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娘たちとカフェでパンケーキを食べた日から十日が過ぎた。わが家は表面上は今まで通りのように見えた。秋山家の方もまだ動きはないようだ。私からは何も指示していない。私に反抗的だった娘たちも秋山菫には従順なので、すべて彼女に任せている。

今日の晩、夫の提案で外で夫婦二人きりで食事することになっている。でも私は知っている。夫はその場に一人の部下を連れてくることを。そして、その部下は実は部下ではなく夫に雇われた別れさせ屋であることを。

別れさせ屋とは依頼者の配偶者と関係を持ち、依頼者の有利に離婚できるように計らう人のこと。男性の別れさせ屋には元ホストが多く、素人女性を口説き落とすことなんて彼らの手にかかれば赤子の手をひねることよりも簡単なことだ――

と夫が秋山桔梗にSNSで得意げに語っていた。そのことはすでに秋山菫にも伝えてある。攻撃させてから反撃するのか? それとも先制攻撃するのか? 司令塔の彼女からまだ返事はない。

「菫」

「何、お父さん?」

「二学期の中間テストの結果がそろそろ出る頃じゃないか?」

「ごめん。渡すの忘れてた」

菫が慌ててスクールバッグをあさり、テスト結果の一覧表を夫に手渡した。学校に関する大事なものは母親でなく必ず父親に渡す。それがわが家の流儀。

「おっ!?」

夫が驚きの声を上げた。

「どの科目もほぼ満点じゃないか!」

「いけないの?」

「いけないわけがない。今までは手を抜いていたのか? この成績をキープできれば、どんな高校でも行けるぞ!」

「行きたい学校はあるけど学費が高くて……」

「学費? そんな心配しなくていい!」

朝だからダイニングには私の両親もいた。夫がハッとしたように、二人のもとに駆け寄っていく。

「お義父さん、お義母さん、見てください」

「これはたまげたな」

「幸季さんの教育の成果ね!」

夫が私の両親にもテスト結果を見せて、喜びを分かち合っている。いつだって私は最後。最後ならまだいい。見せられずに終わることも多い。

それがふだんの私の扱い。夫が妻と(または妻が夫と)仲良くしないように子どもを誘導する行動を片親疎外というが、夫が娘たちにしていることはまさにそれだ。


外で二人でお酒を飲もうと夫が私を誘ってくれたことは結婚してから一度もない。釣った魚に餌はやらないタイプなのかと寂しい思いをしてきたが、そもそも愛していない私と飲んでもお酒はおいしくないだろう。誘われないのも当然だった。

誘われたのは結婚十五年目で初めて。そしておそらくこれが最後。ホテル最上階のバー。街の夜景がきれい。

「これを見せたかったんだ」

「素敵! 宝石箱みたいね」

「君らしい詩的な表現だね」

歯の浮くような褒め言葉。夫の企みを知る前の私なら、うれしくなって言われるままにお酒を飲んで酔いつぶされていただろう。そして後から現れる男にホテルの部屋に連れ込まれて、不倫有責者の烙印を押されすべてを失うことになったに違いない。

イケメンの夫に素晴らしい夜景においしいカクテル。女を酔わせる要素が勢揃いしている。夫が作らせたカクテルはどれもおいしいが、アルコール度数も高そうなものばかり。夫は知らなかったようだが、私は父に似てお酒に強い。自分のペースで飲めている限り酔いつぶれることはない。

でも酔ったふりをする。敵を倒すには敵に油断させるに限る。

「幸季さん、なんだか眠くなってきました……」

「気分よく飲めているようで何よりだよ」

気分がいいわけがない。罠だと分かっていても夫の誘いに乗ったのは、私を世間知らずのお嬢様だと油断させ続けるため。ただ、罠だと分かっていても、一人でこのピンチをどうしのげばいいのかは分からない。娘たちは家で留守番。これから自称夫の部下が登場すると、二対一で数的不利の状態に陥る。

