テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
実習室が並ぶ区画へと続く、薄暗く長い接続廊下。まだ誰もいない空間に、私の靴音だけがカツン、カツンと乾いた音を立てて響いていた。
足取りは重く、私は俯いたまま進む。実習がある日はいつもこうだけれど、今日は特に酷い。わざわざ早い時間にこうして向かっているのも決して前向きな理由なんかじゃなかった。
区画へ足を踏み入れると、端末が微かに震えて通知を告げた。
…… …… ……No.165
第8セクター3Q 68回ペア実習
学籍番号83200480 学籍番号83298200
134クラス Φ リルティ × 78クラス Χ ルシアン
680番実習室の使用許可が降りています。余裕を持って入室を済ませてください。
生唾を飲み込み、深くため息をつく。
数日前、初めてペア表にあの名前を見つけた時の、サーッと血の気が引いていく感覚は今でも鮮明に思い出せる。
『ルシアン』
私たちの世代なら、誰もが知っている名前だ。
——歴代でもトップクラスの才能。
——第8セクターの最高傑作。
——すでに一部の教師すら凌駕している。
聞こえてくるのは、そんな現実味のない噂ばかり。
私が実際にその姿を見たのは、たったの二回だけだ。モニター越しに見た第2Q卒業式での表彰と、第3Q入学時のスピーチ。
画面越しですら息を呑むほど凛とした佇まい、触れることすら許されないような厳かな空気。
とても同期生とは思えなかった。住む世界が、文字通り違いすぎる。
そんな自分と対極——と言うことすらおこがましい、雲の上の存在との二人きりの実習。
「…っ…ふぅ……はぁ」
震える息が零れ落ちる。
廊下を一人で進むごとに、不安で喉の奥がカラカラに渇いていくのが分かった。
バクバクと肋骨の裏を叩く心臓の音が、静まり返った空間にやけに生々しく響く。
やがて、割り当てられた実習室の前に辿り着いてしまった。
冷たい金属の扉に手をかける。
逃げ出したい衝動を必死に抑え込み、私は覚悟を決めて、静かにその扉を押し開けた。
まだ誰もいないはずの薄暗い室内。
その中央に備え付けられたベッドに、すでに誰かが腰掛けていた。
豊満な身体の起伏を包む黒の実習着。透き通るような水色の柔らかいショートヘアの隙間から、淡い青の瞳がこちらを捉える。
ふと視線が絡み合った瞬間、呼吸の仕方を忘れたように喉が詰まった。
「あれ? もう来たんだ」
実習室の認証は、割り当てられた当事者以外には開かない。
ということは、目の前にいるこの人が――ルシアンさん。
想定外の事態に思考が真っ白に染まり、理解が完全に追いつかなくなる。
「えっ……あ、あの、時間……」
「ふふっ、遅刻じゃないから大丈夫だよ」
あまりにも拍子抜けだった。抱いていたイメージとの乖離が激しすぎる。
フワフワとした立ち振る舞いや柔らかい笑顔に、私の身体はまだフリーズしたままだった。自分より先に相手がいる状況なんて初めてだし、実習開始まではまだ時間がある。何より、相手があの……。
数秒間の気まずい沈黙を破ったのは、ルシアンさんの方だった。
「ほら、こっち来て?」
ルシアンさんはそう言って、ベッドの空いたスペースをポンポンと軽く叩いた。
ハッと我に返り、慌てて頭を下げる。
「し、失礼します……」
恐る恐る歩み寄り、ルシアンさんの横にちょこんと腰掛けた。バクバクと暴れる心臓の音を感じながら、身を縮こまらせて肩を丸める。
「いつもこんなに早くから来てるの?」
「えっと……ルシアンさんに迷惑かけちゃダメだと思って。その……私、普通のことも、上手に出来ないから……」
俯いた私の視界の端から、すっと腕が伸びてきた。
私より一回り大きな掌が、震える私の手を優しく包み込む。
「えっ……?」
見上げると、ルシアンさんは柔らかく微笑んだまま何も言わない。
困惑していると、彼女はドサッとベッドへ仰向けに寝転がった。目で「同じようにして」と促されているような気がして、私もつられて隣に寝転がる。
手を繋いだまま、二人で何もない白い天井を見上げた。
不安になってチラチラと横顔を盗み見るが、ルシアンさんは静かに目を瞑っている。
——不思議な感覚だった。
今まで誰とも、こんな時間を過ごしたことはない。
実習前に公開される完璧なデータや成績、耳に入ってくる数々の実績。それらと比べると、目の前にいる彼女はずっと体温があって、身近な存在に思えた。
しばらく横になっているうちに、激しかった鼓動がいつの間にか静かに落ち着いていくのがわかる。
繋いでいた手をそっと握りしめてみると、ルシアンさんの手もキュッと優しく握り返してくれた。眠っているのかと思ったけれど、起きていたみたいだ。
「あの、ルシアン……さん」
「……ん?……もう少し、こうしてようか」
降ってきた穏やかな声に、私もルシアンさんと同じように目を閉じる。
重なる手のひらがじんわりと暖かくて、ずっとこの時間が続けばいいのに——そんな場違いな願いさえ浮かんできた。
『——ピピピピピピ。定刻になりました。実習を開始してください。定刻になりました。実習を開始してください』
部屋の上部から、無機質な放送音が響き渡る。
——また、あの実習が始まってしまう。
それでもルシアンさんが手を握る強さは変わらない。恐る恐る、彼女の方を向く。
「……?」
「えっと、その……始め、なきゃ……」
「………………そうだね」
ずっと握り合っていた二人の手がスルスルと離れ、ベッドの上に身体を起こした。
「じゃあ改めて……リルティ、よろしくね」
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!