テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
元帝国陸軍大将、対魔特務部隊・初代隊長、班目勲。
鷹臣の師であり、特務部隊を創設し、数多のあやかしを退けてきた軍神。
その班目が、なぜ千歳の命に値段を付けたのか。
「……間違いないのか?」
「本人かどうかはわかりかねます。ただ、名前がそうであるとしか」
班目という姓は珍しい。
さらに名前まで一緒だというのは、偶然にしては出来すぎている。
その事実が、鷹臣の胸をどす黒い殺意で満たしていく。
班目大将、貴方は何をしようとしていたのか――。
鷹臣は答えの出ない問いを自問する。
執務室の窓の外は、穏やかな日差しが雪を溶かしていく。
だが、かつて班目勲が守り抜いたこの街の平穏が、今はひどく空虚なものに思えた。
「班目はあやかしとの戦いで、俺を庇って亡くなった」
「はい」
「故人が支払いを続けることは不可能だ」
「……それこそが、一番の謎なのです」
森部の眼鏡が、逆光を受けて白く光る。
「班目大将の戦死は公的な事実。ですが、斎宮家への振り込み手続きは数日前、正確には18歳の誕生日を迎えられた日に行われていました」
「……亡霊が、金を払うというのか」
鷹臣の喉の奥から、乾いた笑いが漏れる。
「それとも地獄の底からでも、俺を監視しているという宣言か」
鷹臣は報告書を机に放り投げると、自分の手の甲に浮かび上がる鬼の紋章を見つめながら、切なそうに吐き捨てた。
◇
神楽坂邸のリビングに残った千歳は、ゆっくりとティーポットを傾けた。
「あら?」
白磁の注ぎ口から流れ出したのは、先ほどまで目にしていた透き通るような琥珀色ではなく、光を一切通さない濁った深褐色の液体だった。
千歳はティーポットの傾きを戻し、不思議そうにカップを見つめる。
「奥様、少々よろしいでしょうか?」
千歳の危うい手つきをハラハラしながらも見守っていた女中が、静かに進み出てティーポットの蓋を開ける。
立ち上る香りは芳醇さを通り越し、喉を刺すような強い渋みを帯びていた。
「どうやら茶葉を入れすぎてしまったようです」
「このスプーンに……」
「はい。先ほど鷹臣様が淹れられた紅茶はお二人分でしたので」
女中の言葉に、千歳は「あ……」と小さく声を漏らした。
そうだ。見本で見せてくれたのは二人分。
そして今は一人分のお湯しか入れていない。
教わった手順をなぞることに必死で、肝心な『分量』が抜け落ちていたのだ。
鷹臣様がいらっしゃらなければ、私はお茶の一杯も満足に淹れられないなんて……。
「ごめんなさい」
おいしい茶葉を無駄にしてしまったと千歳が謝罪すると、女中は頭を下げる。
「鷹臣様より、まずはおひとりで淹れさせてほしいと言われたため、わざと黙っておりました。お許しください」
失敗だと知りながら見て見ぬふりをしたと逆に謝罪された千歳は、慌てて首を振った。
失敗を経験させて学ばせようという鷹臣の意図を汲み取った千歳は、思う壺のようで悔しくなる。
もし鷹臣が隣にいたなら、「失敗もまた一興だろう?」と不敵な笑みを浮かべていたに違いない。
「お下げいたします」
「いえ、このままいただきます。もったいないので」
目の前にある煮詰まったような色の紅茶の香りは強烈で、いかにも渋みが強そうだ。
千歳は少しだけ背筋を伸ばし、覚悟を決めて白磁のカップを手に取った。
「……っ」
一口含んだ瞬間、舌を刺すような鮮烈な苦みが口いっぱいに広がり、千歳は思わず眉の間にぎゅっと力を込めた。
「……苦い、ですね」
「温かいミルクをお持ちします。これほど濃く淹れられたのであれば、美味しいミルクティーになります」