そのとき、夫のスマホの着信音が鳴った。ちなみに着信音は秋山桔梗と同じ。二人が交際していた当時のヒットソングだということだ。

通話中の夫の表情が見るからに深刻そうだった。

「とんでもないことになったな」

「分かった。今すぐ僕が謝りに行った方がよさそうだね」

「気にするな。この商談がまとまらなければ一億の売上が飛ぶから当然だ」

夫が通話を終えて、申し訳なさそうに私に語りかける。

「蛍さん、済まない。どうしても外せない急用ができて、これから部下が迎えに来て社に戻らなくてはいけなくなった。君なら別の部下に家まで送らせるから心配いらない。また後日改めてゆっくり飲むとしよう」

「…………」

「ごめん。聞き取れなかった。今何て言ったの?」

後日なんてないと言ったのだ。私が自称部下についていっても、いかなくても、私とあなたの関係は今日で終わりだ。

平日の夜なのにバーに客は多かった。たいていカップル。ラフな格好をした者が多い。階下の部屋の宿泊客だろう。

中には出張だと家族を騙して泊まりに来ている不倫カップルもいるに違いない。彼らにとって夜景とお酒を楽しめるこの時間は、ある意味前戯の時間の一部なのかもしれない。もっとも私は挿れて出すだけの機械的な行為しか知らないから、前戯なんてされたことはありませんけどね。

いや、よく見ると一人だけでお酒を飲んでいる男性が私たちの近くにいる。その人はもしかして――

違うかもしれないが、その人を見て私の決意は断固としたものになった。

本当は長期戦にはしたくない。春岡鉄雄のように電撃戦で一気にケリをつけたい。でもそれは無理のようだ。

敵は平気で妻の私を別れさせ屋の毒牙にかけようとする男だ。そんな男と同居しながら戦うのは危険すぎる。向こうの思い通りになるようで癪だけど、一旦私だけ別居に踏み切るしかないだろう。

夫が別れさせ屋を使って私を罠にかけようとした証拠をつかんで父に示せればいいが、その方法が思いつかない。

今、私がすべきことは別れさせ屋を振り切って、タクシーを捕まえて自宅に戻ること。そして、夫が会社から帰ってくる前に必要最小限の荷物を持って家を出て、急いでどこかに仮住まいを確保すること。

そこから長く孤独な戦いが始まるわけだが、これは私が私の人生をやり直すために絶対に乗り越えなければならない試練だ。

誰かの助けがなければ離婚すらできないようでは、有利に離婚できたところで私の明日は明るくないだろう。私は自分の手で夫との偽りの結婚生活を終わりにしなければならない!

もちろん夫は私の決意なんて知らない。何やら冗舌に話しかけてくるが、興味ないからまったく頭に入らない。どうせせっかくの夫婦の外出を台無しにされたことで腹を立てている振りをしているのだろう。台無しにしている張本人のくせに――


そこへスーツ姿の男が二人現れた。片方は若く背も高いイケメン。もう片方は小太りの中年で、言っちゃ悪いけどはっきり言ってブサメン。

「部長、遅くなりました」

「大丈夫だ。さっそく社に戻ろう」

想像通り、夫はブサメンとともに会社に向かうようだ。ということで、私を自宅に送ってくれるのは甘いマスクのイケメンの方。イケメンといっても並みのイケメンじゃない。若い頃の夫にも負けないくらい。俳優と自己紹介されても信じてしまいそうだ。

「奥さま、ご主人との楽しい時間をお邪魔して申し訳ありません。私が責任持って奥さまをご自宅までお連れいたしますので」

イケメンは声も甘い感じでよかったが、責任持って地獄までお連れいたしますと聞こえて背筋がゾッとした。

そのとき、近くのテーブルで一人で飲んでいた男性が立ち上がったかと思うと、深々と頭を下げた。誰かと待ち合わせをしていたらしい。あとから現れたのは二人の男性。

彼ら一行は会社に戻ろうとする夫たちの前に立ち塞がった。


「お義父さん!」

夫の動転した声に顔を上げると、確かに夫の前に立つのはスーツ姿の父だった。家では見せたことないような険しい表情をしている。夫はよほど狼狽しているのか、外で父に会ったときは社長と呼ぶべきなのにそんなこともすっぽり頭から抜けている。

