コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
光留がどこかへ去り、私には慎司と交際するという選択肢しかなくなった。慎司ではない別の男性との交際を求めるという選択肢もあったはずだが、光留だけでなく慎司まで失ったあとまた一から別の誰かと交際をやり直す気力も自信もなかった。
慎司以外の男に目が向かなかったのは交際中の慎司が光留をいじめていた性格の悪さを封印し、とても優しく誠実に見えたから。
結局それは結婚するまでの欺瞞にすぎなかったのに、まんまと私はだまされた。私は毎日のように慎司とホテルに入り浸り、彼の与える快楽に溺れた。何十人という女を知っている彼にとって自分以外に男を知らないうぶな女をベッドの上で手懐けるのは赤子の手をひねるより簡単なことだっただろう。
彼は会うたびに結婚話を私に聞かせ、一切避妊をしなかった。その結果、慎司と交際を始めて三ヶ月もしないうちに、私の妊娠が発覚した。その直後の三月初旬、両親と暮らす自宅に一通の内容証明が郵送され、私は文字通り天国から地獄へ叩き落とされた――。
内容証明の差出人は慎司の妻・麻生香菜の代理人、つまり弁護士。要件は夫と私との不貞行為による婚姻関係の破綻に対する慰謝料請求。さらに離婚成立まで私と慎司の接触禁止も通告された。
何かの間違いだろうと私の家族は半信半疑だったが、慎司は会社の同僚で彼との交際は事実。お腹に子どもまでいると告げたら、家族みんなに吊し上げられた。
「彼氏ができたようなのは知ってたが、相手は妻帯者だったのか? 紹介されるのを楽しみにしていたが、そりゃうちに呼べんよな!」
「奥さんのいる男の赤ちゃんを身ごもったって……。シングルマザーとして生きるということ? それがどれだけ大変なことか想像もできないの?」
「不倫なんて違う世界の話だと思ってた。汚らしい! あたし婚約者がいるのに、あんたのせいで破談になったらどうしてくれるわけ?」
父には顔を殴られ、母には号泣され、姉には汚物扱いされた。姉は私より三つ年上、名前は舞。
世間知らずな私は、相手が既婚者だと知らずに不倫関係になった場合は自分に非がない、という常識を知らなった。
私に慰謝料を請求している、慎司の奥さんを自称する女が嘘を言って私を陥れようとしているとしか思えなかった。攻撃対象は私だけだろうか。何より彼の身が心配だった。私はまだ彼を信じていた。
悪夢という言葉があるのは知ってるが、私は悪夢というものは見たことがない。でも現実は今まで見たどの夢よりもよほど無惨で過酷だった。
悪夢ならいいと思ったのに、朝部屋を出て早々、両親に呼ばれ、慎司と別れないなら絶縁だと宣告された。
内容証明で慎司との接触を禁止されていたが、職場に行けば顔を合わせざるを得ない。どうすればいいのだろう?
SNSで慎二に連絡を取ろうと思ったが、きっと彼の方から心配いらないと言ってくるはずだと信じて、連絡しなかった。寝ないで待っていたが、昨日まではあんなにまめにメッセージをくれたのに、今日に限っておやすみの挨拶さえなかった。
内容証明には話し合いをしたいから弁護士事務所に連絡するようにという指示もあった。連絡は昼休みにすることにして、出勤までは禁じられていなかったから、その日私はいつもの時間に、でも今まで感じたことがないほどの暗い気持ちを抱えて職場に向かった。
慎司が職場に来ているのを見て安心した。
「おはようございます」
私が光留と別れたばかりということもあり、慎司との交際後も彼の提案を受け入れて、職場ではあくまで同僚同士の関係でしかないようにお互い振る舞っていた。とはいえ、私の体の隅から隅まで知り尽くしている人物が同じ職場にいるというのはなんだか照れくさいものがあった――
が、今はそんなのんきな物思いに耽っている場合ではなかった。それなのに、慎司は私の挨拶を無視した挙げ句、その日一度も私に話しかけることはなかった。目を合わせることさえ意図的に避けているような気配まで感じられた。
勤務時間終了後、会社を出たところで慎司を捕まえて抗議した。
