テラーノベル
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ハリーの姿が現れた瞬間、ドラコは本当に息を止めた。
喉が閉まる。
心臓が一拍、完全に遅れる。
目の前にいるのが本物なのか、それとも心が見せた幻なのか、一瞬では判断がつかなかった。
だが、違う。
透明マントの下から現れたのは、幻ではありえないほど生々しいハリーだった。
手首には拘束の跡。喉にはまだ呪文の痕が残り、呼吸は荒い。顔色も悪い。それでも、緑の目だけはまっすぐドラコを見ていた。
見られた。
その事実が、まずドラコの胸を切り裂いた。
見られたくなかった。
令嬢の隣に立ち、感情を殺して、家のための人形みたいに口づけを交わすところなど。あんなものを、ハリーにだけは見られたくなかった。あれは自分の敗北だ。屈服だ。取り返しのつかない汚点だ。そんなものを、ハリーの目の前で晒したくなかった。
なのに、見られた。
その焦りが一気に全身を駆け抜ける。
同時に、それを押し流すほど強い別の感情もあった。
来てくれた。
ここまで。
こんな場所へ。
こんな最悪の瞬間に、それでも来てくれた。
その事実が、あまりにも痛く、あまりにも嬉しくて、ドラコは一瞬まともに立っていられなかった。
けれど、その喜びのすぐ後ろには、さらに深いものが口を開けていた。
一歩遅かった。
ハリーはもう見てしまった。
婚約の儀は終わった。口づけも交わされた。父の望む形は、目の前で一つ完成してしまった。たとえこのあと何をしても、あの瞬間だけは取り消せない。
その絶望が、喜びに刃を差し込む。
「……ドラコ」
ハリーの声は、まだ掠れていた。
喉が痛むのだろう。けれど、それでも必死に名前を呼んでいる。
その声を聞いた瞬間、ドラコの中で、何かが決定的に切れた。
もう駄目だった。
ルシウスの視線。
祝宴のざわめき。
令嬢の家族。
名家の体面。
そんなものが一気に遠のく。
ドラコはハリーの拘束を乱暴なほど急いで解き、手首を掴んだ。
「こっちへ」
声は低かった。
だが、その奥に混乱と焦燥と、抑えきれない何かがひどく露わに混ざっていた。
ハリーは何も聞かなかった。
聞けなかったのかもしれない。今の彼の目にも、正気のふちがほとんど残っていない。ドラコを失いたくない、その一念だけでどうにか立っている顔だった。
二人は人の流れの陰を縫って歩いた。
祝宴の音が背後で膨らみ、笑い声とグラスの音が交じり合う。その華やかさのすぐ裏側で、ドラコはハリーの手を強く引き、廊下を曲がり、誰も使っていない客間へと滑り込んだ。
扉が閉まる。
その瞬間、世界から音が一つ落ちた。
いや、本当には消えていない。
遠くでまだ祝宴のざわめきは続いている。屋敷しもべ妖精たちの足音も、廊下の向こうでかすかに響いている。
それでも、今この部屋だけは、二人の息遣いだけが異様にはっきりしていた。
ドラコは扉に背を押しつけたまま、ハリーを見た。
何か言わなければならない。
謝罪か。言い訳か。説明か。
だが、どの言葉もあまりにも遅い。あまりにも薄い。
ハリーも同じだったのだろう。
二人の視線がぶつかった、その次の瞬間には、もうどちらからともなく距離が消えていた。
口づけは激しかった。
確かめるより先に、奪うように。
生きていると確認するより先に、失う前に刻みつけるように。
唇がぶつかる。
呼吸が乱れる。
抑えきれずに互いの名を呼びかけて、でも結局、名前すら途中で崩れていく。
言葉はいらなかった。
「どうして来た」も、
「見られたくなかった」も、
「間に合わなかった」も、
「それでも会えてよかった」も、
何もかも、今は口で言うには足りなすぎる。
だから二人は、ただ必死に触れた。
ハリーの指がドラコの頬を包む。
その手が少し震えている。怒りではない。恐怖と、やっと取り戻したものをもう一度失うかもしれない切迫で震えている。
