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藤澤視点
扉を開けてスタジオに戻ると、そこにはいつもの光景が待っていた。
若井が「遅かったじゃん」と軽く声をかけてくるのを、僕は「ごめんごめん、ちょっと機材のことでね」と、ごく自然な笑顔で受け流す。
隣で、元貴が少しだけぎこちなく、けれど懸命に顔を作ってマイクの前に立つのを視界の端に捉えた。
レコーディングが再開される。
ヘッドホンから流れてくる、元貴の歌声。
いつも通り、圧倒的で、繊細で、聴く者の心を震わせる最高の声だ。
スタッフも若井も、その歌声に集中している。けれど、キーボードの前に座る僕だけは、その声の裏側にある「震え」を聞き逃さなかった。
フレーズの合間、ふとした瞬間に彼がこちらを盗み見る。
僕と目が合うたびに、マイクを握る彼の指先に力が入り、喉の奥が微かにひきつるのが分かる。
(……意識してるな)
隠しているつもりだろうけれど、僕には手に取るように分かる。
今、彼の頭の中にあるのは、楽曲の構成でも歌詞の意味でもない。
さっき僕が耳元で囁いた言葉。そして、この作業が終わった後に待っている「お仕置き」の時間。
ピッチを合わせるふりをして、僕はわざと彼にだけ分かるような視線を送った。
元貴の肩が、目に見えてビクッと跳ねる。
逃げ場のないスタジオで、衆人環視の中にいながら、心だけは僕に縛り付けられている。
その事実が、たまらなく僕を昂ぶらせた。
「……うん、今の声、すごく良かったよ。元貴」
努めて優しく語りかける。
彼の顔が、一瞬で赤く染まる。
羞恥と恐怖、そしてどこか期待の混ざったその表情は、誰にも見せない僕だけのものだ。
「よし、あともう少し。早く終わらせて、帰ろうか」
僕が微笑むと、元貴は縋るような、それでいて絶望したような瞳で僕を見つめ、小さく頷いた。
さあ、早く終わらせよう。
愛しい元貴が、自分から差し出した約束に縛られて、僕に壊されるのを待っているんだから。
大森視点
ヘッドホンから流れるメロディを聴きながら、必死にマイクの前で「いつも通り」を演じていた。
だけど、どうしても意識の半分は、後ろに座る涼ちゃんに向いてしまう。
(……あんなに怒るなんて、思わなかった)
正直、戸惑っている。
若井とじゃれつくなんて、俺たちにとっては日常茶飯事だ。子供みたいにふざけ合って、動画を見て笑って、肩を組んだり小突いたり。それはずっと変わらない、親友のじゃれあい。
涼ちゃんはいつだって、そんな俺たちをいつも優しい笑顔で見守ってくれていたはずなのに。
あの密室で見せた、凍りつくような冷たい視線。
顎を掴んで、僕の言葉を封じ込めたあの強い指先。
あんな風に感情を剥き出しにする涼ちゃんを、初めて見たかもしれない。
(滅多に怒らない人だから……余計に、怖い)
チラッと涼ちゃんの方を見ると、彼は完璧な仕事人の顔でモニターを見つめている。でも、時折ふと視線を上げてこちらを射抜くとき、その瞳の奥にある「嫉妬」が、さっきの約束を思い出させる。
『自分の言葉には責任持とうね』
涼ちゃんのあの笑顔が脳裏に張り付いて離れない。
すんなり離してくれたのは許してくれたからじゃない。逃げられない場所で、俺が自分で言った「好きにしていい」という言葉を盾に、徹底的に俺を追い詰めるつもりなんだ。
握る手が、じんわりと汗ばむ。
レコーディングが進むにつれて、終わりが近づいてくる。いつもなら達成感を感じるはずのこの時間が、今はまるで、処刑台へのカウントダウンみたいに思えて。
「……っ、ふぅ」
息が乱れそうになるのを、深く吸い込んで誤魔化す。
日常だったはずの若井との距離が、今日に限って、涼ちゃんの嫉妬の致命的な引き金になってしまった。
俺を待っているのは、優しくて穏やかな涼ちゃんじゃない。
独占欲に突き動かされた、誰も知らない「彼」だ。
そう意識した瞬間、心臓が痛いほどの速さで跳ねた。
怖いはずなのに、体の奥底が疼くような感覚に、俺はただ唇を強く噛み締めることしかできなかった。
藍月