コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
イザが世界中から人間を排除して、二十年近くが過ぎた。
その間、基本的に一枚岩である魔族といえども、多少のいざこざはあった。
とはいえ、互いに殺し合うということもなく、まさしく平穏な世の中となっていた。
魔族の本国においても、以前は脅威だった魔物さえ、イザのお陰で力を増した彼らの敵ではなくなった。
人間にも魔物にも脅かされることのない、正真正銘の平和が訪れている。
イザこそが最後の人間であり、ある意味、魔族の脅威ではあった。が、彼女に裏切るつもりなど毛頭ない。
娘のフィリアと日々を過ごし、とても穏やかに暮らしている。
それも、政務は魔族たちが取り仕切っており、イザは魔王とはいえ口を出す気がないからだった。
力のみで魔王となり、その役目を果たした後は、一人の母として生きている。
イザにとってそれこそが、かけがえのない幸せであり、この上なく満たされた時間だった。
ただ、ある日からイザは、魔玉にどれだけ魔力を吸われていようと、男たちを部屋に入れなくなった。
**
フィリアは、未だに母イザと寝室を共にしている。
キングベッドで二人して横になり、ひとしきり見つめ合ってから眠るのだ。
親離れの年など、とうに過ぎ去っているはずだがそうしていた。
イザも拒むでもなく、それを望むならと、十四、五才の姿で留めているフィリアを愛でていた。
そんな夜が、これからもずっと続くのだとフィリアは信じている。
しかし、イザの様子がこの数日おかしい。
それをフィリアは、今夜、我慢出来ずに問うことにした。
「お母様。どうして男たちの精を……魔力を受け入れないの? 調子が良くないの? このままじゃ……」
二人とも横になり、イザがいつも通りフィリアを、少しの間眺めた時のことだった。
フィリアが何か言いたそうにしていると察してはいたが、それがまさか今日の今であるとまでは、思っておらずに少し戸惑った。
イザは一度目を逸らしてから、数秒してまた、フィリアの赤い瞳を見つめた。
「ずっと一緒に居るんだもの。誤魔化せないわよね。……うん。私もね、若いつもりでいたけど、もう年なのかしらね」
はっきりとは、言い出せないことだった。
だからイザは、少しはぐらかすような言い方をした。
フィリアはそれをじれったく思うと共に、嫌な予感が黒いモヤとなって、胸の奥から膨らんで来るのを感じた。
「どういうこと?」
そう聞き返しはしたものの、その答えが良いものではないと、イザの雰囲気から察してしまった。
「受け付けないの。どれだけ精を注がせようと、魔玉が受け付けなくなっちゃった。こんなこと初めてよ」
それが良くないことだと、イザの表情から分かってしまう。
それも、かなり重大なレベルで。
しかしフィリアは、なるべく良い可能性を考えた。もしかすれば、という一縷の望みに賭けて。
「それなら、魔玉が力を失ったんじゃ」
魔玉が力を失っていれば、母は嫌なことをしなくて済む。
フィリアはそうであって欲しいと、たった今の思い付きに縋った。
けれど、心臓がバクバクとうるさく跳ねていて、もうこれは夢であって欲しいと、別の願いを込めてイザの答えを待った。
「ううん。ずっと吸われているわ。魔玉は私の魔力を吸い続けてる」
イザはどこか、諦めたような顔をしている。
けれども、フィリアを慰めるべく微笑んでもいる。
ちぐはぐな表情のはずなのに、どうにもならないほどにそれが一致している。
重大なレベルで、起きて欲しくない嫌なことが起きている。
「……私が魔力を注ぐわ。外からだろうと、私ほどの魔力なら。お母様と同じ波長の、強い魔力を注げば――」
言い切る前からフィリアは飛び起きるようにして、イザのお腹に両手を当てた。
「たぶん無駄よ。なんとなく、分かるの」
イザは拒みはせずとも、それに効果がないと、なぜか確信していた。
「やってみないと! お母様はこういう時だけ諦めるのが早いんだから!」
自分のことになると、途端に諦めがいい。
いつの時も、イザは自分を犠牲にするのを躊躇わない。
それをフィリアは、腹立たしく思っていた。