「麻生さん、なんで無視するんですか? 昨日、あなたの奥さんだと言い張る人から慰謝料を請求する内容証明が届いて、家族にぎゃあぎゃあ責められて大変だったんですよ。一応確認しますけど、麻生さんは前の奥さんとは離婚して今は独身なんですよね?」
「あ、ああ。だいたい合ってる」
「だいたいって何ですか? 離婚してるのか、してないのか、どっちなんですか?」
「正確に言うと、離婚協議中というか……」
「バツイチというのは嘘だったんですね」
信じよう信じようと思いつつ、一方では弁護士が介入してるくらいだから信じきれない気持ちもあった。だからショックは受けたけど、涙までは出なかった。
「私は知らないうちに不倫していたということなんですね。麻生さんはこれからどうするつもりなんですか?」
「妻とのあいだには娘までいる。簡単に見捨てられないのは分かるだろ?」
「私のお腹にだってあなたの子どもがいます!」
「まだ生まれてないじゃないか」
慎司のその言葉はバツイチと公言していたのが嘘だったと知ったときよりショックだった。
「堕ろせということですか」
「お互いの幸せのためだ。分かるだろ?」
「幸せのためというなら、私はあなたと交際しなかった方がよっぽど幸せだった。あなたはどういうつもりで避妊もしないで私を妊娠させたんですか?」
「どんな頼みも断らないから調子に乗ったというか……。七海も嫌なら断ればよかったんだ」
いつのまにか私が悪いことになってるし。しかも慎司は明らかに私を捨てようとしている。奥さんと離婚協議中だと言ったのも嘘かもしれない。逃げることしか頭にない男を目の前にして、私はただただ途方に暮れていた。
弁護士事務所に連絡し、慎司の奥さんの麻生香菜さんと、次の土曜日に面会することになった。弁護士事務所で、もちろん弁護士同席で。私と口裏合わせされることを避けるため、慎司はその場にいないらしい。
私と会うなと奥さんにきつく言い渡されていたのだろう。その日まで私は相変わらず慎司から避けられていたし、家の中では家族みんなに白い目で見られて針のむしろだった。
奥さんとの面会日当日、どれだけ罵倒されても受け入れるしかないと覚悟を決めて私は自宅をあとにした。
弁護士事務所の事務員の女性に部屋に案内されて待っていると、初老の男の人と三十歳くらいの女の人があとから部屋に入ってきた。ソファーから立ち上がり深々と頭を下げる私。穴が開くほど執拗に私を見つめる女の人の視線を感じた。
男性は頭を上げるように言い、私に名刺を手渡した。やはり彼は弁護士。名前は山田廉太郎。ということは隣に立つ女性が麻生香菜さんなのだろう。女性が慎司の奥さんであると紹介し、僕は彼女の代理人ですと弁護士は淡々と説明した。私はもう一度深く頭を下げた。
二人と向かい合う形で座り、慎司との不倫を認めるかと問われ、認めますと答え、申し訳ありませんでしたと謝罪した。
「あっさり認めましたね」
「証拠の提示は必要なくなりましたが、十分な証拠があることを一応伝えておきます」
弁護士は資料をテーブルに広げた。興信所が作成した報告書らしい。私と慎司がホテルに入り、また出てくる場面を写した写真が十枚以上あった。私の服装の違う写真もあり、三日分の証拠写真だと分かった。誰かに尾行されていたなんてまったく気づかなかった。
私たちはいつも退勤後の夜間に、しかも彼の車でホテルに出入りしていたのに、運転席の彼と助手席の私の顔がこれ以上はないというほど鮮明に写し出されていて、さすがプロの仕事だなと妙なことに感心した。
「主人はこの証拠を突きつけるまでずっと白を切ってた。不倫を認めてからも言い訳ばかりでいまだにまともに謝ったこともない。もうあんな男、〈主人〉だなんて呼びたくもないけどね」
気の強そうな人だなと思った。慎司が私に手を出したのは、私が目の前の彼女と真逆の性格の女だったから、というのもあるかもしれない。
奥さんはずっとなめ回すように私を見ている。ただしにらみつけるというより観察しているという方が近い。
「聞いてた印象と違う。もっと図々しい女だと思ってた」
「彼…ご主人は私のことをどう言ってたんですか?」
