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夕暮れの光が
窓辺のレースカーテンを通して
柔らかに差し込んでいた。
橙色に染まった廊下を
時也は静かに歩いていた。
その腕の中には
意識を失った〝少女〟の身体。
その体温は微かに熱く
まるで何かに赦された直後のように
安らかな呼吸を繰り返していた。
時也は廊下の奥、空いている一室の前に立ち
静かに扉を押し開ける。
室内にはまだ誰の匂いもない。
壁紙は淡い藤色で
清潔な白いベッドリネンが
夕陽の反射で金色にきらめいている。
その静謐な空間に
彼は少女をゆっくりと横たえた。
彼女の髪を整え
頬にかかる煤竹色の前髪を指で避けると
そのまましばし彼女の寝顔を見つめた。
目を閉じた少女の表情は
つい先ほどまで
怒りに満ちていたとは思えないほど
穏やかで無垢だった。
唇はわずかに開き
呼吸に合わせて胸が上下している。
(どうか、少しでも安らげますように)
時也は小さく頭を垂れ
ベッド脇にそっと立ち上がると
部屋を出て静かに扉を閉めた。
足元で擦れたような音がして
彼は視線を下ろす。
そこには
既にティアナがぴたりと待機していた。
「ティアナさん
では、この部屋に結界をお願いしますね」
ティアナは短く一声、低く鳴く。
そのまま前脚を揃えて扉の前に座り
長い尾を巻いた箱座りの姿勢へと移行する。
その小さな身体から
無音のまま淡い光が滲み出し
扉と壁、そして部屋全体へと
ゆるやかに広がっていく。
まるで見えない水の面が張られるように
菌の流出を遮断する結界が
部屋全体を静かに包み込んでいった。
時也は微かに目を細めると、その背を向け
レイチェルの部屋へと歩を進めた。
扉の前に立ち、軽くノックする。
──トン、トン。
中から返ってきたのは
重く低い声だった。
「⋯⋯入れ」
「失礼します」
扉を静かに開けると、空気が変わった。
それはただの室温ではない。
病に沈む空間特有の
湿度と、滞留した熱気と
不安が混じる匂いだった。
カーテンは閉じられ
ベッドに横たわるレイチェルの額には
薄い汗が滲んでいる。
口元はやや開き
浅く濁った呼吸が漏れていた。
ごぼっと、まるで肺の奥が泡立つような
湿った音が時折混ざる。
体温調節が効かないのか
シーツの下の身体が小刻みに震えていた。
その傍らで、ソーレンがベッドに腰掛け
無言でタオルを取り替えている。
タオルの端で額の汗を拭いながら
その手つきには苛立ちと焦りが滲んでいた。
もう一方の椅子にはアビゲイルが腰掛け
両手を固く組み
怯えた瞳でレイチェルを見つめていた。
その頬は蒼白で
唇がわずかに震えている。
「レイチェルさんの容態はいかがですか?」
「良くねぇな⋯⋯
一体、なんだってこんなことに──!」
ソーレンが吐き捨てるように言う。
「先程の方とは別に
もう一人、転生者の方がおりました。
〝腐敗の魔女〟⋯⋯
恐らくは微細菌を操る異能でしょう。
その方の菌に感染したのかもしれません」
「虫の方に⋯⋯菌の方まで⋯⋯」
アビゲイルが蒼ざめたまま口を開いた。
「とりあえず
お二人は感染を避けるために
心配でしょうが⋯⋯
看病を僕に任せていただけますか?
僕は⋯⋯不死、ですから」
時也の言葉に、ソーレンの眉が険しくなる。
「いい⋯⋯俺がやる。
俺は生まれて一度も
腐ったもん食っても腹は下さねぇし
冬にボロ一枚でも
風邪をひいたこともねぇからな」
「貴方が〝バ⋯⋯〝丈夫〟なのは解りますが
異能の菌なんですよ?」
「てめぇ⋯⋯今、バカって言いかけたろ?」
睨み合う二人に、アビゲイルが立ち上がる。
「おふたりとも!
病人の前で喧嘩など、論外ですわよ!!
ソーレンさん
ここは時也様に従いましょ?⋯⋯ね?」
彼女の声には強さと切実さがあった。
レイチェルの苦しそうな寝息が
それをさらに鋭く響かせる。
時也はソーレンから目を逸らさず
言葉を重ねた。
「彼女の高濃度の菌の中に居て
未だに僕は何の症状も出ていません。
不死であることとあわせて考えれば
誰よりも僕が適任でしょう。
──どうか、任せてください」
しばしの沈黙。
ソーレンは悔しそうに唇を噛み
レイチェルの手を強く握った。
「⋯⋯チッ⋯⋯わかったよ。任せる」
低く吐き捨てるように言い
彼は椅子から立ち上がった。
だが、その背にははっきりと
怒りと共に
〝頼もしさ〟への信頼が滲んでいた。
時也は深く頭を下げ、二人に向けて言った。
「ありがとうございます。
では、お二人はシャワーを浴びて
お部屋でお休みください。
感染の不安がある以上
早めの対応が必要です」
アビゲイルは頷き、ソーレンも渋々従った。
時也は扉が閉じたのを確認してから
ベッド脇に跪く。
額に触れ、頬に触れ、呼吸音を聞きながら
彼は一言、誰にも聞こえぬ声で囁いた。
「レイチェルさん
少しだけ──僕に任せてくださいね」