なぜもっと、自分のために足掻かないのか。
「……入らない。どうして? どれだけ強く流し込んでも……弾かれてしまう」
「言ったでしょう? なんとなく分かる、って」
「そんな……。何か手は無いの? 何かあるはずよ。そうだ、もうお腹から取り出せば」
話しながらも魔力を流し続けていたフィリアは、次の瞬間にはその魔力の形を変え、イザに風穴を開けようとしていた。
「怖いこと言わないでよ。もう、ほとんどの臓器と癒合してるのよ。それはさすがに死んじゃうわ」
イザはただの人間であるから、ほとんどの臓器を失っては、それがほんの一時的なものであっても、その時点で即死してしまう。
特別な体を持つフィリアとは、根本的に違うのだ。
心臓まで根付いた魔玉もろともに――というわけにはいかない。
「それでも……嫌よ。絶対に嫌。何か……何か考えましょう、お母様」
フィリアはそう言いつつも、もはや何も思いつかなかった。
命が繋がっているといっても、不死の恩恵があるのはフィリアだけなのだ。
けれど、魔玉は母イザの力を絶大なものにし、誰の追随も許さないからこそ、そこにリスクなど考えたことがない。
だからこそ、魔玉を取り出そうという発想などしたことがない。
まさか、魔玉そのものが牙を剥くなどと、誰が予想しただろう。
「言ったでしょ。なんとなく分かる、って。寿命なのよ、きっと。私はフィリアと違って、人間だもの。少し早いなとは思うけど、寿命だとしても納得は出来る年よ」
「まだ四十かそこらなのに? 他の人間はもっと長生きしてたじゃない!」
フィリアは母イザの、その諦めの声を、聞きたくなかった。
「短い寿命もあるのよ」
「嫌! 魔玉が無ければ絶対にもっと生きてるはずよ! 魔玉のせいなのに!」
話が逸れてゆく。もっと、魔玉をどうにかすることを考えるべきなのに。
ただ、今すぐには打つ手が思いつかない。
フィリアは気ばかりが焦って、感情的になるしかなかった。
しかし相対するように、母イザは落ち着き払っている。
「これのお陰で、私は仇を討つことが出来た……後悔は無いわ」
「やだ!」
「心の準備をなさい。いつかは来る時が、ちょっと早かったというだけだから」
「いやよ!」
「もう大人でしょう? 母親なんかより、いい人を見つけなさい。そうね、優しくて長生きの人がいいわね」
「やだってば!」
「今すぐに死ぬわけじゃないわ。だから、それまでは甘えてくれてもいいけど」
それでも、母イザが部屋に男を入れなくなってから、すでに数日が過ぎている。
いや、魔玉が精を受け付けなくなってからならば、さらにもう数日だ。
残された時間など、長くとも後一週間ほどしかない。
「お母様……やめてよぉ……」
フィリアは、どうにもならない現実というものを、突き付けられてしまった。
イザだからこそ進んで来られた、現実という名の地獄を。
**
寝室で、今夜も二人のベッドに、並んで横になっている。
フィリアもイザも、お互いの顔をしっかりと見てから眠るようになった。
それは、どうにもならない日々が続いたからだった。
誰がどんなに手を尽くしても、体内の魔玉をどうにも出来なかった。
無慈悲なまでに、イザの魔力を吸い上げ続けている。
その間に、イザはとっくに覚悟を決めてしまっていた。
フィリアに、これまで以上に優しく、そして甘く接した。
良い思い出だけを、抽出するかのように。
イザにとっては、フィリアだけが心残りで、自分のことで思い残すことなど何も無い。
ゆえに、フィリアのことだけを考えていた。
そのフィリアも、母イザに大いに甘えた。
幼児にでも戻ったのかというほどに、食事も入浴も、着替えさえも全て、イザに手伝ってもらった。
だがそれも、ほんの数日のこと。
足掻きに足掻いて、それでもどうにもならずに、諦めた。
諦めきれた訳ではなく、そして受け入れたわけでなく、そうせざるを得ない現実の壁があったのだ。
フィリアの後悔は尽きない。
なぜもっと、最初から魔玉のリスクを考えなかったのか。
なぜもっと、魔玉を取り出せないか、試してこなかったのか。
なぜ、母イザならば何でも出来ると、思い込んでいたのか。
全ては、魔玉によって生まれた自分が、魔玉を信じ過ぎたせいだ。
