が流れたままだったせいで、自然とその話題になった。
今進めている新曲は、しっとりしたラブソングだった。
トレーニーのひとりが、ルイの方を見て笑う。
「ルイさんだったら、こういう曲って何をイメージします?」
軽い質問。
でも、周りの空気が少しだけ面白がる方へ寄る。
「うわ、聞く?」
カノンがすぐ反応する。
「それ、答え方でだいぶ人出るやつじゃん」
「たしかに」
ゴイチも笑う。
「ルイ、そういうの案外ありそう」
ルイはペットボトルを持ったまま、少しだけ目を細めた。
「何それ」
「いや、なんか」
カノンが肩をすくめる。
「お前、そういう歌の時の目、いつも妙にリアルなんだよ」
アダムは壁にもたれたまま、何も言わない。
でも、その無言が妙に意味深だった。
タイキも聞いていた。
聞かないふりなんてできない。
ルイが少しだけ考えるように視線を泳がせる。
その間が、やけに長く感じた。
それから、ルイは何でもない顔で言う。
「……そうだな」
トーンは軽い。
でも、言葉の選び方が妙に丁寧だった。
「視線、とか。イメージするかも。なんか、こう目が合ってないのにお互いで見てるみたいな」
タイキの指がぴくっと動いた。
ルイは続ける。
視線は特定の誰かに向けていない。
でも、タイキには分かってしまう。
「あと、その相手との距離。みたいなの想像するかな」
「近くにいる時よりも、離れてる場所で意識してる方がエモい時があるな、とか」
カノンが「へぇ」と笑う。
ゴイチも「具体的だな」と言う。
タイキは呼吸を少しだけ止めた。
耳の奥まで熱くなる。
ルイはまだ続けていた。
「あと、本人はたぶん無意識なんだけど」
「そういう時の顔がやたら刺さってるのとか想像する」
「うわ」
カノンがすぐに反応する。
「経験者じゃん」
「何のだよ」
ルイは笑う。
「イメージの話」
「いや、今のはちょっと生々しい」
ゴイチも感心したみたいに笑う。
アダムだけは、静かにルイを見ていた。
その目はたぶん、“ああ、そういうことか”の目だった。
タイキはそれ以上聞いていられなくなって、さっとイヤフォンを耳に入れた。
音楽を流すわけじゃない。
ただ、これ以上何か拾わないための盾みたいに。
カノンが一瞬だけタイキを見る。
でも何も言わない。
ルイはそこでようやく、タイキがイヤフォンをしたのを視界の端で捉えたらしかった。
ほんの一瞬だけ目がやわらぐ。
でもそれ以上は追わない。
その“追わない”の優しさすら、タイキには刺さった。
イヤフォン越しに、スタジオの音が少し遠くなる。
それでも、胸の中はうるさいままだった。
やめろよ……そういうの。
そう思うのに。
嫌じゃない。
むしろ、死ぬほど嬉しい自分がいる。
それがもう、本当に面倒だった。
⸻
休憩が終わって、新曲のパフォーマンス確認に入る。
立ち位置につくルイを見た瞬間、タイキはまた小さく息を止めた。
さっきの話のせいだ。
絶対そうだ。
ルイの目が、もう違って見える。
照明はただの練習用。
衣装もまだトレーニングウェア。
なのに、曲が流れた瞬間、ルイの空気が一段変わった。
あの人の武器は、表情と目だ。
タイキは前から知っていた。
雑誌でも、撮影でも、ステージでも。
ルイは何かを“見せる”時、視線ひとつで空気を持っていく。
でも今日のそれは、普段より深かった。
さっきまで言葉にしていたものを、そのまま身体に通しているみたいだった。
ルイの目が細くなる。
苦しいほどやさしいのに、どこか少しだけ独占欲を含んだような視線。
笑っていないのに、相手だけを見てると分かる目。
歌詞の一節ごとに、感情の温度をほんの少しずつ変えていく。
トレーニーたちが、目に見えて静かになる。
最初はただ見ていたはずなのに。
途中から、空気ごと持っていかれているのが分かる。
「……やば」
ひとりが小さく漏らす。
別のトレーニーは、言葉もなく見入っていた。
その顔は、恋に落ちたというより、尊敬に近い。
でも、その尊敬がそのまま“奪われちゃいそう”な感覚になってるのが、見ていて分かる。
ルイが一歩出る。
視線を上げる。
ほんの数秒、相手を見つめる。
それだけで、スタジオの空気が止まる。
「……すげぇな」
ゴイチが思わず呟いた。
「うん」
カノンも素直に頷く。
「今の、ちゃんと持ってった」
アダムは腕を組んだまま、静かにルイを見ている。
その目はどこか納得したみたいだった。
経験アリ、だな。
たぶん、そう思っている顔だった。
タイキは少し離れた位置で腕を組んでいた。
一見すると、ただ見ているだけ。
でもその視線は、一度も逸れなかった。
逸らせなかった。
さっきの話題であんなに刺されて。
