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霊峰と言っても過言ではない、険しく連なる山脈の一画。
そこに、その石室はあった。
イザがフィリアを弔うためのもの。そして氷漬けにすることで、可憐で美しいままの姿を残しておくためのもの。
「フィリア。終わったわよ。この世界から……人間を滅ぼしてきたわ。ちょっと、時間が掛かってしまったけれど」
イザはやつれただろうか。
しかしその暗がりの中では、彼女の疲れた声しか判断できるものがない。もしかすれば、魔力で美しい姿を維持したままかもしれない。
「それでも、5年もかからなかった。頑張ったの。ねぇ、褒めて。お母様すごい。って、褒めて。フィリア……私の可愛い、大切なフィリア……」
彼女がここに訪れたのは、フィリアを安置するためにこの石室を造って以来だった。
「私ね、これで死のうと思ってるの。ここで、一緒に消えよう? ……今までずっと、あなたの体を残したままで、ごめんなさい。一緒に死にたくて、待っててもらっちゃった。悪いお母さんよね。ごめんなさい」
ようやくその氷塊を見上げ、美しいままのフィリアを見た。
光などなくとも、その姿はありありと見える。イザには。
「だけど、あなたが痛くないように、熱くないように、瞬きよりも速い一瞬で、灰も残さないわ。私の魔法、あの時よりもっともっと、すごくなったのよ。それを最後に、一緒に……。ね?」
イザは光を探した。
もうひと目だけ、残されたその姿にだけでも、会いたくて。
「天国で、会えるかな。許してくれるかな。……ううん。許してくれなくてもいい。だけど、一緒に居させて? 私、あなたのことをすっごく、愛しているんだから。永遠に愛してる。だから、許してくれなくても、一緒に居させて欲しいの」
そう言ってからしばらく、光の届かないその場所で、イザはずっと佇んでいた。
手先も足先も、凍えが痛みに変わり、耐え難い苦痛が生じていてもじっと氷塊を見ていた。
まだもう少しだけ、あの可憐な姿を見ていたくて。
見えていなくても、いつでも目の前に居るかのように思い出せる。
それが今は、実際に側に居るのだから。
けれど、体が存在しているとしてもやはり、死の壁はどうあがこうと越えることが出来ない。
分かってはいるのに、イザにはフィリアを消し飛ばす覚悟を、この最後まで持てずに居た。
せめてその決意が訪れるまで、側に居たかったのだ。
「フィリア。それじゃあ……見ててね。一瞬過ぎて、見ることは出来ないかもだけど。だけどその分、すぐ天国に行けるからね。フィリア――――」
イザの中で決まったらしい。
最愛の、大切な娘を、己が魔法で消滅させるのだという、重い決断をした。
「愛してるわ。フィリア」
その言葉に、魔力を乗せ切る瞬間だった。
「――うん。愛してる」
イザには、声が聞こえた気がした。
聞こえるはずのない、幻の声が。
「私の声じゃ……」
「愛してるわ。お母様」
「うそよ」
しかしそれは、はっきりと聞こえた。
幻聴でしかないはずの、フィリアの綺麗な声が。
「やっと、声を出せるようになった。もう。お母様の魔法、強過ぎるのよ。だからずっと待っていたのよ? この氷、ぜんぜん解きに来てくれないんだもの」
「う……そ。うそ。うそ……」
それは、最も聞きたかった娘の声で、そしてもう二度と聞きたくない声だった。
「ほんとうよ? 私があんな剣ごときで、死ぬわけがないじゃない」
あの時の、フィリアを死なせてしまった最悪の記憶がよみがえる。
一日に何度も何度も何度も思い返しては、あの時を後悔し続けてきた。
その痛みがまた今日も、幾度目だろうか胸の奥を突き刺す。
「フィリア? 夢ならやめて。もう嫌なの! もう数え切れないくらい見たわ。目が覚めたら居ない辛さは、地獄なの。もう出て来ないで! もう微笑まないで! 会えないのに……辛すぎるの……」
イザはその場にうずくまり頭を掻きむしった。
叫んでこの場から逃げ出したいのに、痛みで脳が痺れて、動けずにいる。
死ぬほど夢に見て、ひと時の幸せな時間を過ごして、そして目が覚める度に突き付けられる現実。
涙など枯れ果て、目から血を流すほどにうっ血してなお、その余韻に苦しみ、追われる。
しかし人間を滅ぼすまではと、狂うことも出来ずにただ目的を追いかけ続けた。
そして朝を迎える度に、幸せから叩き落とされ地獄を味わうのだ。
それを今日、今、終わりにしようと訪れたというのにまだ、幻聴に苦しむ。
「もう……やめて。おしまいにするのよ」
イザはまた、絶望を振り絞って力に変え、強く立ち上がった。
もう止まりたいと思う度に絶望に縋りついて、落ちるように進んで来たのだ。
「もう! 世話のかかるお母様! わたしは生きているわ! 早く氷を解いて!」
それは、今までの夢で聞いたことのない言葉だった。
「フィ……リア?」
「お母様っ」