さっきまで一人で飲んでいた男性が父の隣に立っている。父の秘書だったようだ。私はてっきり春岡鉄雄だと思い込んでいた。夫に今夜の外飲みを誘われてすぐ私は鉄雄にお店を教えて、力を貸してほしいとお願いした。

〈今まで人妻キラーさんにはさんざん力になってもらいました。役に立てるか自信ありませんが、必ず駆けつけます〉

鉄雄は快諾してくれた。私は百万の味方を得たように喜んだが、ぬか喜びだったようだ。顔も知らない、ネットでつながっただけの男の言葉を信じた私が愚かだったのだろう。

「ここではほかの客の迷惑になる。場所を変えよう」

「どちらへ?」

「ホテル内の会議室を借りてある」

ずいぶん手回しがいい。父に誰か協力者がいるのは間違いない。

「蛍も、それから君たちも来るんだ。君たちが本当にうちの社員なら重い処分は免れないがね」

二人の別れさせ屋はそれぞれ別の秘書に腕をがっちりとつかまれ、戦意を喪失しておとなしく父の言葉に従った。

会計はすでに済ませてあるという。私たちは一階下にある会議室に無言で直行した。


広い会議室に着くと先客が待ち受けていて、私はさらに驚かされた。

「菫さん!」

「蛍、どうして自分の娘をさん付けで呼ぶんだ?」

「だって……」

先客とは菫と桔梗のこと。ただしそこにいた菫は私が産んだ菫ではなく、うちの菫の中学の制服を着ているが秋山菫だった。呼び捨てにできるわけがない。

それにしても父はうちの菫だと勘違いしているようだ。秋山菫が口を人差し指で塞ぎ、黙っていてというジェスチャーをしたので私も口をつぐんだ。カフェでみんなでパンケーキを食べたとき、私といっしょに暮らしたいと言った彼女にそれは可能だと答えた。うちの菫と入れ替わることができればという意味だったが、彼女は今それを実践しているわけだ。

社員ではなく夫が雇った別れさせ屋だと認めさせた上で、別れさせ屋の二人は解放した。

会議室に残されたのは、私たち夫婦と父と父の秘書の二人、そして子どもたち。計七人。

全員を座らせた上で、父が夫への尋問を開始した。

「幸季君、怪しげな連中を雇って私の娘を陥れようとしたようだが、どういうことか説明してもらおうか?」

夫は誤解だと弁明した。サプライズでイケメンに妻を口説かせ、あとでサプライズだと打ち明けて驚かすつもりだった、と。

父は夫と秋山桔梗のSNS上のやり取りをプリントアウトしたものを用意していた。

「下手な芝居はやめてもらおう。昔の女と共謀して蛍に不倫をさせて家から追い出そうとしたことは分かっている。蛍を追い出したあとは君が私の養子になった上でその女を後妻として家に迎えようとしていたこともね」

これ以上の弁明は無駄だと悟ったのか、夫は沈黙した。

「君たち夫婦だけの問題なら私は介入する気はなかった。私にも身に覚えがあるしね、会社のために多少の浮気なら目をつぶるつもりだったが、今回の件はあまりに度を越している。蚊に刺されるくらいなら我慢するが、最近の君はまるで宿主の内臓を食い漁る寄生虫のようだ」

父はどうやら夫を切り捨てることにしたらしい。でもそれは私のためではない。会社のためだ。多少の浮気なら目をつぶる? 夫の浮気を許すか許さないか決めるのは父ではない。妻である私だ!

夫はもちろん敵だが、明らかに父も味方ではない。今回、私の有利に離婚できたとしても、やはり家から出た方がよさそうだ。そもそも幸季との見合いは父に指示されたもの。父の言いなりになって、これ以上幸せを奪われるのはごめんだ!