「誘ってきたのはあいつで、関係が始まってからもおれはずっとこんな関係はもう終わらせないといけないって思ってたけど、あいつに脅されて終わらせることができなかったって」
おそらく奥さんの言った通りのことを彼も言ったのだろう。お腹の子どもを堕ろせと言ったくらいだから、そんな醜い言い逃れくらい平気で言いそうだ。彼に対する怒りはなく、ひたすら悲しかった。
いつか彼が言っていた通り、私は彼のどんな頼みも断らなかった。動画もいっぱい撮らせたし、通常ではない性行為も彼が望めば全部応じた。愚かな私はそれが愛だと信じて疑わなかった。
私はただの都合のいい女だったのだろう。だから都合が悪くなれば、すべてなかったことにされてあっさりと切り捨てられるしかない。
「私は麻生さんがバツイチだと言っていたのを信じてました。でも彼が既婚者だということを私が知ってても知らなくても、不倫したことで奥さんを傷つけたという事実は変わりないのでできる限りの償いはさせていただくつもりです。彼が本当に離婚していたかどうかしっかり確認しなかった私も悪いんです」
「ちょっと待って」
奥さんが慌てたように私の言葉を遮った。
「あなたは慎司が既婚者だって知らなかったってこと?」
「はい」
「困ったな。慰謝料吹っかけて五百万くらい請求してやろうって思ってたのに。先生、この人の言うことが本当だったとして慰謝料請求できますか?」
「交際相手が既婚者だと知らずに、結果的に不倫関係となっていたというのが事実なら、奥さんがこの女性に慰謝料を請求するのはまずいですね。逆に、この女性がご主人に慰謝料を請求することが可能なケースです」
いいことを聞いた。話のついでに聞いてみた。
「もし私が彼を訴えたとして、いくらくらい受け取れそうなんですか?」
「示談なら相場は五十万程度でしょうかね。裁判ならもう少し安くなるかもしれません」
「たったそれっぽっち受け取れたところで……。お腹の子どもの出産費用にもならないじゃないですか!」
慎司は奥さんに私が妊娠していることを教えてなかったようだ。張り詰めた糸がぷつんと切れたように泣き崩れた私を見て、奥さんと弁護士は目を丸くして顔を見合わせ、そして気の毒そうにただ眺めているだけだった。
奥さんは私への慰謝料請求をあきらめた。一方、慎二に対しては弁護士を通して離婚に同意するよう求め、また高額な慰謝料と養育費の支払いも強硬に主張した。拒否するなら、既婚者であることを隠して新入社員の女性を不倫関係に引きずり込んだ末に妊娠までさせてしまったことを会社に通告すると慎司に迫った。一方、慎司の方はなんとかやり直せないかと奥さんに対して未練たらたらだったという。
交際中は我慢できたのに、捨てられてから慎司としたセックスがふとした瞬間にフラッシュバックするようになった。恥ずかしいことをさせたり言わせたり、そしてそれを撮影したり、慎司は私に羞恥心をいだかせ、人としての尊厳を徐々に削り取っていくような行為を好んだ。おかげでもともと自己肯定感が低かったのに、私が生きていくためには慎司の言う通りにするしかないんだと思い込むような卑屈な人間に、私はなってしまった。
慎司のついたたくさんの嘘が明らかになった今も、波が寄せたり引いたりするように私の心も慎司を求めたり拒絶したりを繰り返した。不実な男ではあるのだろうが、妊娠中の孤独と不安が正常な判断力を奪い、あんな男でもいないよりは全然マシだと思うようになった。
慎司が戻ってくればきっとやり直せる、という考えに次第に傾いていった。とはいえ、あの勝ち気で賢そうな奥さんと正面からぶつかるのも怖かった。私はただただ祈るだけの落ち着かない日々を過ごした。
そのあいだもお腹の赤ちゃんは育ち続ける。慎司は何も言ってこない。もう限界だよと涙がこぼれてまもなく、職場で慎司に声をかけられた。
あとになって思えば、職場で人目もある中で私に声をかけずにいられないほど慎司も追い込まれていたのだ。でもそのときの私は慎司のそんな事情まで想像する余裕はなかった。
