その頃、別の場所にも無自覚のまま、恋をはじめようとしている男がいた。
昨日は結局、帰れなかったな、と思いながら、蓮太郎は研究所の外の自動販売機に冷たいコーヒーを買いに出ていた。
リラクゼーションルームにもあるのだが、眠気覚ましに歩こうと思ったのだ。
そう。
眠気覚ましだ。
意味もなく、秘書課のある棟近くまで歩いているわけではない、と蓮太郎は途中で買った缶コーヒーを手に思っていた。
もう用は済んだのに、まだ歩いているのも眠気覚ましだ。
他意はない。
そのとき、唯由が友人たちと笑いながら、こちらにやってくるのが見えた。
いや、すごく遠かったのだが、蓮太郎には何故か、あの中に唯由がいる、とわかった。
冷えた缶コーヒーを握り締める。
「お疲れ様です~」
と少し離れた場所から唯由たちが微笑み言ってくる。
「お疲れ様」
と返した。
そのまま彼女らは通用口から建物の中に入ろうとした。
なんとなく見送っていると、一度中に入った唯由が出てきた。
立ったまま夢を見ているような心地だ、と蓮太郎は思う。
なんでだろうな?
ああ、唯由がこっちに向かって可愛らしく走って来るからだ。
来るといいなと思っていたらやって来るなんて。
これは夢か。
いや、俺が超能力者なのか。
どちらがより現実的だろうかと真剣に考察していると、すぐ側まで来た唯由が自分を見上げ、訊いてきた。
「あの、ゴキブリがどうかしたんですか?」
「……ゴキブリ?」
蓮太郎は昨日のショートメールの内容を忘れていた。
「ゴキブリが寂しいとかなんとか」
唯由も適当にしか覚えていなかった。
「……ああそうだ。
昨日、背中で語るゴキブリの話を紗江さんに聞かせられて……」
唯由は続きの言葉があると思って待っていたようだが、特になかった。
蓮太郎の中では、説明はもう終わっていた。
「そ、そうなんですか。
お疲れ様です~」
行ってしまおうとする唯由に、つい、
「待て」
と言ってしまう。
唯由はすぐに止まった。
いや、用事は特にない、と蓮太郎は焦る。
「そ、そうだ。
お前の携帯の番号以外の連絡先を教えろ」
「ああそうか。
そうですね。
なにも教えてなかったですね」
「ショートメールでは短すぎて、なにも言いたいことが伝えられない」
「……確かに要約しすぎな感じですね。
いや、今、話しててもそうなんで、ショートメールの文字制限のせいではない気もしますが……」
っていうか、最近はショートメールも結構長く打てますよ? と言う唯由は教えてくれる気がないのか、スマホを出してもこない。
仕方がないので蓮太郎は言った。
「では、それを俺の二つめの願いとしよう」
「えっ?」
「『お前の連絡先を教えろ』」
それが俺の三つの願いのうちの二つめだ、と蓮太郎は言った。
逆じゃないかな~と思いながら、唯由は蓮太郎の言葉を聞いていた。
まず愛人になれ。
次が連絡先を教えろ。
っていうか、そもそも願い事、いつ、三つで確定しました。
だが、そう思いながらも、蓮太郎の謎メールのおかげで、月子の長文メールが忘れられたことには感謝していた。
「そんなことのために願い事使う必要ないですよ。
あとで連絡しますね」
「何故、あとだ。
今じゃないのは何故だ」
「王……、雪村さん、今、スマホ持ってます?」
「持ってないな……」
軽装で缶コーヒーと小銭だけ握っている蓮太郎は言う。
じゃあ、あとで、と笑って唯由は建物の中に入った。
急いでみんなに追いつく。
エレベーター前で訊かれた。
「何処行ってたの?」
「あ、ごめん。
ちょっと忘れ物」
あんた、車も自転車もないのに、何処になにを忘れたのよ、と言われながらも、なんとか誤魔化した。
「そういえばさ、雪村さん」
と範子が言ったので、どきりとする。
「最近、よく見かけるよね。
滅多に研究棟から出てこない絶滅危惧種って聞いてたのに」
「あんたが雪村さんの周り、ウロついてんじゃないの?」
と誰かが言い、みんな笑ったが。
実は単に、蓮太郎が唯由の周りをウロついているので姿を見る機会が多いだけだった――。
困ったな、もうあとがないぞ、と蓮太郎は研究棟に戻りながら思っていた。
三つの願いのうちの二つまで使ってしまった。
唯由はいいと言ってくれたが、蓮太郎は潔く、願い事の一つとして数えるつもりだった。
あと一つか……。
なににしたらいいのか。
願い事をもっと増やしてくれとか。
幾つでも叶えていいことにしてくれとか駄目だろうしな。
……いや、待てよ。
そもそも、あいつ、願い事は三つなんて言ったかな?
「そうそうっ。
そうですよっ。
誰も三つも叶えるなんて言ってませんよっ」
と唯由が叫んできそうなことを思う。
「……言ってないな。
そうか。
じゃあ、何個でもいいのか」
違うーっ! と唯由が絶叫しそうな結論にたどり着いたとき、
「蓮太郎」
と誰かが呼ぶ声がした。
同期の道馬だった。
「お前、今度、コンパ行かない?」
「いや、もう間に合ってる」
「……間に合ってるってなんだよ。
さては、彼女ができたのか」
意外だ、という顔で道馬は言う。
「いや、愛人ができた」
道馬は沈黙したが、蓮太郎の謎発言に慣れている彼は、
「そうか……」
とだけ言った。
「そういえば、新入社員の蓮形寺さんって、蓮形寺家のお嬢さんらしいね」
いきなり、唯由の名前を出されてどきりとする。
「お前んち、蓮形寺家とも付き合いあるんじゃないの?
俺、彼女によく似た月子ちゃんって子を知っててさ」
「……月子?」
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