路地は夕暮れの光も届かぬ狭隘な空間で、壁に貼り付いた広告の破れた紙が微かに風に揺れ、足元の水溜まりに薄暗いオレンジ色の光を反射させている。
アスファルトは雨の跡でまだ湿り、靴底に微かな粘りを生む。空気は湿気と鉄の錆、そして遠くの方から漂う血の匂いが混ざり合い、そこにアマリリスの吐息が混じる。
彼の手は自然にホルスターにある拳銃に触れ、指先で確かめ、背中の感覚で路地全体を把握する。目に映るのは錆びた排水管、剥がれた塗装、そしてわずかな動線を残す影だけ。異常はない、だがそれは静寂の深さを逆に強調していた。
その時、不意に視界の端で濃い赤が揺れた。チーターが、路地の奥から静かに現れたのだ。武器は血の刃のようなものを持っている。光に反射するその刃は濡れた路地の表面を赤く染め、かすかに滴る液体が地面に落ちるたびに小さな水紋を作った。
チーターの瞳は冷たく、鋭く、アマリリスを対象として見定めているようだった。
「また血か…。」
アマリリスの唇が微かに動く。彼の声は目の先にいるチーターにも届かぬほど小さく、ただ自分の耳にだけ届く。
呼吸を整え、重心を低くし、銃を構える。路地の奥の赤い影が一歩前に踏み出すと、路地の壁に反射してその影が揺れ、空間全体が生き物のように歪む感覚が彼の神経を刺激した。
血のチーターは動かない。だが、足元の血の塊がわずかに蠢き、獲物の匂いを感じ取ったかのように赤い刃が微かに震える。最初の一撃は避けられない、アマリリスはそれを理解していた。だからこそ距離を測り呼吸を整え銃口を微かに動かして予備動作を確認する。
「……行くしかない。」
低くつぶやき、彼の全身が瞬間的に静止する。血のチーターも同じ瞬間に動く。赤い刃が高速で振り下ろされ、斬撃になり飛んでくる。斬撃は路地の壁にぶつかり跳ね返り細かくなった破片が飛び散る。
アマリリスは身を低く反転させ、刃が通った軌跡をかすめて避ける。その反動で彼の足元の水が飛び散り、薄暗い光の中で細かい光の粒となった。
刃は次々と振り下ろされる。血のチーターの動きは予測不可能で、時に跳躍し、時に地面に這いつくばるように動き、アマリリスの視界の中で赤い軌跡を描き続ける。だが、アマリリスの集中力は鋭く、脳が空間全体を計算するかのように、刃の軌道、反射光、湿った地面の摩擦、距離感を一瞬で読み取り、最適な回避ルートを選択していた。
「……一撃目から殺してやる。」
刃が再び振り下ろされる瞬間、アマリリスは踏み込み、銃を構え発砲する。その動作は血のチーターの赤い刃をかすめ、銃弾は壁の方はぶつかる。刃の一部が跳ね返り、血液の滴が彼の頬に飛ぶ。冷たい感触が瞬間的に肌を刺激する。
血のチーターは一瞬ひるむ様子を見せたが、両手に持った刃を両方の壁にに叩きつけ、血の刃が縦横無尽に散る。赤い液体が飛び散り、乾いた路面を赤く染める。アマリリスは後退して距離を取り、射程距離から離れる。あの攻撃は威力が高いが射程は短いようだ。
次の瞬間、チーターの刃が横一文字に振り下ろされ、アマリリスの足元に血が跳ねた。アマリリスは背中から倒れるが、銃を構え直し発砲。攻撃の後隙の影響か銃弾はチーターの左脇腹に当たる。
「ぐっ……!」
予測していなかったのかチーターは少し困惑の表情を見せる。壁の距離はわずかに数メートル、回避動作の自由は制限され、刃の赤い軌跡は視界全体を占める。アマリリスは呼吸を制御し、心拍を意識的に下げ、全神経を集中させる。次の一撃を予測し、刃の起点となる肩や腕の微妙な動きを視界の端で捉える。
血のチーターは瞬間的に跳躍し、空中で体全体を回転させ、血の刃が複数の軌道を同時に描いた。赤い液体が光を反射して軌跡を残し、アマリリスの視界に入り込む。だが、彼の眼は冷静だった。刃の形状、跳躍角度、血液の滴の落下速度を瞬時に計算し、最小限の回避と反撃のタイミングを決定する。
一瞬の静止。呼吸を止め、跳躍の頂点を見極め、発砲する。アマリリスの銃弾は血の刃を貫通しチーターの胸に触れる。しかし、チーターは最後の瞬間に体をとんでもないスピードでねじり、銃弾は体を貫通せずにチーターの後ろを通り過ぎた。