奥さんは慎司と私の不倫を知って、離婚に心が傾きながらも、当時三歳だった娘さんのことも考えて、再構築の可能性も残していた。でも私の妊娠を知って慎司を生理的に受け入れられなくなり、離婚一択に軌道修正した。慎司は必死に奥さんの心を繋ぎ止めようと話し合いを続けていたが、奥さんが娘を連れて実家に帰ってしまい、再構築をあきらめざるをえなくなった。
そこでまた私に声をかけてきたというわけ。彼にとってあくまで私は二番目の女でしかなかった。でもそのとき私は数週間ぶりに彼の方から話しかけてきてくれたと思うだけで、目頭が熱くなった。
昼休み、慎司に連れられて会社の近所の公園に来た。光留と毎日お弁当交換していた公園。失踪以来彼の消息は聞いていない。どこかで元気にやっているだろうか。
慎司は私をベンチに座らせ、隣に自分も座った。
「お腹の赤ちゃんは順調?」
「今のところはそうですね」
「今まで嘘をついたり、ひどいことを言ってすまなかった」
いきなり謝ってくると思わなかったから、意表を突かれて私は戸惑った。
「七海との愛が真実の愛だったと今ようやく気がついた。七海、結婚しよう。うちに来ればおふくろもいるから、出産も子育ても安心だ」
「でも奥さんと娘さんは?」
「実家に帰らせた。おれが七海を選ぶと言ったら、潔く身を引いてくれたよ」
すでに新たな嘘をいくつもつかれたが、慎司からの突然のプロポーズに心が舞い上がった私にそれを見抜く余裕はない。
「仕事も辞めて家事と子育てに専念してくれてかまわない。ただ――」
「ただ?」
「香菜のやつに慰謝料請求されてる。それさえクリアできれば七海との結婚に障害はなくなるんだけどな」
「いくら請求されてるんですか?」
「五百万」
慎司が大げさにため息をつく。私がなんとかします、と私はあてもないのに胸を張ってみせた。
五百万があれば慎司と結婚できて、お腹の赤ちゃんも幸せになれる。そのときの私の頭にはそのことしか頭になかった。本当にどうかしていた。
私は帰宅して早々、両親に話を切り出した。そばに姉もいるのが不安材料。姉は内容証明が届いて以来ずっと私を汚物扱いし続けている。
「実は彼の奥さんに慰謝料請求されてます」
彼の慰謝料を肩代わりすると言っても反対されるに決まってるから嘘をついた。
「いくら?」
「五百万」
「分かった。おれが出してやる」
「ほんと!?」
「手切れ金としてな。今月中にこの家を出ていけ」
母がびっくりして口を挟む。
「お父さん、気持ちは分かるけど、ちょっと待って。この子、この家を追い出されたら行くとこきっとないですよ」
「それは大丈夫。彼が結婚してくれるって」
「まさか略奪婚? 今までいた奥さんと子どもを追い出すってこと?」
姉が血相変えて食ってかかってきた。
「自分さえよければそれでいいの? あんた、ロクな死に方しないよ。というか地獄に落ちろ!」
父と母も心底あきれたような顔をしている。
「おれの稼ぎが悪くて大学にも行かせてやれなくて済まないと思っていた。金がないおれたちなりに精一杯子育てしてきたつもりだったが、完全に育て方を間違ってしまったようだ」
「ずっと借家住まいだったけど、持ち家を持つのが私たちの夢だった。あなたに手切れ金として渡す五百万円は家を買うときの頭金として準備していたお金。もうあなたと会うことはないと思うけど、あなたのその汚れた結婚は私たちの夢と引き換えに手に入れたものだということを死ぬまで覚えておきなさい」
散々な言われようだけど、五百万が手に入る見通しがついて私は内心してやったりの心境だった。どうしようもないくらい脳内がお花畑の私だった。
約束通り月末までに私は家を出て五百万円を手に身一つで慎司の家に転がり込んだ。すでに社内で不倫略奪婚について噂されるようにもなっており、無理を言って三月末日付けで会社も退職した。入籍も転居と同時に済ませ、私は麻生七海になった。結婚式は行わない。やったところで前の奥さんと離婚して不倫相手と再婚したという事情では彼の親族は誰も出席しないだろうし、私の方も両親から勘当された身だからなおさらだ。
私から受け取った五百万で香菜さんへの慰謝料を支払ったことを彼は家族に話さなかった。私はそれでもよかったが、いつかそのお金を親に返して勘当を解いてもらいたいと思ってると話したら、彼は借用書を書いてくれた。でも結婚して十五年、彼は一円も私に返していない。
