テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
「朝倉さんに提案されたプランで契約をします」
「え?」
思わず、間の抜けた声が出てしまった。
契約を取るための攻防戦が始まる──私はそう思っていたから。
暖房の効いたポカポカの部屋。
私たちは立派な木製のテーブルを囲むように座っていた。
そして柳元さんは、あっさりと契約を決めてしまった。
「契約は……もう決められていたのですか?」
「うん。みんな、そのつもりだよ」
柳元さんだけではない。
周囲のスタッフたちも、みんな笑顔で頷いている。
「……」
私は思わず朝倉くんを見る。
朝倉くんが提案した時点で、すでに契約を決めていたということ?
(上司同伴を条件にされた、あの話はいったい何だったの?)
私は頭の中が混乱して、しばらく押し黙ってしまった。
そこへ、何食わぬ顔の朝倉くんが口を開く。
「柳元さん、ありがとうございます。牧野さん、さっそく契約を進めていきましょう!」
「……ええ」
私は鞄から書類を取り出した。
状況の説明が欲しい。どうしても朝倉くんに聞きたい。
私は彼へ顔を向ける。
しかし、朝倉くんは一切、私と目を合わせようとしない。
(この契約は既定路線だったの⁈)
なら、なぜ私をここへ連れてきたの?
成績いまいちの私の実績を上げようと、誘ってくれたのだろうか。
もしそういうことなら……。
(ものすごく慈悲深い人なんだけど)
私はますます、彼のことがわからなくなった。
「あの……柳元さま」
「はい?」
「なぜ、こんなにすぐ契約を決めていただけたのでしょうか?」
私は思い切って尋ねた。
柳元さんは、ニコリと笑った。
「ミッシェル・ユーが、朝倉くんと友人だったので。間違いないだろうと思って」
「……みっしゃる・ゆー?」
どちらさま?
私はゆっくりと首を傾げる。
すると、代わりに朝倉くんが答えてくれた。
「ミッシェル・ユーは、僕がシンガポールに留学していたときの友人です。今は香港でアンティークディーラーをしていて、柳元さんの作品のコレクターでもあります」
「……そういうことだったのね」
以前、三田さんから教えてもらった朝倉くんのフェイスブックを思い出した。
海外での人脈が、こうやって仕事につながっているのだ。
(す、すごい……)
確実な利益を生み出す、人脈の構築力!
私の知らない彼の世界に、頭がくらりとする。
「では、瞳子さん。始めましょう」
「……ええ」
こうして、アトリエで働く五名との契約を、無事に終えるのだった。
「この大雨なら、通行止めかもしれない。泊まっていくかい?」
契約を終えたあと、私たちはジビエ料理までごちそうになった。
気がつけば、時刻は十七時を過ぎている。
外は変わらず、滝のような雨が降り続いていた。
「お気遣いありがとうございます。車で一気に下りますので、大丈夫です」
朝倉くんが鞄とコートを手に取る。
「そうか。では、気をつけてくださいね」
「ありがとうございます」
私たちは、みんなに見送られながらアトリエを後にした。
「……すごい雨ね」
車に乗り込んだ瞬間、私は思わず呟いた。
フロントガラスを叩きつける雨は、ワイパーも役に立たないほど激しい。
想像以上の降り方に、恐怖さえ感じてしまう。
朝倉くんは慎重に車を走らせていた。
しばらく進んだところで、道路の真ん中に赤色回転灯がついた黄色い立て看板が置かれているのが見えた。
朝倉くんが車を停め、目を凝らす。
「なんでしょうか。見てきます」
「えっ、雨がすごいわよ」
「すぐ戻りますから」
朝倉くんは素早く車外へ出ていった。
少し進んだところで立ち止まり、看板を確認すると、すぐにこちらへ戻ってくる。
ほんの短い時間だった。
なのに、車へ戻ってきた朝倉くんのスーツやシャツは、すっかり雨を吸っていた。
髪の毛からも、肌からも雨水が滴っている。
(……)
妙な色気を感じてしまい、私の心がソワソワした。
水も滴るいい男って、こういう人のことを言うのね。
目のやり場に困ってしまう。
「これ、使って」
私は鞄からミニタオルを取り出し、彼へ差し出した。
「ありがとうございます」
タオルを受け取りながら、朝倉くんが言う。
「通行止めのようです」
「通れないの? 崖が崩れたのかしら」
「規定の雨量を越えて、通行禁止だそうです」
「……」
朝倉くんがハンドルに腕をのせ、唖然とした表情になる。
「少し待てば、雨もやむわよ」
私は、どこか楽観的に考えていた。
雨はいつか上がる。それから下山すればいい。
けれど、朝倉くんは困った顔で、濡れた自分の服を見回した。
「待つには、少し寒いです……」
「……そうね」
季節は二月。
車の中とはいえ、濡れた衣服のままでは体温が奪われてしまう。
「ごめん、朝倉くんが辛いよね。アトリエに引き返して、暖を取らせてもらおうか?」
私がそう提案すると、朝倉くんは首を横に振った。
「お客さまに迷惑はかけられません」
「でも……」
「途中にペンションがありました。そこで休憩させてもらいましょう」
そう言われて、私は来た道を思い返した。
確かに、途中に大きなログハウスが見えた。
別荘かと思っていたけれど、あれはペンションだったのだ。
この状況では、その選択を取るしかない。
「……では、そうしましょう」
雨は夜にはやむ。それから下山すればいい。
そのときの私は、そう思っていた。
私の考えは、甘かった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
夏目莉央
1,537
131
くま🐻☁️
12