「お義父さん、夫婦のことでもあるので、ちょっと蛍さんと話をさせてもらってもいいでしょうか?」

夫は賢明だ。父を説得するのが不可能だと見抜き、私を説得して味方につけて局面の打開を図ろうというのだろう。賢明だけど残念でした。少し前までの私なら夫の思い通りになったに違いない。でも夫を心から愛していたあの頃の私はもういない。あなたの目の前にいるのは、あなたの妻の仮面をかぶった鬼か悪魔でしかないのだ。

それにしても、不倫妻の言い訳テンプレ集というものがあるが、夫のセリフがそのテンプレ通りだったのには苦笑いするしかなかった。男女関係なく使われるテンプレなのか、夫が男らしくないからかは定かでないが。

ちなみに不倫妻言い訳テンプレにはそれぞれ秀逸な返しまで用意されている。いくつか例を挙げればこんな感じ。


「ごめん」→謝るなら最初からしなければいいのに。

「寂しかったから」→寂しいとほかの男に股を開くんだね。

「好きなのはあなただけ」→好きでもない男に股を(以下略)

「もう二度としないから」→今後するしないでなく今したことが問題なんだけど。

「別れるのだけはいや」→このまま夫婦でいるのだけはいやだ!

「一人にしないで」→大丈夫、君には間男がいるじゃないか(笑顔で)

「あなたと別れるくらいなら死ぬ」→じゃあどうして浮気したの?

「あなたは冷たかった」→君が自分に甘いだけだよ。

「遊びだった」→君は遊びで僕の心を殺せるんだね。

「あなたにも責任がある」→僕は不倫してないよ。

「どうかしてた」→あなたに惚れた僕がどうかしてた。


夫は最初から言い訳テンプレ全開だった。私も全部テンプレで返してもよかったけど、必死な夫の形相を見てそれなりに考えて返事してあげることにした。十五年愛した男への私からの最後の情けだ!

「蛍さん、心配かけてごめん」

「どうして謝るの?」

「昔の恋人と連絡を取ったこと。でも信じてほしい。僕は不倫してないし、僕が愛しているのは君だけなんだ」

「確かに結婚後は体の関係はなかったようね。でも幸季さん、あなたが愛しているのは私でなくて、その昔の恋人さんの方だったんじゃないの?」

「誤解だよ。分かってほしい。もう二度と彼女とは連絡を取らない。君と別れることになったら嫌だからね。君と別れるくらいなら死んだ方がマシだ」

「誤解なの? あなたが昔の恋人さんと私をさんざん笑い者にしていたのを知ってますけど。私と結婚したのは父に脅されて仕方なく。私を愛したことはないし、私からセックスを求められるのが苦痛で仕方なかったそうね。しかもセックスするときは私をオナホだと思い込んで、いやいやしていたそうね。私の方こそごめんなさい。あなたがそんなに私を嫌っていたことに全然気づかなくて。離婚して下さい。それがお互いのためだと思います」

「本気にしないでほしい。そう書けば彼女が喜ぶから、あれは心にもないことを書いただけさ。ちょっとした遊びだったけど、君を傷つけたならごめん。どうかしてた。離婚なんて言わないで。僕を一人にしないでほしい」

さすがに面倒になって、最後はテンプレで返してしまった。

「一人にしないでほしい? 大丈夫、あなたには秋山桔梗さんという相思相愛の恋人がいるじゃない! ただ一つ教えてあげる。あなたが味方につけようと今まで必死に媚を売ってきた娘たちは、あなたについていくつもりはないそうよ。秋山さんと再婚したければどうぞ。でも一人で家を出ていって下さい。会社に残るかどうかは父と、娘たちとの親子交流をどうするかは直接娘たちと話し合って決めて下さいね」

テンプレ通り私はそれを笑顔で言い切った。一方、夫はまさかという表情。世間知らずのお嬢様でどうとでもなると見下していた私に初めての、しかも手痛い反撃を食らって呆然としているようだった。