結婚生活が始まった当初は、彼も義父母も優しかった。義母と香菜さんの仲がよくなかったらしく、特に義母はおとなしい私を気に入ってくれたようだ。よく愚痴もこぼされた。
「前の嫁は気が強くて嫌な思いばかりしたよ」
「何かされたんですか」
「私の服を全部庭で燃やされたりしたよ」
「それはひどいですね」
「母親の形見の着物を捨てられた仕返しだって叫んでた。あんな薄汚れた安物の着物でも場所だけは無駄に取ってたからね。片づけできないだらしない嫁の代わりに処分してあげたのに、逆恨みもいいところよね」
思えば、これを聞いたとき私はもっと危機感を持つべきだった。あんな気が強い香菜さん相手でも嫁いびりしようとしていた姑が、おとなしい私に何もしないわけがないのだから。
結婚した当初、ほんの半月程度の短い期間にすぎなかったけど、慎司や義父母が私に対して少しは優しかったのは、離婚してこの家を出ていった香菜さんへの意趣返しという意味もあったようだ。つまり、新しい嫁とは幸せに暮らせていることを見せつけて、離婚してシングルマザーとして生きる道を選んだ香菜さんに後悔させたかった。彼らは慎司と香菜さんの離婚はすべて香菜さんに原因があると責任転嫁していた。
幸せな暮らしを見せつけようにも離婚後香菜さんがこの家に現れることは一度もなかったけど、私が慎司が結婚すると聞いて、香菜さんは一度会いたいと私にコンタクトを取ってきた。
私は罵倒されるのを覚悟して、離婚して旧姓の菊池に戻った香菜さんが三歳の娘さんと暮らし始めたばかりのアパートを訪ねた。親子二人暮らしには相当余裕のありそうな2LDKのきれいな部屋。
香菜さんに促されリビングに入るなり、
「おかえりー!」
という明るい声が飛んできた。初めて見る娘さんの春ちゃんの声だった。
「春、〈おかえり〉はママが帰ってきた場合」
「じゃあ、〈ただいま〉?」
「それは自分が帰ってきた場合。お客さんが来てくれた場合は、〈いらっしゃい〉って言うの」
「いらっしゃい!」
そう言って私にニコニコ笑いかける。私が自分から父親を奪った女だと知らないで。私にはこの子に〈いらっしゃい〉なんて声をかけられる資格なんてないのに。香菜さんからはまだ何も責められていないのに、もう胸がずうんと苦しくなっていた。
香菜さんがリモコンを操作してテレビをつけると、画面にアンパンマンが映し出されて春ちゃんの歓声があがった。大人同士がきわどい話をしているあいだ、そっちに目を向けさせておとなしくしていてもらおう、ということだろう。
「なかなかいいアパートでしょう? 去年新築したばかりだって。家賃もそれなりにお高めだけど、慰謝料の五百万があったから奮発しちゃった」
その五百万は私が親から勘当されるのと引き換えに慎司に渡したお金だけど、慎司の名誉を傷つけることになるし、そのことには触れない方がいいだろう。
「しばらく実家にいようと思ったんだけどね、お母さんと死別したあとお父さんが別の人と再婚して暮らしてるから、居心地が悪くてすぐにここを見つけて引っ越してきたんだ」
「そうだったんですね。私のせいで香菜さんにも春ちゃんにも取り返しのつかないことをしてしまいました。本当に申し訳ありませんでした」
私はリビングの床に土下座したけど、香菜さんは私の手を取ってすぐに立たせてくれた。春ちゃんは事態が飲み込めずキョトンとしている。
「今日は謝ってほしくて呼んだんじゃないから」
小テーブルを挟んで香菜さん親子と向かい合って座る。
一杯の水も出てこないんだろうなと思っていたら、手作りの生ジュースが出てきてびっくりした。
「口に合うか分からないけど。うちの子はごくごく飲むよ」
「うん。春、ママのじゅーちゅ大好きっ」
春ちゃんといっしょにありがたくいただいてみたら、今まで飲んだ中で一番と言えるくらいフルーツの味が濃厚でおいしかった。
「ちょっと確認したいことと伝えたいことがあったんだ。今回の件であなたを責める気はもうないから、それは安心して」
「はい」