その声は、夢という脳内の幻ではなく、たしかに鼓膜を振るわせている。
今、それだけは分かった。
石室にも響き、幾重にもこの耳に届いている。
明りなど魔法でどうにでもなるのに、今のイザはそこまで頭が回らない。
ただ目の前の氷塊を見上げ、中に居るはずのフィリアの亡骸に話しかけた。
「ほんとに……ほんとなの?」
「ほんとにほんとよ? そもそもわたし、お母様と命が繋がっているというのに。覚えていなかったのね」
「……どう、いう……」
「わたしの存在について、お母様にも伝えたはずなのに。わたし、半分は魔玉が造った体よ。魔玉と、お母様で出来ているって言ったじゃない。お母様の分身みたいなものだって」
「ぶん……しん」
イザは記憶を探ったが、思い出せるのはこの五年の苦痛だけだった。
フィリアとの幸せな時間は全て幻で、越えられない現実という地獄絵図に、変わってしまったから。
「も~! しっかりしてよお母様。わたし、お母様の魔玉と一緒に殺されない限り、死なないのよ? 産んでくれた頃に話をしたし、お母様は不思議そうに聞いていたじゃない」
そんな幸せの時間は、もうはるかに遠いものだった。
フィリアを失ってしまってから、思い出せたはずがない。
「で、でも……それじゃあ、どうして? 治癒も出来なかったのに」
「それはその、ちょうど心臓刺されちゃったから……。一時的に、再生もしないし治癒もうけつけない状態になっちゃったの……。ていうか、明かりもなしでお話を続けるつもり?」
そう語ったフィリアから、イザは魔力を感じた。
それには温もりがあり、そして石室を照らし始めた。
穏やかな淡い光のお陰で、フィリアの姿が浮かび上がる。
「でも、何時間かお母様の側に居れば、回復出来たのに。すぐに氷漬けにしちゃうんだもの。ちょっと酷かった。しかも、わたしじゃ解除できないような強力な魔法だったから、意識も飛んじゃったし……」
フィリアは氷塊の中で目を閉じたまま、口元だけが少し動いて見えた。
かろうじて、そこだけは融かすことが出来たらしい。
「フィリア……。あぁ……フィリア」
「お母様。この氷魔法を解いて。ちょっと苦しい……」
「あぁ……あぁ! ごめんなさい。すぐに解いてあげる。えぇと、夢じゃないのよね。これがもし夢だったら、私は……」
混乱したまま、しかしイザは、一瞬で氷塊を消してみせた。
中のフィリアが一切傷付かないように、細心の注意を払いながらも、ほんの瞬きの間に。
「うん、うん。ごめんなさいお母様。言いつけを守ろうと思ってたのに、安い挑発に乗っちゃって……どうしても許せないことを言われて、頭に血が上ってしまったの。反省してる」
フィリアは、ふわりとイザの下に降り立った。
「それと……怒らないでほしいんだけど……」
イザの目の前で、血のりの痕も当時のままに、フィリアは上目遣いに話を続けた。
「実は、あの時あの剣を見た時から、お母様を本気にさせられるかもって……いたずらのつもりだったの」
「……どういう、こと?」
イザはまだ、これが現実かどうかを疑っていた。
動悸は収まらないし、これもまた夢に消えるのではないかと気が気ではなくて、全身に脂汗が流れている。それがここの冷気で即座に凍てつき、身を刺すような痛みがずっと続いているのだ。
体が受けている状況を、どれが何であるのか、まともに判断出来なくなっている。
今見えているものも、聞こえているものも、感じているものも、全てが混線している。
「わたしが剣で刺されて仮死状態になれば、お母様はきっと、人間への甘い気持ちをお捨てになるだろう。って。だから、その、心臓を刺しやすいように、あの男をわざと誘導したの。お母様なら、きっとわたしの亡骸の側で、しばらく居てくださると思ったから。そしたらわたしは動けるようになるし、それにほら、体のことはちゃんと説明していたつもりだったから――痛っ!」
ばちんと音がした。
その話を聞いていたイザが、無表情でフィリアの頬をぶったのだ。
「ひどいわ」
感情の無いイザの声が、重く響いた。
そしてすぐに、湧きあがる怒りを眉間に寄せて、言葉を続けた。
「説明していたとしても、あなたの命を軽く扱わないで。そのせいで、私は――。私は……全てを失ったと思ったわ。ずっと今まで絶望してた。どんな想いでこの五年を過ごしたか、あなたには分からないでしょう」
イザはそれを言い終えると、枯れたはずの涙を流していた。
ぼろぼろと大粒の涙を零しながら、もう一度手の平をフィリアに向けた。
そのまま唇を噛みしめ、手を震わせ、フィリアをじっと見つめている。
そして――
感情が堰を切ったように溢れ、ついには、子どものように声を上げて泣き出した。
「うあああああああああぁ!」
フィリアは、もう一度ぶたれると思って目を閉じていたが、その泣き声を聞いてイザを見た。
「ご、ごめんなさい……。ごめんなさい」
フィリアは咄嗟に謝ったが、イザはただ、大声で泣き続けている。