他のやつに触れられてもやもやして。
なのに今、ルイは仕事の顔で、人の目を奪っていく。
こういうとこなんだよ。
タイキは静かに思う。
もやもやさせられる。
ドキドキさせられる。
周りの目まで持っていく。
自分だけが知ってる顔もあれば、みんなの前で輝く顔もある。
その全部が、ルイだ。
だから目が離せない。
だから腹も立つ。
だから誇らしい。
だから困る。
今日のタイキの内心は、ずっと静かに忙しかった。
他のやつに肩を組まれて、少し嫌で。
同じペットボトルに口つけられて、もっと嫌で。
でも、ラブソングのイメージで自分のことを話されたみたいで、死ぬほど嬉しくて。
そのあと、ああいう目で歌われたら、もうどうしたらいいのか分からない。
胸の奥が、ずっと落ち着かない。
でもその落ち着かなさは、もう前みたいな混乱だけじゃなかった。
タイキはルイを見ながら、ふと自分の中でひとつの言葉がちゃんと形になるのを感じた。
……これ、恋だ。
好きとか、気になるとか。
そういう曖昧な熱じゃない。
独占したい。
他のやつに向ける距離にむかつく。
でも、みんなを奪う姿にはちゃんと見惚れる。
その全部を含めて、もう誤魔化しようがなかった。
恋だ。
その自覚は、派手じゃなかった。
むしろ静かだった。
でも、一度そう名付いた瞬間、胸の中で全部が繋がった。
だからあんなに気になる。
だからあんなに刺さる。
だから今日ずっと、静かに忙しかった。
ルイが最後の視線を落として、曲が終わる。
スタジオに一拍遅れて空気が戻る。
トレーニーたちが息を吐く。
誰かが「えぐ……」と小さく呟く。
カノンが笑いながら手を叩いた。
「いや、ルイ、今のやばいって」
ゴイチも素直に頷く。
「すげぇ引き込まれた」
ルイは照れたように少しだけ目を伏せて、「別に」と軽く返す。
でもその顔すら、タイキにはまた刺さる。
ルイがふとこちらを見る。
目が合う。
ほんの一瞬。
でもその目に、“どうだった”みたいな色が少しだけあった。
タイキはそれに、何も言わずに見返した。
腕を組んだまま。
でも、視線は一度も逸らさずに。
今さら逃げる気なんて、もうなかった。
だって、やっと分かったからだ。
自分がルイに向けてるこの静かに忙しい感情の名前が。
もやもやも。
ドキドキも。
独占欲も。
誇らしさも。
全部まとめて、恋だった。
合同練習の空気は、熱かった。
人数が多いぶん、鏡に映る人影も多い。
先輩アーティスト、STARGLOW、トレーニー。
それぞれの音が重なって、スタジオの中はずっとざわついている。
その中で、タイキは自分でも気づかないうちに、少しずつ落ち着かなくなっていた。
さっきの休憩。
ラブソングの話題。
ルイの言葉。
それから、あのパフォーマンス。
全部まとめて、胸の奥にまだ残っている。
しかも、もう名前までついてしまった。
これは恋だと、さっき自分で認めてしまった。
そうなると、人は厄介だ。
認めた瞬間に、ただ見ているだけじゃ足りなくなる。
こっちを見てほしい。
自分にだけ向けるものを、もう一回確認したい。
自分が特別な位置にいるって、ちゃんと確かめたくなる。
タイキの独占欲は、そういう形だった。
囲い込むんじゃない。
止めるんじゃない。
ただ、自分の方を向かせたい。
見て、気にして、安心したい。
それを本人は“独占欲”なんて名前で理解していない。
でも、行動はすでにそっちへ寄っていた。
⸻
休憩が終わって、次のブロックに入る前。
音源の確認で一度人が散る。
カノンはスタッフと話していて、ゴイチはトレーニーに振りの質問を受けている。
アダムは壁際で静かに水を飲んでいた。
ルイはモニター近くで、曲の切り替えを確認している。
そこへ、タイキが何でもない顔で近づいた。
何でもない顔のつもりだった。
でも、ルイには分かる。
この距離の詰め方は、完全に“わざと”じゃない。
でも、無意識に選んでる。
人が多い中で、ちゃんとルイだけを狙って近づいてきている。
「ルイ」
名前を呼ばれて、ルイの心臓が一拍だけ変な音を立てた。
「ん?」
タイキはルイのすぐ横まで来る。
近すぎない。
でも、二人で話すには十分近い距離。
「さっきの通し」
タイキが言う。
「俺、どこかズレてた?」
ルイはほんの一瞬だけ、言葉を忘れた。
たぶん、タイキは本当に確認もしたいんだろう。
でも、それだけじゃない。
“俺のこと見てた?”
“ちゃんと気にしてた?”
“今も、こっち向いてる?”
そういうのが全部混ざった聞き方だと、ルイには分かってしまう。
可愛い、と思った瞬間、だいぶ危なかった。
タイキ、今それ無自覚でやってる?