ドラコはその震えごと掴むように、ハリーの肩へ腕を回した。
熱い。
それだけが、ひどく現実だった。
礼服の硬い布。
乱れた呼吸。
喉の奥で漏れる音。
抱きしめるたびに、互いの輪郭がようやく自分のものとして戻ってくる。
ドラコはハリーの首筋へ顔を埋めた。
「……見たな」
掠れた声だった。
ハリーは息を乱したまま、すぐに答える。
「見た」
その一言が、刃にも、救いにもなった。
ドラコは目を閉じる。
もう否定の余地はない。ハリーは見てしまった。自分が並ばされ、口づけを交わし、何の感情もない顔で家の道具へされるところを。
その痛みと恥が、まだ身体のどこかで疼いている。
なのに、それ以上に大きいのは、そんな自分を見てもなおハリーがここにいることだった。
「最悪だ」
ドラコは笑いにならない息を漏らす。
「こんな姿」
ハリーはほとんど噛みつくように言う。
「黙れ」
その声の強さに、ドラコは一瞬だけ目を見開く。
ハリーの目は濡れていた。
怒っているのではない。苦しくて、悔しくて、正気でいるのも限界なのだ。
「もう二度と」
ハリーは低く言う。
「そんな顔で、自分を下げるな」
呼吸が揺れる。
「僕の前でだけは、絶対に」
その言葉に、ドラコの胸の奥で何かが熱を持った。
ハリーは本気で、失いかけている。
そしてそれが怖くて、もうきれいな顔をしていられない。
ドラコはその事実に、どうしようもなく引きずられた。
もう、地位も名誉もどうでもよかった。
父の期待も、名家の儀式も、屋敷の壁も、全部この部屋の外へ落ちていく。自分の中で長いこと絡みついていた恐怖や体裁が、一瞬だけ完全にほどける。
欲しかったのはこれだと、身体のほうが先に理解してしまう。
ドラコはハリーを強く引き寄せ、今度は自分から深く口づけた。
抑えの効かないキスだった。
必死で、乱暴で、どこか切羽詰まっている。
儀式で交わしたあの空虚な口づけの何倍も、何十倍も、生きていた。
ハリーが息を呑む。
その反応が、ドラコの胸をさらに煽る。
失いたくない。
取られたくない。
今この瞬間だけでも、誰のものでもない場所でハリーを感じたい。
その欲求が、理性を焼き切る。
服の乱れる音。
掴む指先。
肩口へ落ちる呼吸。
二人とも、もう加減の仕方を忘れていた。丁寧に確かめる余裕などない。ただ、ここにいる、まだ奪われていない、ということを身体へ刻みつけるように触れた。
ハリーも止まらなかった。
ドラコを見つけた瞬間から、正気はほとんど綱渡りだった。
見せつけられた。間に合わなかった。奪われるかもしれない。
その恐怖に胸の奥をえぐられたまま、それでも今ドラコが腕の中にいる。その事実だけが、自分を動かしている。
「取り返す」
キスの合間に、ハリーが低く言う。
それは誓いだった。祈りではない。もっと剥き出しで、危うい決意。
「絶対に」
息が乱れる。
「何を使ってでも」
ドラコはその声を聞いて、目を閉じた。
何を使ってでも。
その言葉は、優しさではなかった。もっと危険で、もっと執念深い。だが今のドラコには、それがたまらなく必要だった。綺麗に諦める道などいらない。礼儀正しく手放されるくらいなら、醜くても奪い返すと言ってほしかった。
「ハリー」
名前を呼ぶだけで胸が痛んだ。
けれど、その痛みはもう絶望だけではない。
床に落ちる衣擦れの音が、やけに大きい。
白い花の香りが、廊下の向こうからまだ少しだけ流れ込んでくる。祝宴の名残だ。その匂いさえ今は腹立たしい。あの場で奪われかけたものを、この部屋の中では自分の手で取り戻したい。
二人は夢中だった。
激しく。
切なく。
まるで、この時間がこの世で最後の自由であることを本能のほうが知っているように。
ハリーの指がドラコの髪に絡む。
ドラコの手がハリーの背を掴む。
何度も口づける。
何度も呼吸を奪い合う。
時折声にならない声がどちらともなく漏れる。
そのたびに、言葉にならない思いがあふれ、どこかで壊れた心の破片が少しずつ熱を取り戻していく。