赤い液体が飛び散る中、路地の暗がりで血のチーターは微かにうめき声をあげる。刃を再構成する間もなく、アマリリスは短く息を吐き、刀を構え直す。刃の軌道を読み、次の一撃をどう制するか。全てはこの瞬間の反応にかかっている。
「……ここで終わらせる。」
雨が強くなってきた。
アマリリスは腰にあるナイフを取り出し、力を込めて振り下ろす。血のチーターの頭部を狙った斬撃が命中する瞬間、血が爆発的に広がり、路地の壁や雨粒に跳ねる。
チーターは苦悶の声を上げ、体をもがくが、体を血で纏い再生する。
血のチーターは、腕や脚を分裂させ、刃を回転させ、アマリリスの攻撃を誘導する。彼はナイフと銃を使い分け、常に先を読み、攻撃の隙間を狙う。刃が交錯する音、血が跳ねる音、雨粒が叩きつける音。それら全てが戦場の音となり、緊張感を増幅させる。
アマリリスの瞳は冷たく光り、雨に濡れた髪が顔に貼り付く。血のチーターの動き、再生の速度、刃の軌道。全てを頭の中で計算し、次の一手を決める。彼は心を無にし、ただ戦う。戦闘中は全ての感覚が鋭利になり、思考は純粋な戦略と反応だけになる。
チーターの血が新たに刃となって彼の頭上を飛ぶ。アマリリスはスライディングし懐に回り込む。立ち上がると同時にチーターの中央をナイフで切り裂く。
「ぐああっ……!!!」
切断された血は霧となり、雨の中で消え去る。だが、チーターは完全には止まらない。
アマリリスは次々と弾丸を放つ。弾丸は血の刃を貫き、血のチーターに命中し続ける。は苦しげに唸り、再生しながら攻撃の形を変える。
彼は再びナイフを握り直す。
チーターが再生しているうちにチーターの頭部を狙う。
頭部を狙う刃とそれを拒む刃が命中した瞬間、鉄の激しくぶつかる音が響き渡る。
チーターは全ての力を刃に注ぐ。
アマリリスはその刃に弾かれた。しかし、ナイフは手放していない。
アマリリスはすぐさまチーターの目を目掛けて発砲。
「ぐああっ………!!」
刃は血として地面に落ちる。
血のチーターが満を持して再生した視界に映ったのは、ただ悪を裁くと心から誓った1匹の強い信念だけだった。
雨粒がアマリリスの赤を洗い流し、濡れたアスファルトに赤い線を残す。静寂が戻ると、アマリリスは深く息をつき、肩にかかった血を無表情で拭った。戦いは終わった。
路地には雨音と自分の呼吸だけが響く。アマリリスの瞳は冷たく光り、赤く染まった地面を見下ろす。戦いの余韻が全身を包む中、彼は次の標的に目を向け、再び歩き出す。
血の匂いはまだ消えていない。戦場は彼の感覚に刻まれ、冷たい雨と赤い血が混ざった世界の中で、アマリリスは静かに進む。
この赤が、インクではなく血である事を忘れてはいけない。
夜の帳が落ち、路地裏の湿った空気は血と錆の匂いを含んで重たく澱んでいた。人気のないその一角、濡れた石畳の上にスロスの足音だけが乾いた刃のように響いていた。
彼女の呼吸は静かで、研ぎ澄まされた殺気を抑え込みながらも、その眼差しは暗闇の奥を鋭く貫いていた。ぬめるように這う影、そこからじわりと立ち上る異臭が鼻腔を刺す。鉄を焼いたような、そして内臓を腐らせたような甘ったるい匂い。
それはすでに彼女が追っていた標的、毒霧のチーターが潜んでいる証であった。次の瞬間、肺を裂くような刺激が空気を満たした。ぶわりと広がる濃緑の霧、腐肉を削ぐような匂いが路地裏全体を呑み込む。
スロスは布で気管を抑えようともしない。舌の奥が痺れ、喉が焼け付く。皮膚の毛穴からも毒が侵入するかのように、両腕にじんじんとした重い感覚が広がっていく。視界がかすみ、心臓が早鐘を打つ。
「毒ガスは……数回しかやってないかな…。」
痛み慣れ。彼女が何の攻撃を受けても足を止めない理由。
彼女にとってこの苦痛は計算済み。それどころかただ「この体」が致死に至るまでの時間を冷静に見積もるための指標にすぎなかった。
毒霧の中心に立つ人影が、不気味に揺らめきながらこちらを見据えている。毒霧のチーター。一見すればただのタコと変わらぬ姿。しかし、その存在から放たれる異様な圧迫感、まるで世界そのものが汚染されていくかのような錯覚があった。
そいつは笑った。霧にかすむ歯列が異様に白く、口腔の奥に絡みついた黒い唾液が糸を引いていた。その笑みが挑発の合図のように、スロスの背筋を戦慄が駆け抜ける。彼女は腰のナイフを抜き放ち、刃先が暗闇の中で血を欲するかのように鈍く光を返した。