フィリアはどうして良いか分からず、子どものように泣きじゃくる母を、しばらく見つめていた。
そして、いたたまれない気持ちに押しつぶされそうになりながら、その母を抱きしめた。
「お母様。ごめんなさい。本当にごめんなさい。こんなことになるなんて……思ってもみなくて……」
どんな言い訳をしようと、許してもらえない。
フィリアはやっと気が付いたのだった。
イザを抱きしめ、イザに触れたことでようやく、絶望というものが伝わった。
常人であれば、とうに廃人になっているほどのとてつもない苦しみを、愛する母に突き刺したのだ。
けれど、その衝動はフィリアの幼さゆえではなく、魔玉の力によるものだというのも、理解してしまった。
魔族の勝利と繁栄を望み命をかけたある女の、呪いにも似た切望。
それがフィリアを突き動かしてしまったのだ。そしてそれは、見事に叶えられた。
人間であるイザの犠牲によって。
だが、そんなことを説明して、何になるというのだろう。
イザの魂を抉るような非道を行っておいて、そんな言い訳が慰めになるはずもない。
「お母様……ごめんなさい。ほんとうに……こんな……ひどいことを……。ごめんなさい」
他の言葉も見つからなかった。
どんなに詫びようとも、それがたとえ伝わろうとも、イザの傷は癒えようはずがない。
それゆえに、フィリアはただ、ごめんなさいを繰り返しながら、イザを抱きしめ続けた。
**
そうして、イザがひとしきり泣いて落ち着くまで、ひと時を必要とした。
その間、フィリアはイザを抱きしめたまま、呆然としていた。
自分のしたことで取り返しのつかない傷を負わせた後悔に、苛まれながら。
「……フィリア」
そこに、イザが泣き枯れた声をかけた。
赤く腫れた目は、しっかりと娘のフィリアを見ている。
「は! はい、お母様」
フィリアは飛び上がるほどビクリとして、イザを見上げた。
真っ赤になったイザの目からは、感情を読み取れない。
「……許さないわ。一生」
静かにそう告げるイザには、生気が無かった。
全てに疲れ果てただろうし、心の底からフィリアを軽蔑しているに違いない。
その末に出した言葉がそれであることは、分かっていてもフィリアにとって辛いものだった。
「はい……。とうぜんです」
それを真摯に受け止めるしかないフィリアは、また目を逸らした。
もう、仲の良かった母娘には戻れない。
あれほど愛してくれたイザに、もう甘えることは出来ない。
「ほんとうに、ごめんなさい」
フィリアには、謝るしかなかった。
せめて、聞き飽きたと言われるまでは、言葉だけでも伝えるしかないと思っていた。
「だから、ずっと一緒に居なさい」
「……え?」
そのイザの声は、怒っているもののはずなのに、言葉がおかしいのではないかとフィリアは聞き返した。
「私が許してあげるまで、あなたがどんなに嫌でも、側に居なさい」
やっぱり、怒っている。
それなのに、その言葉には今までのような、愛情を感じてしまう。
「……いい……の?」
フィリアはもう一度イザを見ると、遠慮と、そして期待を込めて問い直した。
「いいも悪いもないわ。あなたが生きて……こうして、抱きしめてくれる感触が……本当に、現実なら」
また、その声は震え出していた。
涙声になって、その続きを言えないで言葉に詰まっている。
「お母様。わたし、側にいたい。お母様にもっと、甘えていたい」
今度は、フィリアが涙を零し始めた。
高く可愛い声を震わせながら、一生懸命に伝えた。
「あなたはずるいわ。フィリア。愛されていると知っているんだもの」
イザはやっぱり、怒っているらしい。
けれど、その怒りを吐き出しきりたくて、それから愛を伝えたいのではないかとフィリアは感じた。
都合の良いことを考えている。そう自分で思いながらも、イザから早く、愛していると聞きたかった。
「……愛してます、お母様。それなのに……ごめんなさい」
伝えたいのは、愛しているだったか、それともごめんなさいだったか。
そうではなくて、もっと別の言葉だっただろうか。
「これからは、私も甘えてやるんだから。たくさんワガママも言ってやるわ。覚悟しなさい」
イザは、もう気持ちを堪えきれなくなったらしい。
どうしようもなくあふれてしまって、また泣き顔になって口元と声をわななかせると、フィリアを目一杯、抱きしめ返した。
「私の方が、愛してるんだから」
それにつられるように、フィリアも甘えた。
「……ありがとうございます。わたしも愛してる。お母様」
嫌われてしまうという恐れから解放されて、フィリアは安堵した。
そしてそのかけがえのない愛を、これまで当然のように享受していたことを恥じた。
同時に、これを失いたくないという、恐怖を覚えてしまった。
最愛の人を失うという恐ろしさは、イザから伝わり感じてはいた。けれど、それが自分の恐怖として根付いたことを、初めて自覚したのだった。