ドラコの目に、ようやく光が戻った。
ほんの少しだけ。
でも確かに。
さっきまで死んでいた目が、今はハリーを見ている。
苦しくて、切羽詰まっていて、それでも生きている目だ。
その変化を見た瞬間、ハリーはまた泣きそうになった。
失いかけていた。
本当に。
ほんの少し遅ければ、もうこの目は戻らなかったかもしれない。そう思うだけで、胸が締めつけられる。
その時、廊下の向こうで声がした。
「坊ちゃま?」
「どちらへ……」
「こちらには……?」
屋敷しもべ妖精たちだ。
探し回っている。
現実が戻ってくる。
二人は同時に息を止めた。
それでも、すぐには離れられない。ここで腕を解けば、本当にまた現実へ戻されてしまう気がした。
ハリーは額をドラコの額へ押しつけたまま、低く言う。
「必ず取り返す」
今度ははっきりと。
一字一句、噛みしめるように。
「君を、絶対に」
ドラコの睫毛が震える。
その言葉は、今の彼にとって救いであると同時に呪いでもあった。簡単な道ではないと分かっている。ここから先には、家も父も名も儀式も全部立ちはだかる。きれいには済まない。誰かが傷つく。何かが壊れる。
それでも。
「……戻る」
ドラコも低く言った。
「必ず」
呼吸が浅い。
「どんな形でも、僕はお前のところへ戻る」
その一言を口にした時、ドラコの中で何かが決まった。
父の敷いた道の上で息を止めているだけでは終わらない。壊れてでも、逃げてでも、這ってでも、戻る。そういう種類の決意だった。
廊下の声が近づく。
「こちらのお部屋は……」
「確認を……」
時間がない。
ハリーはドラコの頬を両手で包んだ。
見つめる。
この顔を忘れないように。今戻った光まで含めて焼きつけるように。
それから、最後にもう一度、熱い口づけを交わした。
今までのどのキスよりも、切実だった。
別れの前触れであり、誓いであり、互いをこの先の絶望へ送り出す印でもあった。
ドラコは唇を離すと、ほとんど自分を引き剥がすように一歩下がった。
その顔にはまだ熱が残っている。目だけが、異様に冴えていた。
「隠れてろ」
「ドラコ」
「今は」
ドラコは息を整える。
「今は僕が出る」
その言い方に、ハリーはもう反論できなかった。
ここで二人そろって飛び出せば、すべてが終わる。終わるだけでなく、もう二度と取り返せない形で壊れるかもしれない。
ドラコは乱れた礼服を素早く整えた。
ハリーの手が一瞬だけその袖を掴む。離したくない、その一心で。
ドラコはその手の甲へ、ほんの一瞬だけ唇を落とした。
「信じろ」
その低い声は、まだ少し震えていた。
でも、さっきの空っぽな礼儀の声とは違う。確かに自分の意志で出した声だった。
ドラコは扉の前で立ち止まり、一度だけ振り返る。
ハリーはそこにいた。
息を乱し、目を赤くし、それでもまっすぐに自分を見ている。
その姿を胸に刻んでから、ドラコはそっと部屋を出た。
扉が閉まる。
後に残されたハリーは、しばらく動けなかった。
胸の中では、まだドラコの熱が生きている。唇にも、指にも、腕にも、さっきまでそこにいた身体の記憶が残っている。
足元に、白い布が落ちていた。
ドラコのハンカチだった。
おそらくさっきの慌ただしさで、礼服の内側から滑り落ちたのだろう。上質な布地。隅に銀糸の刺繍。いかにも彼らしい、整いすぎた持ち物。
ハリーはそれを拾い上げた。
まだ少し温かい気がした。
気のせいかもしれない。
それでも、ハリーはその布をそっと胸へ抱き寄せた。
ここにいた。
たしかに。
失いかけて、それでもまだ消えていない。
廊下の向こうでは、探し回る妖精たちの声と、祝宴のざわめきがまだ続いている。現実は何一つ終わっていない。むしろここからが本番だ。
それでも今だけは、そのハンカチの感触だけが、ハリーを正気に繋ぎとめていた。
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