いや、やってるんだろうな。
それでこの破壊力なの、本当にやめてほしい。
内心はそのくらい荒れているのに、ルイの顔はほとんど変わらなかった。
「ズレてない」
低く、静かに答える。
「むしろ今日、かなりいい」
タイキの目が少しだけ揺れる。
それだけで、ルイの胸の奥はまた余計に落ち着かなくなる。
「ほんと?」
「うん」
「……そっか」
タイキはそれだけ言って、少しだけ口元を緩めた。
その反応が、あまりにも“欲しかった答えもらえた”顔で、ルイはほんの一瞬だけ視線を逸らしたくなる。
でも逸らさない。
「タイキ」
「ん?」
「確認、それだけ?」
タイキがほんの少しだけ止まる。
そこでようやく、自分の聞き方に別の意味が混ざってたことを、うっすら自覚した顔になる。
「……いや」
「その」
一瞬だけ視線が泳ぐ。
「……まぁ、ちょっと」
その“ちょっと”で十分すぎた。
ルイはポーカーフェイスのまま、小さく息を整える。
内心はだいぶひどい。
ちょっと、じゃないだろ。
確認しに来たんだろ。
俺の視線と評価、欲しかったんだろ。
可愛すぎて無理なんだけど。
でも、それを顔に出したら終わる。
「なら、ちゃんと伝えとく」
ルイは何でもない顔で言う。
「今日のタイキ、かなり目引く」
タイキの喉が小さく鳴る。
「……お前の言い方、いちいち」
「なに」
「……いや、いい」
よくないくせに、そこで引く。
その半端さもまた、ルイには全部刺さる。
その時だった。
「タイキさん!」
後ろから、明るい声が飛んできた。
振り向くより先に、若いトレーニーがそのままタイキに飛びつくように近づいてきた。
軽く肩に腕を回すみたいな距離。
年下らしい勢いで、懐っこく。
「今日、静かっすね」
距離が、近い。
ルイの目が、ほんのわずかに細くなる。
タイキは驚きもせず、自然にその勢いを受け止めた。
「そうか?」
「そうっすよ、いつももっとツッコんでくれるのに」
「いや、お前が今日うるさいだけだろ」
「ツッコむ間もないから加減して」
「ひど!」
トレーニーはけらけら笑って、タイキの腕にまだ少し寄っている。
タイキはそれを特に払わない。
嫌そうにも、わざと距離を取る風にも見せない。
優しいのだ。
たぶん無意識に。
年下が来れば普通に受け止める。
距離が近くても、そこに嫌悪を乗せない。
触れられても、軽くあしらうだけで終わる。
その“誰にでも優しい”感じが、今のルイにはだいぶきつかった。
ルイの独占欲は、タイキとは違う。
確認して安心したいんじゃない。
自分に視線を向けさせたいだけでもない。
もっと静かで、もっと本能的なやつだ。
そこ、触るな。
その近さ、いらない。
俺の前で、そいつがそんな距離にいるな。
そういう感情が、一瞬で胸の奥に立ち上がる。
でも、顔には出さない。
ルイは、そういう時ほど静かになる。
だから周りから見れば、ただそこに立っているだけだ。
けれどその視線の温度だけが、少し変わる。
タイキはまだそのことに気づいていない。
トレーニーに向かって、いつも通りのトーンで返している。
「で、何」
「え?」
「呼びに来ただけ?」
「あ、違うっす! この振りのここ、ちょっと見てほしくて」
「最初からそう言えよ」
「いや、タイキさん静かだから気になって」
「うるせぇな」
言いながら、タイキはそのまま振りを見てやる。
肩に残っていた腕も自然に外れて、今度は横並びで鏡を見る。
その流れは、確かに自然だった。
年下の相手にもきちんと優しい。
だからトレーニーも慕うんだろう。
分かる。
分かるけど、今のルイには全然落ち着かない。
……それ、誰にでもやるんだ。
いや、やるよな。
タイキはそういうやつだし。
でも、見たくはない。
その感情に自分で少し驚く。
表向きは穏やかに、でも内側では、明らかに独占欲が滲んでいた。
しかも厄介なのは、ルイ自身もまだそれを“独占欲”とはっきり認識していないことだ。
ただ、面白くない。
見ていて妙に引っかかる。
なんか嫌だ。
その正体がまだ名前になりきっていないぶん、余計に扱いづらい。
アダムが少し離れた位置から、その空気を見ていた。
何も言わない。
でもその目は、また分かってるやつの目だった。
⸻
トレーニーへの確認が終わると、タイキは「もういいだろ」と軽く頭を小突いて、その子を送り出した。
トレーニーが「ありがとうございます!」と去っていく。
ようやく少し距離が戻る。
タイキはそこで、ふとルイの方を見た。
視線が合う。
その瞬間、タイキは小さく息を呑んだ。
ルイは無表情ではない。
むしろ落ち着いて見える。
でも、その目の奥にある静かな熱が、さっきよりはっきりしていた。
「……なに」
タイキが言う。
ルイは少しだけ首を傾ける。
「別に」
その“別に”が、全然別にじゃない。
タイキはそこで、ようやく少しだけ察する。