父に続いて私にもそっぽを向かれた夫は、当然のように次の救いを娘たちに求めた。

「菫! 桔梗! 父さんとあの家を出よう! もともとあの家は母さんの実家だった。父さんに居場所はなかったんだ。もともと父さんには結婚を約束した恋人がいた。母さんと見合いしたのは当時専務だった母さんの父親に強制されたからだ。次期社長に見合いしないなら退職しろと脅されたら断れるわけがない。仕方なしに結婚した妻は話にもならない世間知らずでつまらない女だった。結婚して舅は社長になった。相変わらず威張り腐って十五年経ってもおれが左利きだと馬鹿にしてくる。父さんが馬鹿にされても母さんは見て見ぬふり。そのくせ父さんはしたくないのに毎日のようにキスやセックスを求められてきた。もううんざりだ! おまえたちだけは父さんの味方でいてくれるよな!」

「うん、私はお父さんのことが大好きだったよ」

桔梗の笑顔を見て、夫はホッとした様子。でもそれも束の間のことだった。

「私の名前がお父さんの元カノの名前と同じだったと知るまでは。本当に気持ち悪い。私もお姉ちゃんもお母さんの方を選ぶよ。離婚後の親子交流? お父さんと呼ぶのも嫌だけど、ちゃんと養育費を払ってくれるなら、季節に一度くらい会ってあげてもいいかな」

「お母さんを選ぶ? お父さんと呼ぶのも嫌? 菫もそうなのか?」

実父にもうちの菫と入れ替わっていることを気づかれず、秋山菫は言いたくて言いたくてウズウズしていた様子。話を振られて待ってましたとばかりに爆発した。

「さっきから黙っていれば何なの? 脅されて仕方なく結婚した? そんなに嫌だったなら、逃げずに話し合いなよ! 大人なんだから。しかも何? 奥さんがキスやセックスを求めてくるって、夫婦なんだから当たり前でしょ。奥さんはあなたを愛していたんだよ。何が悪いの? グチグチグチグチ言い訳と誰かの悪口ばっかり。私はずっとお父さんに会いたかった。でももう無理。お父さんなんて初めからこの世にいなかったと思うことにする」

「ああ、そうかい!」

夫は分かりやすくキレていた。自分のことをおれと呼び、今まで身にまとっていた化けの皮を自ら脱ぎ捨てた。

「上等だ! おまえらみたいな家族はこっちから捨ててやる。離婚届を書いて、明日にもあの家を出ていくからな。おれを追い出したことをせいぜい後悔するといいさ。養育費もらえるなら会ってやってもいい? 心配するな。二度と会う気はないから養育費も渡さない。もともとおまえらは偽物に過ぎなかった。おれが本当に愛した女はほかにいる。その女に産ませた娘こそおれの本当の娘だ。その娘がずっとおれに会いたがっているそうだ。信じられないだろうが、おまえと同じ顔をしてるんだ。性格は月とスッポンだがな。ああ、もちろん向こうが月でおまえがスッポンな。これからは向こうで本当の家族と暮らすとするさ」

「性格が月の方の娘って秋山菫のこと?」

「ああ、そうだ。おまえが産まれたとき同じ名前をつけたが、所詮偽物は偽物。中身は天と地ほどの違いがあったな――」


「もう、やめて! みっともない!」

そう言いながら会議室に飛び込んできたのはうちの菫。秋山菫の中学の制服を着ている。

「どっちが本物か偽物かなんて関係ないじゃん。だってあんたは――もうお父さんなんて呼ばないよ――お母さんと違ってどうせ私たちの見分けがつかないんだから。あんたが今まで話していたのは、あんたが本当の娘だと言った秋山菫さん。あんたと今までいっしょに暮らしてきた夏川菫は私。月とスッポンのスッポンでごめんね。でも関係ないか。どっちの菫もあんたと縁を切って、あんたの味方は秋山桔梗さんだけになるんだから。まあ相思相愛の仲だと言うから、愛があればどんな困難でも乗り切っていけるんじゃない? よかったね!」