涙目で告げた千歳を見た女中は、お待ちくださいと姿を消す。
「……みるくてぃ、ってなにかしら?」
ミルクとは確か牛の乳のことだ。
義妹の百合子が、高価な瓶入りの乳を指差しながら「これこそ文明開化の味よ」と自慢げに語っていたのを思い出す。
「もしかしてお茶に、牛の乳を入れてしまうの?」
千歳の不安は的中し、女中は持ってきたミルクを紅茶に入れるように勧める。
「本当に、ここへ入れてもよろしいのですか?」
「はい」
真っ白なミルクが深褐色の水面に触れた瞬間、紅茶は薄茶色に姿を変える。
「温かいうちにどうぞ」
女中に促された千歳はおそるおそるカップに唇を寄せた。
先ほどまでの刺すような鋭い香りは影を潜め、まろやかで甘い香りが鼻をくすぐる。
「おいしい」
あんなに苦かったのが、嘘のようだ。
渋みはどこへ行ったのかと聞きたくなるほど、舌の上でとろけるような優しい味に。
「鷹臣様は奥様がこうして新しい味を見つけるのを楽しみになさっていたのかもしれませんね」
千歳はふと、この部屋を出ていく鷹臣の悪戯っぽい瞳を思い出した。
失敗することも、そこから工夫することも、すべてお見通しだったのかもしれない。
千歳は幸せを噛みしめるように、二口目のミルクティーをゆっくりと喉に流し込んだ。
「奥様。他になにか、やってみたいことはございませんか?」
「……私、何をしたらよいのかわからなくて」
斎宮邸の物置で過ごした歳月には、彩りなどなかった。
成すべきことも、何かを創造するための道具さえも。
義妹の百合子は女学院へ通い、優雅に琴を弾き、異国の言葉を操り、艶やかな絹糸で刺繍に励んでいたけれど……。
「あっ。……私、刺繍と……それから、文字を習ってみたいです」
千歳は、膝の上で握りしめた自分の手をそっと見つめた。
百合子が華やかな絹糸でハンカチに刺繍をし、恋文を添えて殿方に贈りたいとはしゃいでいたのを遠い場所から眺めていたことがある。
「文字、でございますか?」
「はい。……お手紙を書けるようになりたくて。いつか鷹臣様にお礼を伝えられるようになりたいです」
帝都を統べる公爵家の奥方ともなれば、読み書きができぬなど、本来あってはならないこと。
一文字も読むことのできない「無能」な自分に、あの方は呆れてしまうだろうか。
せめて、お名前だけでも。
あの方の尊いお名前を、私の手で綴ることができたなら……。
「刺繍も……いつか綺麗にできるようになったら、鷹臣様に」
千歳は耳たぶまで林檎のように赤らめ、消え入りそうな声で付け加えた。
「承知いたしました。早速、最高級の絹糸を準備いたします。文字は人気講師を」
「い、いえ。そんな」
千歳は思わず腰を浮かせて否定する。
女中たちに手ほどきをしてもらえたらと思い、気軽な気持ちで口にしたことだったが、このままではとんでもない騒ぎになりそうだ。
「できれば、みなさまに教わりたいです。あっ、でも仕事を増やしてしまうなら……」
「私どもでよろしいのですか?」
想定外だったのか、女中は目を丸くした。
「はい。私に教えていただけないでしょうか?」
「仕事が増えるなんてとんでもない。むしろ、私どもにとっては光栄の至りに存じます」
「よかった」
千歳がホッと胸を撫でおろすと、女中は優しく微笑んでくれた。
「手近な布の切れ端と今ある針と糸でよろしければ、今日から刺繡を始められますが」
「ぜひお願いします」
千歳は弾むような声で答える。
「あと、もうひとつ。できればで良いのですが……」
「……奥様は、本当に……」
女中は込み上げる感動を堪えるように「もちろんです」と深く頭を下げた。
