テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#禪院甚爾
欲 。
89
さーもん
48
641
とーにゃん
94
あの夜の約束から、数年の月日が流れた。甚爾は本当に、何もかもを捨てて禪院家を去っていった。
「甚爾くん、どこに行ったんや……」
大人になった直哉は、相変わらずあの薄暗い裏庭の縁側に佇んでいた。今の直哉は、禪院家の次期当主として周囲から畏怖される存在だ。しかし、どれだけ実力をつけ、どれだけ傲慢に振る舞おうとも、胸の奥にある喪失感だけは埋まらない。ザザッ、と風が草木を揺らす。直哉はハッとして影を見つめたが、そこからあの巨躯が現れることは二度となかった。
「……ハッ、期待してまうやんか。アホらしい」
自嘲気味に呟き、直哉は懐から一本の煙草を取り出した。吸い方すら分からない癖に、あの人が残した残り香を求めて、いつからか持ち歩くようになっていた。火をつけ、煙を吸い込むと、酷く咽せて涙が溢れそうになる。
「不味い……。ほんま、不味いわ、甚爾くん」
あの夜、甚爾は「ここは煙草が不味い」と言った。その意味が、今なら痛いほどよく分かる。この家は、人の心を蝕む呪いと澱みで満ちている。ふと、直哉は自分の頭に手を当てた。最後にポンと乗せられた、あの大きな手の温もり。現世ではもう二度と触れられない、遠い記憶。
「『来世でな』って、言うてくれたやんか……」
直哉は夜空に浮かぶ満月を仰いだ。甚爾にとって、あの約束はただの気まぐれな嘘だったのかもしれない。自分を慰めるための、残酷な優しさだったのかもしれない。それでも、直哉にとっては、この地獄のような禪院家で息をするための唯一の酸素だった。
「嘘でも構へん。俺は、ずっと待っとるからな」
どんなに時間がかかっても、どれだけ深い闇に落ちても、あの約束だけは手放さない。直哉は不味い煙草を庭に投げ捨て、再び冷酷な「禪院直哉」の仮面を被る。いつか訪れるはずの、呪いのない世界での再会を信じて、彼は孤独な現世を歩み続けるのだった。
コメント
1件
うわあ……直哉の痛みがひしひしと伝わってくるエピソードでした。煙草の吸い方も知らないのに、あの人の残り香を求めて持ち歩いてしまうところ、胸がぎゅっとなりました。「ここは煙草が不味い」って言った甚爾の言葉の意味を、今になって実感してしまうのも切ない。『来世でな』って約束、ただの気休めじゃなくて本当に叶ってほしい……直哉の一途な想いが、不味い煙草と満月の夜に溶けてしまいそうで、読み終わったあとしばらく余韻が抜けませんでした。