夫を奪われた香菜さんと奪った私。安心してと言われても、お互いの立場を考えれば、安心したところで爆弾を落としてくるとしか思えないんですけど……
「じゃあ、まず確認したいことから。あいつに払わせた慰謝料の五百万の件ね。おれはこれくらいの金なら余裕で用意できる、そんな金づるを失っておまえは馬鹿だって、あいつ強がってたけど、実は七海さんが出したお金なんじゃないの? というか、そうとしか思えない」
認めた方がいいのか、違うと嘘をついた方がいいのか。判断がつかなくて、私は沈黙した。
「沈黙が答えって言うわけね。無理に答えなくていいよ。どうせ〈五百万あればおまえと結婚できるのに〉なんて言われたんでしょ? あいつの考えそうなことだよね」
すべてお見通し。さすが慎司の元奥さん。なんて言われても全然うれしくないだろうけど。
「五百万払えないなら社内不倫の件を会社に通報することになってたから、それができなくなってちょっと残念だった。それが確認したかったこと。次にあなたに伝えたいことの方」
どんな罵詈雑言を浴びせられるんだろうと身構えた。
「私、今本当に後悔してるんだよね」
「すいません!」
「だから、七海さんを責めてるんじゃないって。もっと早くあの地獄から抜け出せばよかったって後悔してるの」
「地獄……?」
「死ななくても地獄を見れるんだなって、あの家で暮らして初めて知ったよ。だから今は七海さんに感謝してるんだ。あの地獄から脱出するチャンスを与えてくれて本当にありがとう」
冗談で言ってるわけではなさそうだ。香菜さんにとって地獄だった場所が私にとっては天国になるということはありえるのだろうか?
「七海さんがあいつと結婚するのはあいつを愛してるから? それともあいつの子どもを妊娠したから仕方なく?」
「今回の件で両親から勘当されて家からも追い出されました。私はもう彼を頼るしかないんです」
「それって、街金で借りたお金が返せなくて闇金に手を出すのとおんなじなんじゃないの?」
なんて分かりやすい比喩なのだろう? なんて感心してる場合ではない。
「心配していただいてありがとうございます」
「まあ、略奪された方が略奪した方を心配するなんて、おかしな話ではあるんだけどさ」
香菜さんはそう言いながら、小さめの箱を取り出して私に手渡した。箱にかかれた商品名と商品のイラストを見て驚かされた。その商品に対して私がイメージしていたほどには、箱は重くない。
「今は何を言っても気持ちが変わらないみたいだから、話はこの辺にしとくよ。それは私からのプレゼント。電池の寿命だけ気をつけてお守りだと思っていつも肌身離さず持ち歩きなさい」
有無を言わせぬ迫力あるもの言いに、おとなしくそれを受け取ることしかできなかった。
徐々に膨らんでいくお腹を抱え、三月末で会社も辞め、それまで住んでいた家からも追い出され、麻生家での新婚生活が始まった。
それまで私は彼を〈麻生さん〉と呼んでいたけど、同居してからは〈慎司さん〉に変えた。彼は相変わらず〈七海〉か〈おまえ〉。だんだん〈おまえ〉の方が多くなってきたように感じるのは考えすぎだろうか。
私は少し前まで香菜さんが使っていた食器で食事をし、香菜さんが使っていた家具やソファーをそのまま使い、香菜さんが慎司に抱かれていたベッドで私も慎司に抱かれ、そして眠った。
着るものと化粧品だけは、香菜さんが自分のものを持っていってしまったから、私のものを買うことを許された。
専業主婦だからいらないだろうと言われて、携帯電話も解約させられた。買い物以外で外に出ることもないのだからと、家の鍵も渡してもらえなかった。
それを言えば姑も働いていないのに、彼女は家の鍵はもちろん携帯電話も持っていた。
慎司の給料は慎司と姑の管理。私は毎月十万円を渡されて、それで家族四人の衣食をすべてまかなえと命じられた。舅も仕事していたが、舅の収入はすべて貯金に回され、一切生活費を入れてくれなかった。
食費を浮かせるため、食材を安くしたり、おかずの品数を減らせば、主婦失格だと家族全員に罵倒された。
でも、その程度の困難はその後経験することになる地獄と比べれば、まだ全然序の口だった。