職場にも連絡をして、しばらく休むと告げた。
「そういえば、今何時?」
外が明るいのはわかったけれど、時間の感覚がなかった。
「えっとね、午後2時を少し過ぎたところ」
「そんなに寝てたのか……」
よく寝たという感覚はあるけれど、時間にしても相当寝ていたようだ。
「昨夜遅くに“雅史が倒れた”と、お義母さんから電話があって、すぐにここに来たけど雅史はずっと寝てたんだよ。よほど疲れてたんだね。あ、そうだ、お腹空いてるんじゃない?食べ物の制限はないみたいだから、何か買って来ようか?」
午後の日差しの中で、穏やかな笑顔で俺を見る杏奈。
_____あ、綺麗だな
そう思って、ハッとする。
_____なんだろう、この感覚は
杏奈が俺に向けた笑顔で、暖かくて穏やかでホッとしてしまう自分がいる。
近くで遊ぶ圭太の横顔も、どこか俺に似てきたと思う。
_____この2人は俺にとって、とても大切な存在だったんだ
呆れるほど当たり前のことを、こんな状況になって思い知った。
「ん?食べたいものない?」
「あ、いや、それよりさ……」
「え?」
「ごめん、本当に悪かった、杏奈の気持ちを考えずに、その…他の女と。もう遅いのはわかってる、でも俺、一度も謝ってなかったなって、今頃になってさ、ごめんなさい、許してくれなんて言わない、ただ謝っておきたくて」
一息に言って頭を下げた。
できれば土下座くらいしたいのだけど、点滴が邪魔でできなかった。
「…………」
うつむいたままの俺の前で、杏奈は声を出さない。
_____だよな、いまさら謝られても
「おとーたん?ごめんしたの?」
圭太が俺の顔を下から覗き込んできた。
「うん、おかあさんにずっと言わなきゃいけないことだったんだ。やっと言ったよ」
そっと顔を上げて杏奈を見た。
唇を噛み締めたまま、ボロボロと涙を流していた。
「あ……杏奈…」
「おかーたん?いたいいたい?」
「もうっ!今頃、遅いよっ!」
持っていたハンカチが飛んできた。
「だよな?わかってる、今頃だよな。でも、言っておかないと。それに俺の状況も説明しとかないとな」
「えっ?何があったの?」
杏奈は、放り投げたハンカチの代わりにティッシュで涙を拭いながら、圭太を抱っこしてベッドの横の椅子に座った。
俺は降格したことと、減給になったこと、転職も考えたけれどうまくいきそうになかったことを話した。
それでも養育費はなんとしても準備するし、時間はかかっても慰謝料も払うつもりだと。
杏奈は圭太の頭を撫でながら、何も言わずに黙って俺の話を聞いていた。
「そっか。でも、ごめん、私はもう離婚することに決めてるから」
俺と目を合わせずに、答える杏奈。
_____仕方ない、俺のせいだ
「あー、うん、だよな。お金のことなら退院したらまた転職とかも考えてみるから」
もっと稼ぎのいい仕事を探すか、アルバイトもしようかと考える。
「ね、ちょっとだけ圭太といてくれる?もう、目を離さないでね」
「え?あ、もちろん」
何か思い出したのか、杏奈は1人で病室を出て行った。
圭太は紙パックのジュースがうまく飲めず、ストローからこぼしてしまった。
「あー、じゅーしゅ!」
「ほら、これで拭いて」
枕元ににあったタオルを渡す。
小さな手で、こぼれたジュースを一生懸命に拭いている圭太。
_____やれることがまた増えているんだな
それから、家から持ってきたサッカーボールをかかえて、ベッドの俺の元に座った。
サッカーをする約束をしようという圭太と、今度の休みにサッカーをする指切りをしていたら、杏奈がどこからか戻ってきた。
圭太とサッカーの約束をしたと話したら
「私とも約束してほしいことがあるんだけど?」
と言う。
「養育費のことなら、なんとかするし慰謝料も待って貰えば頑張るから」
そこはなんとしても誠意を見せたいと決めている。
「そうじゃなくて、ね……」
バッグから封筒を出し、中の書類を広げてテーブルに置いたそれは、杏奈の分が記入された離婚届だった。
離婚の二文字が一気に現実になり、ぎゅっと胸が苦しい、けれど。
「……ちゃんと書くよ」
「それでね、条件なんだけど」
「……うん」
杏奈はどんな条件を出してくるのだろうか?
圭太の親権や面会や養育費のことだろう。
_____なんとか養育費を払って、圭太の父親としての責任を果たして、ちゃんと会えるようにしたい
それだけは、しっかり言うぞと心に決める。
「離婚しても、今のままで暮らしていいかな?」
「え?」
予想と違う返事に、間が抜けた返事をしてしまった。
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