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本来、鬼人となる場合、記憶が消えるのが当たり前だ。しかし、彼は違った。記憶が霞んだりすることもなく鮮明に残っていた。
「兄貴と俺はどっかから流れ着いたガキだったのを、ヤマヒメの姉御が育ててくれた。だが周りはいつだって俺たちを馬鹿にした。所詮は人間で、そのうえガキと来たらできる仕事も限られてくる。だから見返してやりたくて、俺は鬼人になった」
誰にも言えなかった。兄弟はいつも馬鹿にされたが、それでヤマヒメに言ったところで何かが変わるとも思っていなかったし、それではなおさら自分たちが弱いと認めるようなものだと避けていた。ずっと、ずっと悔しさを隠しながら。
「だが兄貴は鬼人になろうとはしなかった。それでは見返せないなんて言ってな。本当に馬鹿な奴だよ。まだガキのくせに、フヅキの作った出来の悪い船に乗って、どっかに行っちまった。俺を置いて、あのクソ野郎」
思い返せば腹立たしくなる。人間だった頃は気が小さかったリュウシンにとって、頼りにしていた兄が意地でも島を出ていくと言ったとき、どうしても捨てられたという気がしてならなかった。こいつも結局、他の連中と同じじゃないか。そう考えたら腹が立って、そんな兄よりもずっと強い存在になってやる、と心に誓った。
鬼人になったのは、それから数年経っての話だ。
「だけどな。俺が鬼人になってから、連中は手のひら返しだ。人間だったときのことを忘れてると思い込んで、これからは仲間だの、困ったら手を貸してやるだのと、まあうるせえこった。だから好き放題してやった。何を言われようが、お構いなしにだ。おかげで強くなった俺に逆らう奴は減っていった。……姉御を除いてはな」
リュウシンはもともと、弱かったとはいえ優れた潜在能力を持っていたのか、鬼人になってからは驚異的なスピードで力をつけていった。なんでも自由になった。好きなときに女を抱いて、好きなときに酒に溺れ、内側から徐々に何もかもを叩き壊すつもりだった。だが、それをヤマヒメが許さなかった。
「姉御を殺さなきゃ、俺の、この報復は終わらねえ。そのつもりで、一度は殺されかけたが、なんとか逃げ出したってのに……ここまでだな」
彼はヤマヒメを見あげた。もう逃げ場もない。仲間も数人殺して、フヅキまでさらった。彼女をさらえばヤマヒメが必ず出張ってくる。強くなった今なら戦えるだろうという思い上がりの前に、彼はヒルデガルドに敗れたのだ。掟に従えば、殺されるしかない。動けないほど弱った彼の前で、首領であるヤマヒメが下したのは──。
「すぐにでも殺してやると言いたいがよう。その前に、わちきはヒルデガルドに礼を尽くさなきゃならねえ。ならず者のてめえを探すにとどまらず、ぶっ飛ばしてくれたんだからよ。……てめえ、この島のあちこちを走り回ってたんだろ?」
大きな手がリュウシンの頭を掴む。
「神の涙ってえ石ころについて教えたことがあったよな。あれを集めるのを手伝え。ここに片っ端から、島の隅々を探して持ってこい。時間は掛かっても構わねえ。だが間違っても逃げようとすんじゃねえぞ」
彼は頷くしかない。姿を隠したところで、ヒルデガルドの追跡魔法から逃げおおせる手段を持たない以上は。
「ようし、じゃあ話は次だ。大陸に渡ったてめえの兄貴だがよ。風の噂じゃ、大英雄になったなんて話も聞いてるが……ヒルデガルド、こいつの兄貴には覚えが?」
どう答えるべきか、そう思い悩み──。
「のう、ヒルデガルド。素直に言うておくべきじゃ」
イルネスに諭されて、落ち着いて決心した。
「ああ、そうだな。その前にひとつ聞いておこう」
こほん、と小さく咳払いをする。
「君の兄はクレイ・アルニムという名で合っているか」
「……アルニムってのは大陸の名か?」
「そういう姓は多い。君たちのこちらでの名前は?」
「俺の本来の名はカムイ。兄貴の名は、」
割って入るように、ヤマヒメがぽつりと言った。
「てめえら兄弟はアルニムって姓だ。てめえらが乗せられてた小舟に、手紙があったのを覚えてる。あいつとどんな関係だったんだ、ヒルデガルド」
妙な雰囲気を感じたヤマヒメから僅かな殺気が漏れる。
「君が手塩にかけて育てた我が子同然の兄弟だとしたら、こんな話をするのは酷かもしれない。いや、むしろ怒りを買うことを承知の上で言わせてもらう」
杖を握る手にぎゅうっと力が籠った。
「──クレイ・アルニムは死んだ。私が、この手で殺した」
ヤマヒメが立ち上がって、彼女の首根っこを掴もうと腕を伸ばす。だが、直前で躊躇って、ぴくりと止まった。
「……なんで、あの良く出来たガキを殺した?」
「その必要があったからだ。君と同じようにな」
殺意が沸々と湧きあがるのを抑えながら、ヤマヒメはゆっくり座り直す。殺すだけなら簡単だ。しかし、それでは自分の意志に反する、と。
「何があったか教えてくれ。殺そうと思えば殺せたのに、リュウシンにすぐトドメを刺さなかったてめえのことだ。よほどの事情があったんじゃねえのか」
「さあな。今となっては分からないよ。ただ……」
思い返せば、結局は下らない理由だ。ひとつ端的に言えるとすれば。
「私たちは分かり合えなかった。どちらかが死ぬまで」