フィリアは、その責任を今、負っているのだと考えた。
間抜けな自分への、罰なのだと。
そして、その絶望が訪れてしまう前に、せめて最後の思い出が欲しいと願った結果として、母に甘えなおすということに行きついたのだった。
だがそれも、イザがそのように誘導してのこと。
ただ、この夜は、イザの声には別れの色が滲んでいた。
いつもと同じようでいて、しかし、特別な想いを込めた声。
「私は幸せ者ね。フィリアと居られて本当に幸せ」
それにつられるようにして、フィリアも応えた。
母のことを想い、考えるようになっていたことを話すには、今であると。
「私もよ。それでね、私もいつか、そっちに行くから。フラガお父様と待っていて」
フィリアは、イザの想い人をお父様と呼ぶ。
それは生まれた頃からで、イザもそれを気に入っていた。
けれど、イザは魔玉を受け入れた時から、フラガのことは忘れたことにしていたのも事実だった。
もはや自分が死んだ時に、同じ所には行けまいと。
「……ねぇ。私、たくさんの人間を殺したわ。何百万……ううん、もっとかも。魔族にとっては都合の良い駒だったかもしれないけど」
それ以前に、フラガを裏切っている。
復讐を選ばなければ、裏切らずに済んだものを。けれど、力を前にして、復讐せずにはいられなかった。仇を討たずにただ死ぬのは、それも同じになるとイザは思ったのだ。
どちらも裏切りになるならばと、イザは復讐を選んだ。
だから、フラガのことは思い出として割り切っているつもりだった。
ただ、フィリアはそれを汲んで、常日頃から思っていることを伝えた。
「人間は、滅びるべくして滅んだのよ。そのきっかけが、お母様になったというだけ。お母様が思い悩む必要なんてない。それに、駒なんかじゃない。魔族から見れば大英雄よ、お母様」
それは間違いなくひとつの事実であると、フィリアは誇りに思っている。
「英雄? フフッ。初めて聞いた。でも、あなたが言うなら、そうなんだと思うことにする」
「うん。だからきっと、フラガお父様のところに行けるわ」
後ろめたいことなど、あってなるものか。
最愛の人のために、自らの全てを犠牲にした女の想いをふいにするような、そんな父ではない。
フィリアは本気でそう思っていた。
しかも、この世にはもう、父フラガは居なかったのだから。
「あなたがそう言ってくれると、ほんとにそんな気がする。ありがとう、フィリア」
「そうよ。それより私のこと、忘れないでよね」
フィリアは、この間際になって暗い話など続けたくなかった。
それよりも、もっと自分のことを想って欲しいと、最後までワガママを通すつもりだった。
だから、死んでからも忘れずにいて欲しいと、念を押したのだ。
「魔族の寿命ってどのくらいだっけ。千年? それまで私はフラガと二人きりで、たくさんイチャイチャできるわね」
「千年も新婚生活するつもり? 私が行くころには、居場所がなくて邪魔者になっちゃうかしら」
ただのワガママと冗談のつもりが、フィリアもイザも、本当に楽しくなって笑みがこぼれた。
「ふふふっ。そんなことないわ。甘えんぼさんのフィリアを、ずっと待ってるから」
「甘えんぼさん……まあいいわ。うん。イヤだって言っても、一緒に暮らしてもらうから」
「楽しみにしてるわ。フィリア」
「うん。愛してる、お母様」
イザは察していた。
命が尽きることを。
フィリアも同じく、それを察した。
もう数分も、時が残されていないと。
それは、この二人だからこそ感じ合えた。
最後のお別れは、涙ではなく笑顔で迎えたい、とも。
「あなたと一緒に暮らした時間は、夢のように素敵だったわ、フィリア。とても幸せだった」
「わたしもよ。お母様。ほんとに、幸せだった」
お互いに、涙は流すまいと決めているのか、二人は微笑み合っていた。
「良かった。……ちょっと、眠くなってきたわ。おやすみなさい。フィリア」
そう言ってイザが瞳を閉じると、涙がひとしずく零れた。
「おやすみなさい。お母様」
その返事と同時に、小さな呼吸も聞こえなくなった。
フィリアは、それを見届けてから、ぼろぼろと涙を流した。
「……いってらっしゃい。お母様――」