彼を笑わせたい。そう思ったのはもう1年も前になる。隣に越してきた男に興味を持ったのは、彼がいつまでも無表情でいるからだろう。できることは何でも試した。ゲテモノと化した料理をおすそ分けと称して持っていったり、窓から侵入したり、はたまたドアを蹴破ったこともある。せめて苦笑してくれれば良いものの、なぜか顰め面しかされない。そうしているうちに、気付けば彼の笑った顔を見てみたいと思った。これは恋なんかじゃない。好意なんかじゃない。ただの興味だ。
バスを待っているその時間に、今度はどんな手を使って彼を笑わせようかと考える。誰も思いつかないような面白いことは無いだろうか。
バスは数分遅れているらしい。時刻表に示された数字はもうすぎている。暑いからか、遠くの地面が揺らいで見える。これが蜃気楼というものか。その光景と俺の前で手のひらサイズの扇風機に髪を揺らす女性が重なった。ゆらゆら、ゆらゆら。まるで海に揺蕩う海洋生物のようだと思ってから、可笑しくなる。
バス停に並ぶ海洋生物たち。彼ら専用のバス停は錆び付いていて、海水に長く浸っていることが窺える。彼らは一つの国を持っていて、いつか人の国と関わることを夢見ている。しかしそれには海から出なければならないし、彼らの真似をしなければならない。そこで彼らは笑みを浮かべるということを覚えて──
「あ、いいかも」
笑わない彼を少しはクスッとさせることができるかもしれない。行動してもダメなら面白い話をすればいい。俺が話しても面白くなるかはわからないけれど。
やってきたバスに乗り込んで、彼にメッセージを送る。
『面白い話があるんだけど聞かない?』
冷えたバス内の空気はさながら海の水ようで、これじゃあ俺らが海洋生物みたいだなぁ、とふと思った。
コポリ、と音を立てて、泡が浮かんでいく。海の底で、もう名もない村にあったバス停の標識が静かに光に照らされていた。ゆらゆら、ゆらゆら。波に合わせて揺れるその光は、標識に並ぶ生き物をも照らしていく。
「わからないよね、どうしてこんなもの棄てるんだろう」
「いらなくなったからじゃない?」
「錆びちゃって可哀想に」
「ボクたちが使うから可哀想じゃないよ」
「今はもう、皆私たちのこと忘れちゃったのかな」
「そんなことないと思うけどなぁ」
「人は前に進むものだもん。しょうがないよ」
「アタシらは過去のモノだもんね」
人の知らない海の底。人に忘れられたバス停(もの)には魂(ヒト)が並び、ソレらを乗せた誰にも知られぬバスは、ただ静かに走り出す。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!