というか、感じる。
さっき、自分がルイに確認しに行ったのは、“見てほしい”側の独占欲だった。
自分の方を向かせたい。
特別だと確かめたい。
安心したい。
でも、今ルイの中にあるものは、たぶんそれとは少し違う。
もっと黙っていて。
もっと静かで。
でも一度出たら深い。
囲い込みたいような。
近づく相手を目で追い払うような。
そういう独占欲。
タイキは、その違いに言葉はつけられないまま、ただ少しだけ熱を感じる。
「……ルイ」
「ん?」
「なんか、今」
「何」
タイキは一瞬迷って、でもそこで言葉を濁した。
「……いや、いい」
まだそこまで踏み込むのは早い気がした。
でも、さっきの“別に”の中身は、ちゃんと見えた気がする。
ルイは少しだけ目を細める。
たぶん、“言いかけてやめた”ことまで気づいている。
その空気のまま、次の練習が始まる。
⸻
合同練習は、そのあとも続いていく。
人が多い。
やることも多い。
合間の会話も、指導も、確認も絶えない。
その日常の中で、お互いの独占欲は少しずつ滲んでいた。
タイキは、ルイが誰を見ているかを気にする。
何を言われた時に、どう笑うかを見てしまう。
できれば、自分の方を見ていてほしい。
自分のことを一番気にしていてほしい。
その確認で安心したい。
ルイは、タイキに近づく人間の距離を見ている。
肩に触れる手。
近い声。
無邪気に寄っていく後輩。
それを見て、静かに内側がざわつく。
自分の前でそれをされるのが妙に嫌だ。
どっちも、まだ自覚は薄い。
けれど、確実に進んでいる。
日常の中で。
仕事の中で。
何も言わないまま。
でも少しずつ、もう前には戻れない方向へ。
練習の最後、全員が鏡の前に散っている時。
タイキはルイの視線をまた感じた。
見れば、ルイがこちらを見ている。
あからさまじゃない。
仕事の流れに紛れる程度。
でも、ちゃんと分かる。
タイキは一秒だけその視線を受け止めた。
安心した。
それと同時に、胸の奥が少し熱くなった。
やっぱり、見てほしい。
やっぱり、あの目を向けられると落ち着く。
その感覚を持ったまま、タイキはふと笑いそうになった。
俺もだいぶやばいな。
でも、そのやばさがもう嫌じゃない。
ルイもまた、タイキが自分の方を見返したことに、小さく息を整えていた。
人が多くても。
日常が騒がしくても。
合同練習でいろんな人が混ざっても。
やっぱり、最後に視線を返してくるのはタイキだ。
その事実だけで、少しだけ静かになれる自分もいた。
だからたぶん。
お互い、自覚のないままでも、ちゃんと進んでいる。
恋の方へ。
独占欲の方へ。
それでもまだ、仕事の中で普通の顔をしながら。
合同練習は、最後まで何事もなく終わった。
少なくとも、表向きには。
新曲の立ち位置確認も、先輩アーティストとの流れも、トレーニーたちへの細かな修正も。
STARGLOWとしての空気も崩さず、必要なところはきっちり締めて、笑うところではちゃんと笑って。
ルイもタイキも、一度も表には出さなかった。
終わりの挨拶が入る。
「ありがとうございました!」
声が重なる。
スタジオに一日の終わりの空気が落ちる。
トレーニーたちがばらけながら、それぞれ礼を言いに来る。
「ルイさん、さっきのアドバイスめっちゃ分かりやすかったです」
「タイキさんもありがとうございました、あの振り助かりました」
「またお願いします!」
ルイはいつも通り穏やかに応じた。
タイキも、やわらかく笑って「おつかれ」と返す。
ゴイチがタオルを肩にかけながら大きく息を吐く。
「今日はさすがに長かったな」
「でも収穫あったじゃん」
カノンが靴紐を結びながら笑う。
「新曲の見え方、だいぶ掴めたし」
アダムはペットボトルのキャップを閉めながら、短く頷いた。
「うん。悪くなかった」
「じゃ、今日はお疲れ」
ゴイチが先に荷物を持ち上げる。
「明日またよろしく」
「おつかれー」
カノンも続く。
ルイもタイキも、何でもない顔で「おつかれ」と返した。
仕事の一日が、表向きは無事に終わる。
でも。
今日、帰す気がなくなったのは、ルイの方だった。
⸻
トレーニーたちとの距離。
タイキに飛びついていった年下。
当たり前みたいに腕に触れて、近い距離で笑っていた顔。
タイキは悪くない。
むしろ、優しすぎるくらいだった。
誰が来ても受け止める。
距離が近くても嫌な顔をしない。
軽くあしらいながらも、相手の顔を立てる。
分かってる。
全部、分かってる。
でもその“分かってる”の内側で、静かに反動が始まっていた。
ルイはもう、表では崩れない。
視線ひとつで察するほど露骨にもならない。
だからこそ、静かに始まる。
帰したくない。
少しでも長く自分の近くに置いておきたい。
今日、自分に向けた視線も、確認しに来た言葉も、全部ちゃんと受け取った。