呼吸を整える。肺の中の毒が喉を焼いても、吐き出すよりも吸い込む方が彼女にとっては効率的だった。痺れに順応し、限界を押し広げること。それがスロスの戦い方である。
スロスが戦闘体制になり毒霧が濃くなる。視界はもはや数メートル先すら曖昧だ。
それでも彼女は足音を聴く。コンクリートを擦る靴底の軋み、呼気に混じる湿った音、衣擦れの小さな波。全てを拾い上げ、脳裏で地図のように再構築する。そして、その中心に標的の心臓の鼓動を確かに感じ取った。じわじわと毒が筋肉を蝕む中、スロスの動きは逆に研ぎ澄まされていく。痛みが感覚を鋭利に研ぎ、痺れが余計な震えを奪い去る。
彼女は毒に呑まれながらも、その一瞬を待っていた。次の呼吸が切り裂かれるのを合図に、彼女は影のように駆け出した。スロスの足音は霧に溶け、獣のように無音へと変化していった。
毒で痺れる四肢はもはや自分の肉体であることすら忘れ、ただ殺すための道具へと矯正されている。目は霞み、耳鳴りが脳髄を刺す。だがその中で確かに響く音がある。濡れた臓腑を揉み潰すような、粘ついた脈動。それは標的の心臓の音だ。
毒霧のチーターは薄笑いを浮かべ、両腕を広げて霧を更に吐き出した。肺の奥から沸き上がるその毒霧は、まるで臓腑を裏返しにして外へ吐き散らすかのようであり、吐息一つで周囲の空気が腐り果てていく。視界がほとんど死んだ今、スロスは動いた。
踏み込む足の筋肉が裂け、膝の関節が毒に軋みながらも、彼女は一切の逡巡なく前へ躍り出た。刃が走る。肉を裂く音は皮膚を破る乾いた破裂音から始まり、脂肪が断ち割られるぬるりとした抵抗、筋肉が弾ける濡れた破砕音へと変化していく。
その全てを確かめるかのように、スロスの感覚は鮮明だった。標的が呻く間もなく、毒霧の濃度が一気に増す。肺が焼け、喉が潰れ、彼女の視界は赤黒く染まりかける。
だがその瞬間、刃は骨に触れた。肋骨が邪魔をするように硬く、刃先はその間をこじ開けながら進む。石畳に響いたのは、乾いた骨の軋みと、心臓に刃が突き立つ瞬間の生々しい水音。温かな液体がスロスの手に噴きかかる。
心臓の鼓動が刃を震わせ、血潮が泉のように溢れ出す。毒霧のチーターの目が大きく見開かれる。
痛みというより、理解できない現実に直面した驚愕。毒霧のチーターはここでようやく気付いた。彼女は何かがおかしいと。「化物」だと。己の胸から生命そのものが噴き出していることを、ただ呆然と見下ろしている。
スロスは一切の感情を浮かべず、刃を深く捻り込んだ。心臓の肉が裂け、繊維が断ち切られ、破裂した袋のように血液が周囲に吐き散らされる。口から血が逆流し、毒霧ではなく鮮血を吐き出しながら標的は崩れ落ちた。
路地の石畳に叩きつけられた体は痙攣し、まだ脳が死を拒むかのように手足を震わせていた。スロスはその胸に足をかけ、刃を抜き取る。
ぬるりと滑る感触と共に、臓腑の破片が刃に絡みつき、赤黒い糸を引きながら露わになる。
心臓を刺し貫かれた肉体はもはや人である輪郭を失い、毒の霧も弱まり始める。血の海に沈む標的は、目を見開いたまま永遠に動かなくなった。
息を殺していたスロスの喉から、ようやく吐息が漏れる。酸素と混じる血と毒の匂いが肺を灼き、吐き気を伴う痛みに変わる。
それでも彼女の目は冷静で、足元の死体をただ「仕留めた対象」として見下ろすだけだった。彼女は膝を折り、死体の胸を無造作に裂く。刃で心臓を切り開き、その中身を確認する。
どろりとした血が溢れ、臓腑の断片が零れ落ちて石畳に落下するたび、鈍い音と共に赤黒い水たまりが広がる。やはり前に見たチーターの死体にもあった青白い粉。それを小瓶に入れ終わり、改めてチーターの死体を見る。
生の証は完全に潰えた。それを確認してから、スロスはナイフを布で拭った。布はすぐに血で真っ赤に染まり、使い物にならなくなる。
それでも構わない。重要なのは刃が再び殺すための道具として機能すること。静寂が戻る。毒の霧は消え去り、残ったのは鉄錆と血の匂いと少しの違和感だった。
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