うちの菫が秋山菫の隣に並んで立った。いつ見ても着ている服以外のすべてが同じに見える。夫だけでなく父と秘書たちも目を丸くしている。

「入れ替わっていたということか? だって着てる制服が……」

それに答えたのもうちの菫。

「テストの点が悪いと、あんた怒るじゃん。秋山菫さんが勉強できると聞いたから、中間テストの日に制服を取り替えて、お互い相手の学校に行ってみたんだよね。やっぱり誰にも気づかれなかった。あれからちょくちょく入れ替わって学校に行くようになった。だいたいテストの点が急によくなるわけないじゃん。そんなことも分からないあんたこそ偽物だよ。好きでもない相手と結婚した? 好きな相手には隠し子を産ませた? こっちはいい迷惑なんだよ。二度と私たちの人生に関わってこないで!」

テストで悪い点を取らないために入れ替わって相手の学校に登校した、ということ? いくら怒られるからって、それは明らかに不正行為だ。あとで二人ともきっちり叱っておかないといけないな。

私がそう思う一方、二人の実父である夫はもはや子の教育に気を配る余裕はなく、燃え尽きて灰になっていた。力が抜けて立っていることもできなくなったらしく、四つん這いになって床に両手をついている。

父が無言で近づいて、笑顔で夫の肩をぽんと叩いた。

「言いたいことは全部言ったようだな。まずは会社に戻って、退職手続きから始めようか」

夫はよろよろと立ち上がり、父と秘書たちに連れられて会議室を出ていった。

戦いは終わった。私たちの勝利を祝うかのように、窓の外の満天の星空が私たち四人を優しく照らしていた。


それからすぐ、ふと思い出したようにうちの菫が声をかけてきた。

「そういえば、会議室の前で男の人がずっと立ってるよ。誰か探してるみたいだけど、相手の名前も分からないんだって」

「教えてくれてありがとう!」

いなくならないで! と心の中で念じながら 、走って会議室のドアを開けた。確かにドアの前で一人の男性が立っていた。市役所の職員らしく真面目そうな感じ。私の顔を見て困惑の表情を浮かべている。

「春岡鉄雄さんですか?」

「そうですけど、あなたは?」

「ごめんなさい。本名を教えてませんでしたね。夏川蛍です」

「はあ……」

「別名人妻キラーです」

「ええっ!」

鉄雄は本気で驚いていた。

「絶対に来てくれると信じてました。いざというときはきっとあなたが助けに来てくれる。そう思い込むことで、たった今、夫との厳しい戦いに完勝できました。本当にありがとう」

「いや、僕は何もしてません。人妻キラーさんらしき男性が見つからなくて、ずっと困ってました。何かもめてそうな人たちがお店を出て会議室に移動していくのが見えたから、この中にいるのだろうなとは思っていましたが……」

「大当たりでしたね!」

「まさか人妻キラーが女性だっただなんて……」

「女子高生のはずのマリアの末裔も男性だったじゃないですか!」

「そりゃそうなんですが……」

気がつくと、うちの娘たちと秋山菫もそばに来て私たちの話を聞いている。

「お母さん、その人は?」

「ネットで知り合って、相談に乗ったりしていた人」

「まさか不倫相手?――じゃないみたいね。今までお母さんのことを男性だと思ってたみたいだし」

戸惑い顔の三人に私は笑顔で力強く宣言した。

「私たちは絶対に不倫はしない。異性と交際するなら離婚してから正々堂々と。当然よね――」

だって私たちは不倫バスターズだもの! と決めゼリフのように締めくくり、鉄雄にウインクしてみせようとした私は、言い終わる前に急に体に力が入らなくなってガクンと床に尻もちをついた。

「人妻キラーさん、どうしたんですか?」

突然猛烈な睡魔に襲われ、鉄雄の問いかけに答える気力もない。どうやら幸季に一服盛られていたようだ。お酒に強いと過信して幸季に勧められるままにカクテルを何杯も飲み干していた私はなんて愚かな女なのだろう!

もし別れさせ屋とともにこの場を離れていたら、昏睡した私はたやすく彼の毒牙にかかっていたに違いない。

圧勝だったといい気になっていたが、とんでもない勘違い。薄氷を踏むような紙一重の勝利だった。すぐに座ってもいられなくなり、床に寝そべった私はそのまま深い眠りに落ちた――


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