そのうえで他のやつに近づかれるのを見たから、余計に。
奪うつもりはない。
でも、手元に置きたい。
その欲が、じわじわと夜の方へ向いていく。
⸻
片づけを終えて、スタジオの外に出る頃には、空はもう濃い夜だった。
さっきまでのざわつきが嘘みたいに、廊下の先は静かだった。
ルイとタイキは、気づけば少し離れて並んで歩いていた。
今までなら、ここでタイキの方から何か話し始めるか、ルイが軽く何か振るか。
そういう流れが自然にあった。
今日は、ルイの方が静かだった。
それに気づいたのは、タイキの方が先だった。
エレベーターを待つ短い沈黙。
降りて、外へ出て、駅までの道を歩き始めても、ルイは必要以上のことを言わない。
怒ってるわけじゃない。
機嫌が悪いわけでもない。
ただ、静かだ。
「……今日さ」
その沈黙に負けたみたいに、タイキが先に口を開く。
「新曲の最後のAメロ、結構よかったよな」
ルイは少しだけ顔を向ける。
「うん」
「アダムの抜き方もよかったし」
タイキは歩きながら続ける。
「カノンの入りも、今日だいぶハマってた」
「あと、トレーニーのやつらも思ってたよりちゃんとしてたし」
「そうだな」
ルイは短く返す。
タイキはそこで、少しだけ安心した。
返事はちゃんとある。
ただ静かなだけだ。
「お前、さっきのラブソングの見せ方、やばかったけど」
タイキは何気ない顔を装って言う。
「トレーニー、だいぶ持ってかれてたぞ」
ルイは少しだけ笑った。
「タイキも見てたじゃん」
「……そりゃ、見てたけど」
さらっと返されて、タイキの耳がほんの少しだけ熱くなる。
でも今日のタイキは、そこから逃げない。
「あと、後輩の振り見てた時の入り方もうまかった」
「距離近いのに変に見えないし」
「お前、ああいうの得意だよな」
そこまで言ってから、タイキは少しだけ言葉を切った。
自分で言っていて、ほんのわずかに引っかかる。
距離近い、なんて単語を、自分から出したことに。
ルイはその引っかかりごと受け取っていた。
でも顔には出さない。
むしろその静けさの中で、反動の火種はさらに燻っていく。
俺が静かなの、気にしてる。
気にしてるから話しかけてくる。
しかも、後輩のことまで見てた。
それだけで、内心はかなり落ち着かなかった。
可愛いな、と思う。
思うけど、その可愛さのせいで余計に帰したくなくなる。
ルイは少しだけ息を吐いてから、ようやく口を開いた。
「今日、一緒に帰る?」
唐突でもない。
でも、いつもより少しだけ真っ直ぐだった。
タイキが足を緩める。
横を向く。
「……え」
「帰る方向、一緒だろ」
ルイは何でもない顔で言う。
「途中まででも」
タイキは数秒だけ考えて、それから小さく頷いた。
「……うん」
その返事が思ったより素直で、ルイの胸の奥がまた静かにざわつく。
⸻
帰り道、ルイは相変わらず口数が少なかった。
タイキの方が、ぽつぽつと今日の振り返りを話していく。
合同練習のこと。
後輩たちのこと。
アダムのコメントが妙に刺さったこと。
ゴイチが何気なく場を締めていたこと。
ルイはそれを聞きながら、内心では別のことを考えていた。
タイキの声。
隣にいる気配。
仕事が終わって、外の空気の中で少しだけ力の抜けた横顔。
それを、もう少しだけ自分の近くに置いておきたい。
さっきからルイの独占欲は、激しく燃え上がるんじゃなくて、じわじわと熱を増していくタイプだった。
だから余計に危ない。
静かな顔で、普通の言葉で、でも確実に手元へ寄せていく。
マンションが見えてきたところで、ルイは自然な声で言った。
「メシ、食ってく?」
タイキがまた顔を上げる。
「……今日も?」
そこに浮かんだのは警戒じゃなかった。
むしろ、昨日の安心感の延長にある、少しだけうれしそうな驚きだった。
ルイはその顔を見て、危うく全部崩れそうになるのを抑える。
「うん」
「時間も微妙だし」
「帰ってまた適当に食うより、こっちで済ませた方が楽じゃない?」
言い方は軽い。
でも本音は全然軽くない。
帰したくない。
もう少しだけ傍に置いておきたい。
その真意に気づかないまま、タイキはほんの少しだけ口元をゆるめた。
「……じゃあ、食う」
その返事が無防備で、ルイは内心で小さく苦笑する。
だめだ、今日ほんとに可愛すぎる。
⸻
ルイの部屋に入る頃には、合同練習の熱も少しだけ生活の空気に溶け始めていた。
昨日みたいな、玄関に立つだけで心臓が跳ねる感じはない。
タイキも今日は、自然に靴を脱いで部屋に上がる。
「何作るの」
「まだ決めてない」
「冷蔵庫見て決める」
「雑だな」
「タイキがいるから、適当でも多分うまい」
「何それ」
そんな軽いやり取りをしながら、ルイはキッチンへ入る。
タイキも、迷わずその近くまで来た。
昨日の朝と夜を挟んでいるせいか、もう“ルイの家のキッチンにいる”こと自体への緊張はかなり薄い。
