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#王子
すっこ
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碧星_Aoi
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それからもしばらく、公園で穏やかな時間を過ごした。
乃亜は滑り台で遊ぶ子どもたちを少し離れた場所から眺めたり、芝生へ降りてきた鳥を指差したり、目に映るもの一つ一つに興味を示していた。
まだ他の子どもたちの輪へ入っていくことはできない。
それでも、家の中だけに閉じていた乃亜の世界が、確実に外へ向かって広がり始めている。
帰る頃には、乃亜はすっかり疲れていた。
公園を出てしばらく歩くうち、足取りが少しずつ重くなり、何度も眠たそうに目を擦り始める。
「眠くなっちゃった?」
詩乃が尋ねても返事はない。
代わりに乃亜は両腕を伸ばし、詩乃へ身体を預けてきた。
抱き上げると、しばらくもしないうちに肩口へ頬をつけ、静かな寝息を立て始める。
「……代わります」
幸人が手を差し出した。
「大丈夫です」
詩乃は首を横に振り、腕の中の乃亜を見下ろす。
眠っているにもかかわらず、小さな手は詩乃の服をしっかりと握ったままだった。
離れてしまわないように、無意識のうちに確かめているのかもしれない。
幸人もその手に気づいたのだろう。
それ以上は何も言わず、再び隣を歩き始めた。
夕暮れにはまだ早い明るい道を、三人でゆっくりと歩いていく。
しばらく、言葉はなかった。
けれど以前のような、息苦しい沈黙ではない。
やがて幸人が、前を向いたまま口を開いた。
「……ありがとう」
「え?」
思いがけない言葉に、詩乃は顔を上げる。
幸人はすぐにはこちらを見なかった。
「この子を、守ってくれて」
その言葉が、詩乃の中へゆっくりと染み込んでいく。
守ってくれて。
今までずっと疑われていた自分が、初めて幸人から認められたような気がした。
「乃亜が、あんなふうに笑うとは思いませんでした」
零れた声は、いつもの硬さが少しだけ薄れていた。
詩乃は何かを返そうとしたものの、胸に込み上げるものが邪魔をして、うまく言葉にならない。
「……いえ」
ようやく、それだけを答えた。
幸人はしばらく黙っていたが、やがてほんのわずかに目元を緩めた。
「また来ましょう」
静かな声だった。
三人で。
幸人はそう口にはしなかった。
けれど詩乃には、確かにそう聞こえた。
腕の中には、安心しきった乃亜の寝顔がある。
その隣には、幸人がいる。
今日初めて聞いた乃亜の笑い声を思い出しながら、詩乃は胸の内側が満たされていくのを感じていた。
(……ずっと、こんな時間が続けばいいのに)
ふと浮かんだ願いに、自分でも驚く。
これは、本来自分の人生ではない。
そう分かっているはずなのに。
それでも今は、その願いを打ち消すことができなかった。
***
病院へ向かう足取りは、自然と重くなっていた。
先ほどまでの温かな時間が嘘だったかのように、胸の内側へ冷たいものが広がっていく。
乃亜を家へ送り届けたあと、詩乃は一人で病院を訪れていた。
自動ドアをくぐった瞬間、鼻をつく消毒液の匂い。
白い壁と、静かな廊下。
何度訪れても、この場所に慣れることはなかった。
受付を済ませ、エレベーターへ乗り込む。
階数を示す数字が一つずつ増えていくのを眺めながら、詩乃は無意識に手を握りしめた。
ここへ来るたびに、自分が何者なのか分からなくなる。
やがて扉が開き、静かな廊下を進む。
目的の病室の前で足を止めた。
ネームプレートには、見慣れた名前が記されている。
――楠木詩乃。
今も、自分の名前のはずだった。
それなのに、その四文字は以前よりずっと遠いものに感じられた。
詩乃は小さく息を吸い、病室の扉を開けた。
中には規則正しい電子音だけが響いている。
窓際のベッドに、一人の女性が横たわっていた。
長い黒髪に、白い肌。閉じられた瞼。
何本もの管に繋がれていなければ、ただ眠っているだけにも見える。
詩乃はゆっくりとベッドへ近づいた。
そこにいるのは――自分だった。
見慣れていたはずの顔。
