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帝都の夜は、星が見えないほどに明るい。
ガス灯の青白い光が揺れる大通りを、私は慣れない足取りで急いでいた。
「いけない、これだけは、どうしても届けなくては……!」
手の中にあるのは、伊織様が朝、書斎に忘れていった古い「栞」だ。
使い古された革製で、端が少し擦れているけれど
伊織様が大切そうに本に挟んでいたのを私は見ていた。
きっと、彼にとってかけがえのない宝物に違いない。
使用人の一人が「旦那様は今夜、鹿鳴館の夜会にいらっしゃいます」と教えてくれた。
鹿鳴館。
教科書でしか聞いたことのない、帝都一華やかな場所。
辿り着いたそこは、まるでおとぎ話の世界だった。
豪奢なシャンデリアが輝き、西洋の音楽が流れ、ドレス姿の貴婦人たちが蝶のように舞っている。
門番に不審な目で見られたけれど
「九条伊織の妻です」と必死に訴えると半信半疑ながらも中へ通してくれた。
「……あ、伊織様!」
会場の隅、ひときわ人だかりができている場所に、彼はいた。
今夜の伊織様は、眩しいほど真っ白な夜会服に身を包んでいる。
その周りには、香水の香りを漂わせた美しい女性たちが三人も四人も群がっていた。
「伊織様ったら、お意地悪。今夜こそ、私と踊ってくださると約束しましたのに」
「はは、猫は気まぐれな方が可愛いだろう?焦らした分、蜜は甘くなるものだよ」
伊織様が、女性の一人の手を取って、その甲に唇を寄せる。
……わぁ、すごい。
まるで活動写真の一場面のようだ。
女性たちは頬を染め、うっとりと伊織様を見つめている。
(やっぱり、伊織様は帝都の女性たちに愛されているのね。……でも、今はこれをお渡ししなきゃ!)
私は意を決して、華やかな輪の中へ突き進んだ。
「伊織様!伊織様、お忘れ物です!」
「……っ!? つ、紬!?」
甘い言葉を囁いていた伊織様の顔が、一瞬で引き攣った。
隣にいた美女たちが、驚いたように私を見る。場違いな木綿の着物姿の私を。
「……君、どうしてここに?家で待っていろと言っただろう」
「申し訳ございません! でも、これ……。伊織様の大切な栞を、お机に忘れていらしたから。お仕事や読書でお困りになると思って……!」
私は必死に、その栞を差し出した。
会場の空気が一変する。
女性たちの刺すような視線が私に突き刺さった。
「あら、伊織様。この……『お手伝いさん』のような方は、どなた?」
「まさか、噂の『田舎のお嫁さん』かしら?」
クスクスという忍び笑い。
伊織様は眉をひそめ、私の手からひったくるように栞を受け取った。
「……これしきのことで、わざわざこんな場所まで。君は、自分が恥をかいているのが分からないのか?」
伊織様は冷たい声を出し、私を遠ざけようとする。
けれど、私は首を横に振った。
「私のことは構いません!でも、伊織様。……先ほど、他の方と楽しそうにしていらっしゃったのに、お邪魔をしてしまって。本当にごめんなさい」
「……あ、ああ。分かればいいんだ。俺は忙しいんだから、早く帰れ」
「はい! ……あ、でも、ひとつだけ。……やっぱり伊織様は、凄いですね」
「……何がだい」
伊織様が、毒気を抜かれたような顔で聞き返した。
「あんなに大勢の綺麗な女性たちを、一言で笑顔にしてしまうなんて。……皆さんに希望を与える、光のようなお方なのですね。そんな立派な旦那様を持って、私は誇らしいです!」
私は、心の底から感銘を受けてそう言った。
「誇らしい……? 俺が……?」
伊織様の顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。
耳まで真っ赤にして、彼は握りしめた栞を震わせていた。
「あ、あの、伊織様? お顔が赤いですけれど、お酒の飲み過ぎでは……」
「……シラケたな…もういい、帰るぞ」
「えっ、でも夜会は……」
「中止だ!お開きだ!」
伊織様は女性たちの制止も聞かず、私の手首をガシッと掴むと、大股で出口へと向かった。
後ろからは「伊織様! お待ちになって!」という悲鳴のような声が聞こえる。
「……紬。君は、自分が何を言ったか分かっているのか」
馬車の中、暗がりで隣に座る伊織様の声は、どこか震えていた。
#シリアス
「はい? 私はただ、本当のことを……」
「……君は、本当に、毒だ」
そう言って、彼は顔を両手で覆い、深く座席に沈み込んだ。
私は不思議でたまらなかった。
褒めたはずなのに、どうして伊織様はあんなに、余裕のない顔をしていらっしゃったのか。
帝都の夜は、まだまだ私には難解すぎるようだ。