それがルイには、嬉しくて、危ない。
冷蔵庫を開ける。
野菜を出す。
肉を取り出す。
フライパンを置く。
そのたびに、タイキは自然に近くにいる。
「何か手伝う?」
「うん、じゃあその袋取って」
「これ?」
「そう」
距離は近い。
でも、タイキがまだ警戒しないレベルでしか近づかない。
ルイはそこをちゃんと守っていた。
まな板に材料を置く時、腕が少しだけ重なるような位置に入る。
流しで野菜を洗う時、背中越しに一歩だけ近い位置を通る。
調味料を取るついでに、タイキの肩越しから手を伸ばす。
どれも、言い訳のきく距離。
でも、ちゃんと傍に置いている距離でもある。
タイキはそのことに明確には気づいていない。
でも、ルイが近くにいると落ち着く。
その感覚がもう、身体の方に馴染み始めていた。
「今日、疲れた?」
ルイが包丁を動かしながら聞く。
「まぁ、ちょい」
タイキは冷蔵庫のドアにもたれ気味に立って答える。
「でも昨日よりはマシ」
「昨日より?」
「……昨日は、色々あったし」
その返しにルイの口元がほんの少しだけ緩む。
「色々、ね」
「うるさい」
「何も言ってない」
「言ってる顔してる」
そんな会話の間にも、距離はじわじわ近い。
フライパンに火が入る。
油の音が立つ。
ルイが具材を入れると、じゅっと香ばしい音が広がった。
タイキはその匂いを吸い込んで、小さく息を吐く。
落ち着く。
ルイが近くにいて。
料理の音がして。
何かを話していて。
今夜は、合同練習で感じたもやもやや独占欲の反動が、少しずつほどけていくのが分かった。
あの時は、他のやつに向けるルイの距離に勝手にざわついていた。
見てほしくて、確認したくて、勝手に忙しかった。
でも今は違う。
ルイが傍にいる。
自分のためにご飯を作っている。
距離も、言葉も、自分の方へ向いている。
それだけで、胸の中のざわつきが少しずつ静かになる。
ああ、俺、ルイが傍にいると安心するんだ。
昨日から何度も感じてきたことなのに、今日はそれがいちばん素直な形で胸に落ちた。
「……何」
ルイがふと聞く。
「え?」
「さっきから静か」
ルイはフライパンを返しながら笑う。
「落ち着いてる顔してる」
タイキは少しだけ目を細めた。
「……お前がいるからじゃね」
ぽろっと出た本音だった。
ルイの手が一瞬だけ止まる。
ほんの一瞬。
でも、タイキには分かった。
言ってから少しだけ照れる。
でも、もう引っ込めるほどでもなかった。
ルイはそのまま火加減を調整して、何でもない顔を装いながら言う。
「それ、だいぶ嬉しい」
低くて、やわらかい声。
タイキは肩を少しだけすくめる。
「合同練習、なんか静かに疲れたし」
「……今、ちょうどいい」
その“ちょうどいい”が、ルイにはかなり深く刺さる。
ルイは調味料を入れながら、少しだけ声を落とした。
「今日、後輩にだいぶ懐かれてたけど」
タイキがそちらを見る。
「あ?」
「いや」
ルイは軽く言う。
「人気だなって思って」
それだけ。
でも、その中に小さく滲んだものがある。
責めてない。
問い詰めてもいない。
でも、見てたことはちゃんと伝わる。
タイキはそこで一瞬だけ目を瞬かせたあと、ふっと息を吐いた。
「……お前もだろ」
「何が」
「人のこと言えねぇって話」
「俺は普通」
「普通じゃねぇよ」
タイキは小さく笑う。
「今日、だいぶ持ってってたし」
ルイはその返しに少しだけ目を細める。
「見てたんだ」
「……見てたよ」
「ずっと?」
「うるさい」
「そこ否定しないんだ」
「しないけど、うるさい」
その会話が、妙に甘い。
お互いに少しずつ本音を漏らしている。
でも、まだ決定的に重くはしない。
その温度が今の二人にはちょうどよかった。
料理が進む。
皿が出される。
キッチンに立つ二人の距離は、何度も肩が触れそうで触れないままだ。
触れないのに、近い。
近いのに、落ち着く。
タイキは思う。
今日、自分の中で燻っていた独占欲の反動は、こうやってルイが傍にいることで、少しずつほどけていくんだと。
他のやつの前にいるルイを見てざわついた分だけ。
今、自分の目の前にいるルイに安心する。
それが恋なんだろうな、とタイキは静かに思った。
ルイはたぶん、そんなタイキの変化まで読んでいる。
でも全部は言わない。
ただ、傍に置く。
料理の音と、やわらかい会話と、小さく滲む独占欲だけで。
そして夜はまた、静かに続きを始めていく。
「テレビ見ながら食べる?」
料理をテーブルに並べ終えたあと、ルイが何でもない顔でそう言った。
「楽だし」
タイキは一瞬だけダイニングの椅子を見た。
でも、ルイはもう自然な足取りでソファの方へ向かっている。
「……まあ、いいけど」
そう返して、タイキもついていく。
ローテーブルの上に皿を置いて、二人で並んで座る。
昨日より、少しだけ近い。