かつて毎朝、鏡の中で見ていた顔。
けれど今は、他人の姿を眺めているような奇妙な感覚がある。
事故のあと、この身体は奇跡的に一命を取り留めた。
けれど意識は戻らないまま、すでに三年が経っている。
詩乃はベッド脇の椅子へ腰を下ろし、眠り続ける自分の顔を見つめた。
ここに自分の身体がある。
呼吸をして、心臓も動いている。
それなのに自分は今、果穂の身体で息をし、食事をし、乃亜の手を握っている。
最初の頃は、鏡を見るたびに息が詰まりそうだった。
自分ではない顔がこちらを見返してくることが怖くて、果穂の声で自分の言葉が発せられることにも、いちいち戸惑っていた。
けれど、最近は違う。
朝起きて鏡を見ても、歯を磨いていても。
乃亜から「まま」と呼ばれて振り返る時も。
幸人と向き合って話している時も。
この身体でいることを、以前ほど意識しなくなっていた。
果穂の顔が、自分の顔になり始めている。
その事実が怖かった。
――それなのに。
どこかで、ほっとしている自分もいる。
乃亜がいる。
幸人がいる。
一恵がいて、温かい食事の匂いがする家がある。
今日のように、三人で外を歩く時間もある。
守りたいと思える場所が、少しずつでき始めている。
(ずっと、こんな時間が続けばいいのに)
つい先ほど浮かんだ願いが、再び胸をよぎった。
詩乃は眠っている自分の顔を見つめる。
もし、この身体が目を覚ましたら。
——自分はどうなるのだろう。
そこまで考えた時、別の疑問が浮かんだ。
(……待って)
自分は果穂の身体で目を覚ました。
ならば――。
(果穂は、どこにいるの?)
これまで何度も考えかけ、そのたびに答えがないまま胸の奥へ押し込めてきた疑問だった。
もし単純に身体が入れ替わったのなら。
目の前に眠っている、この身体の中には――。
詩乃は息を呑む。
(……果穂がいるの?)
答える者はいない。
規則正しい機械音だけが、静かな病室に響いている。
もしそうなら。
この身体が目を覚ました時、果穂も目を覚ますのだろうか。
そして、その時は――。
詩乃は自分の手を見る。
果穂の細い指。
その手で今日、乃亜と手を繋いだ。
転んだ乃亜を抱き起こした。
眠った乃亜を抱いて帰ってきた。
その記憶を思い出した瞬間、胸の奥に湧き上がった感情に、詩乃自身が戸惑った。
――怖い。
何が怖いのか、考えたくなかった。
果穂が目を覚ますことなのか。
今の生活が変わってしまうことなのか。
それとも――自分が、この身体を返さなければならなくなることなのか。
詩乃はそれ以上考えることができず、ゆっくりと立ち上がった。
「……また来るね」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
眠る自分へなのか。
その中にいるかもしれない果穂へなのか。
それとも、かつての自分自身へなのか。
詩乃はもう一度だけベッドを振り返り、病室を後にした。
扉が静かに閉まる。
足音が遠ざかり、病室には再び規則正しいモニター音だけが残された。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
何も変わらない、白い病室。
三年間、眠り続けている女性。
その時だった。
白いシーツの上に置かれた指先が――ほんのわずかに動いた。
ぴくり、と。
誰かを追いかけようとするように。
何かを掴もうとするように。
それきり、指は再び動かなくなる。
けれど、確かに動いた。
閉ざされた意識の奥深く。
長い眠りの底で——何かが、ゆっくりと目覚めようとしていた。
コメント
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ああもう、この回は本当に胸がぎゅっとなりました……。公園で乃亜が笑ったこと、幸人さんから「守ってくれて」と言われたこと、詩乃さんが初めて認められたような気持ちになったシーン、全部が温かくて。それなのに病室で自分の身体と向き合うラストが切なすぎます。「果穂はどこに?」という問い、そして最後の指先の動き——あれには鳥肌が立ちました。この先どうなるのか、怖いような気持ちと知りたい気持ちでいっぱいです。七美さんの心理描写、本当に繊細で美しいです。