これまでの人生で、何かを「学びたい」と望み、それが許されたことなど一度もなかった。
学ぶということがこんなに楽しいことだったなんて。
女中が手早く整えてくれた道具を前に、千歳は真っ直ぐに針を通す練習から始める。
「難しいのですね」
一針ずつ丁寧に刺しているはずなのに、不器用なのか真っ直ぐにならない。
「初めてでこれほど糸目が揃っていれば、上出来でございます」
すぐ上達なさいますと励まされた千歳は、恥じらいながら針を刺していく。
夢中で針を動かしていた千歳の背後に、音もなく長い影が落ちた。
「随分と熱心だな」
「……鷹臣様!?」
驚いた千歳が弾かれたように振り返ると、そこには凛々しい軍服を纏った鷹臣が立っていた。
「お、お帰りなさいませ」
どうしよう。
お出迎えもせず、作業に夢中になってしまった。
千歳は立ち上がり、深々と頭を下げる。
「あの、これは」
何かを望むことは贅沢であり、許しなく動くことは罪だ。
斎宮邸ではそう叩きこまれたのに、神楽坂邸のみなさんが優しくてつい甘えてしまっていた。
千歳は頭を下げたまま、必死で言い訳を考えた。
「申し訳ありません、鷹臣様。お許しも得ずに、勝手な真似を」
千歳はお辞儀したまま指をぎゅっと組み、震える声で謝罪する。
「何をそんなに怯えている?」
頭上から降ってきたのは怒鳴り声ではなく、どこか呆れたような声だった。
軍服の衣擦れの音とともに、鷹臣が千歳の目の前に屈み込む。
磨き上げられた軍靴が視界に入った千歳は、さらに身を縮め小さくなった。
だが、いつまで経っても振り下ろされるはずの「痛み」はやってこない。
「顔を上げろ、千歳」
「すぐに片付けます。女中さんは悪くないんです。私がどうしてもと我が儘を申しました」
千歳は縋るような思いで顔を上げ、必死に弁解の言葉を紡ぐ。
だが、千歳の言葉を遮るように、鷹臣の大きな手は千歳の頭にぽんと置かれた。
「……え?」
予測もしなかった温もりに、千歳は驚きで目を丸くする。
「おまえがこの家で『何かをしたい』と、己の意志で望んだことが嬉しい」
「……学ばせていただいても良いのですか?」
「止める理由がどこにある?」
好きなだけやればいいと笑う鷹臣に、千歳は目を輝かせた。
「ありがとうございます。鷹臣様」
「だが、没頭しすぎて俺を後回しにするのは許さん」
鷹臣の手が千歳の頬に触れ、熱を帯びた鷹臣の瞳が千歳の全身を絡め取る。
それは命令ではなく、まるで剥き出しの愛の徴のようだった。
おかしいわ。この方が欲しているのは紋章だけのはずなのに。
耳元で囁かれる独占的な響きも、肌を焼くような執着に満ちた視線も、すべて自分自身に向けられているのではないかと勘違いしてしまいそうになる。
そうであってほしいと、私が願ってしまっているのかしら……?
自分の内に芽生えた恐ろしい願望に、千歳は胸の奥をギュッと締め付けられた。
#ミステリー
鬼霧宗作
452
aohana
1,436
#異世界ファンタジー
コメント
1件
第10話、じっくり読ませていただきました…🌙 班目勲の名前が出てきて、一気に話の重みが増しましたね。鷹臣の胸に渦巻く殺意と、それでも平穏を守ろうとしてきた過去のギャップが切ないです。 後半の千歳の紅茶シーン、すごく好きでした。失敗からミルクティーという新しい味に出会う温かさと、刺繍や文字を「学びたい」と自分の意志で口にした千歳の成長が、まぶしいくらいに美しくて。 「おまえがこの家で『何かをしたい』と、己の意志で望んだことが嬉しい」っていう鷹臣の台詞、胸に刺さりました。和泉さんの筆致、本当に繊細で大好きです🥀