でも、くっついてはいない。
その半端な距離が、今の二人にはちょうどいい気もした。
ルイは皿を置きながら、自分の言葉の真意をちゃんと分かっていた。
楽だから。
それはたしかにそうだ。
でも、それだけじゃない。
隣に置いておきたい。
ダイニングで向かい合うより、ソファで隣に座らせたい。
テレビの光の中で、同じ方向を向いていたい。
今日一日で燻り続けた反動が、まだ静かに胸の奥で熱を持っている。
帰したくない。
少しでも近くに置いておきたい。
その気持ちは、まだ全然消えていなかった。
映画でもなく、なんとなく流しっぱなしのバラエティ番組をつける。
賑やかな音が、ちょうどいい程度に部屋の静けさを薄めてくれる。
食事は、思っていたより静かに進んだ。
タイキは箸を動かしながら、時々小さく「うま」とか「これ好きかも」とか言う。
ルイもそのたびに短く返す。
言葉数は多くない。
でも、その静けさは気まずくなかった。
ひと口食べてから、タイキがふいにルイの方を見た。
「……いつも、ありがとな」
純粋な笑顔だった。
飾っていない。
気を引こうとしたわけでも、照れ隠しでもない。
ただ、本当にそう思ったから出た顔。
ルイの胸の奥が、ぎゅっとなる。
その笑顔でそんなことを言うなよ、と思う。
今日ずっと燻ってるものに、また新しく火を落とされる。
でも表には出さず、ルイは少しだけ目を細めるだけにとどめた。
「こちらこそ」
「来てくれてありがと」
タイキは、そう言われると少しだけ視線を逸らした。
でも嫌そうじゃない。
その逃げ方ももう、ルイにはいちいち可愛かった。
食事が終わる頃には、テレビの音が少しだけ遠く感じるくらい、部屋の空気が落ち着いていた。
その時、ルイがカップを置きながら言う。
「昨日みたいに寝落ちしたらあれだから、風呂入れようか?」
タイキが顔を上げる。
「……風呂?」
「うん。使っていいよ」
ルイはあくまで何でもない顔で続ける。
「先入るなら、タオル出すし」
あまりに自然な言い方だった。
だからタイキも、深く考えずに頷いた。
「……じゃあ、借りる」
「了解」
ルイは立ち上がって洗面所の棚からタオルを出す。
部屋着のTシャツも適当に貸してやるつもりでクローゼットを開ける。
その途中で、自分が何をしているのかにふと気づいた。
風呂を貸して。
自分の服を着せて。
生活の時間に、タイキを自然に入れている。
……俺、これで落ち着くと思ってるのか。
無意識に、そうやって反動を解消しようとしている自分に、ルイは小さく苦笑した。
もっと近づきたい。
触れたい。
独占したい。
そういう乱暴な欲の代わりに、生活の中へ入れる。
日常の温度にタイキを馴染ませることで、自分の中のざわつきを落ち着かせようとしている。
ずるいな、と思う。
でも、それでも今はそれが一番ましな気がした。
「はい」
タオルと服を渡す。
タイキは受け取って、「ありがと」と小さく言った。
それだけのやり取りなのに、すでに“家の中の二人”みたいで、ルイの胸の奥はまた静かに熱を持つ。
⸻
風呂場のドアが閉まって、シャワーの音が聞こえ始める。
ルイはソファに座ったまま、リモコンを意味もなく持ち直した。
テレビの中では芸人が何かやっている。
でも内容は全然頭に入ってこない。
風呂を勧めたのは自分だ。
一回さっぱりした方がいいと思ったし、昨日みたいに寝落ちされても困る。
それは本当だった。
なのに。
風呂上がりのタイキを想像してしまった時点で、だいぶだめだった。
「……行かせたの俺なんだけどな」
独り言みたいに呟いて、片手で目元を押さえる。
シャワーの音が止まる。
その現実感だけで、無駄に呼吸が浅くなる。
少しして、洗面所のドアが開いた。
「ルイ、ドライヤー借り……」
言いかけて出てきたタイキを見た瞬間、ルイは視線を逸らした。
貸したTシャツ。
少しだけ大きいサイズ。
風呂上がりで濡れた髪。
頬に残る薄い赤み。
肌の温度がそのまま見えるみたいな、あの感じ。
ナチュラルすぎた。
飾ってない。
無防備。
こっちが勝手に刺さるだけの姿。
ルイは思わず目を合わせられなかった。
耳の奥が熱い。
「……洗面所、棚の上」
できるだけ普通の声で言う。
タイキは一瞬だけきょとんとしたあと、「あ、うん」と言って洗面所へ戻った。
その背中を見送ってから、ルイは深く息を吐く。
だめだ。
これは予想以上に刺さる。
⸻
ドライヤーを終えて戻ってきたタイキは、ソファの背に手を置いてルイを見た。
そこでようやく気づく。
ルイ、目を合わせない。
しかも――耳が赤い。
「……ルイ?」
「ん?」
「お前、風呂入ってくれば」
ルイがようやく顔を上げる。
その耳の赤さは、見間違いじゃなかった。
タイキの胸が少しだけ騒ぐ。
なんで赤いの。
それが気になる。
すごく。
自分が風呂上がりだから?
さっきの姿を見たから?
いや、まさか。
でも、だったら――
その内心が少しうるさくなるのを感じながら、タイキはわざと軽く言った。
「汗もかいてたし」
「俺だけ入ってんのもなんか変だろ 」
ルイは少しだけ黙ってから、「……そうする」と立ち上がった。
すれ違いざま、まだ耳が赤い。
それを見て、タイキの心臓が変な鳴り方をする。
⸻
ルイが風呂に入っている間、タイキはソファにひとり座っていた。
テレビはついたまま。
でもやっぱり内容は入ってこない。
頭の中に残ってるのは、さっきのルイの耳だ。
なんで赤かった。
なんで目を逸らした。
なんで、あんなに一瞬で空気が変わった。
考えて、考えて。
でも分からない。
その答えは、ルイが風呂から上がってきた時、あっさり分かった。
「……あ」
思わず、声にならない音が漏れる。
濡れた髪を軽く拭きながら出てきたルイは、さっきの自分とたぶん同じだった。
風呂上がりの熱をそのまままとっていて、服のラフさとか、首筋とか、少しだけ湿った前髪とか、そういう全部がやけに近く見える。
そして、その瞬間。
ああ、これか。
タイキはようやく理解する。
さっきルイの耳が赤かったのは、こういうことだ。
自分も今、同じだ。
視線の置き場がなくて、喉が少し乾いて、意識したくないのに意識してしまう。
ルイも、さっきこうだったんだ。
「……っ」
タイキは無意味にテーブルの上のリモコンを触る。
落ち着かない。
何か話さないと、と思う。
「きょ、今日の練習会さ」
あまりに急で、自分でも笑いそうになるくらいだった。
ルイはタオルを首にかけたまま、「ん?」とだけ返す。
「後輩のやつら、思ってたよりちゃんとしてたよな」
タイキは早口気味に続ける。
「特にさっきの、あの……お前に振り聞いてたやつ」
「距離近かったけど、まあ、懐いてる感じで」
そこまで言った瞬間。
空気が、変わった。
ルイの動きが止まる。
静かに。
でもはっきりと。
タイキは遅れて気づく。
地雷を踏んだ。
さっきの後輩。
近い距離。
今日のルイの静かな独占欲。
全部思い出した瞬間、胸が少しだけひやっとする。
ルイはタイキに近づいた。
タイキが言葉を足す前に。
ソファの前まで来て、ルイの手が伸びる。
手を掴まれた。
「……っ」
強くはない。
でも、ただ触れたんじゃない。
話を止めるための手だった。
それでも。
風呂上がり。
近い距離。
少し湿った空気。
今のこの状況で、それはたぶん思った以上に危ない。
ルイ自身も、その瞬間に分かっていた。
コメント
3件
2人それぞれの嫉妬の書き分けが秀逸すぎて…👏💕勉強になります(笑)なんかもう、こちら側が焦らしに焦らされて堪りません😆😆😆

今回はオーディション中のSGの話し合いとか、パフォーマンス中のドキッとするような2人の視線の交わし方を思い出しました。。 ものすごく続きが気になります、楽しみです
おつかれ~!第8話読んだわ。もうね、タイキが「これ、恋だ」って自覚するところ、めちゃくちゃグッときた。あの静かに胸の中で繋がっていく感じ、すごくリアルだった。ルイの触れ方も、仕事のふりしてちゃんと“お前に触れた”って分からせるのがずるいし、逆にタイキが後輩に触られてるの見て静かに嫉妬するルイの内面も刺さった。合同練習のラブソングのイメージ語るところ、あれ完全にタイキのことだよね…? 日常の積み重ねで距離が縮まってく空気感がほんと上手いわ。続き気になる🔥