テラーノベル
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移り気な己が憎い。各話タイトルは百人一首から。
りょちゃん視点。
「……元貴、だよね? ……なんか太った? っていうか、老けた?」
若井がスタジオで事故に巻き込まれたと聞いて、いろんなものをほっぽり出して病室に駆け込んだ僕と元貴を待っていたのは、頭に包帯を巻いた若井のそんな言葉だった。
「大森さん、藤澤さん、ちょっと」
若井に付き添っていたマネージャーが固まる僕らを病室から連れ出した。出ていく間際、え! 涼ちゃんなの!? と若井が声を上げた。
ああ、なんか嫌な予感がする、と、走ったせいで暑いからではない嫌な汗がじっとりと首を濡らした。
三十年以上生きていても初めて聞く単語なんてものはたくさんあるらしい。何せ日本語は5万語以上あるというのだから、当たり前と言えば当たり前だ。
お勉強があまり得意ではない僕は、漢字もカタカナもまぁまぁ苦手だ。だから最初に言われた言葉は理解ができなかった。本や小説の世界でしか聞かないような衝撃的な事実に、いまいち頭が働いていないせいもあったかもしれない。
「記憶喪失ってこと?」
難解な言葉に理解が追いついていない僕を見て、険しい表情のまま元貴が言葉を変えてマネージャーに問い掛けた。マネージャーが小さく頷く。
いくら僕だってその言葉くらいは知っている。そしてその言葉の持つ意味も理解できる。
正確には限局性健忘っていうらしいけれど、簡単に言えば今の若井は記憶を部分的に失っている状態らしい。倒れてきたセットを避けようとして、傍にいた避けきれなさそうな共演者の子役を庇って頭を強く打ったことが原因だろうと説明された。
若井のやさしさとかっこよさにあふれた理由に、若井らしいな、と働かない頭の冷静な部分が感想をこぼす。
「脳に損傷は見られず脳波も正常だそうなので、後遺症等の心配はほぼないということでした。記憶に関しても、日常生活に必要な知識に問題はありません。自分がMrs.であることも大森さんたちのことも覚えているみたいですが、医師とのやりとりを見る限り、若井さんの認識だと今は2018年か2019年です」
やっぱり、と迷子になった感情が乾いた笑いに変わり、小さな吐息となってこぼれ落ちた。
2018年か2019年だとすると休止をする前、フェーズ1の完結以前ってことだ。その認識しかなければ元貴も僕も7年分歳を重ねているし、あの頃に比べれば体重も増加した。記憶の中にある僕らの姿と今の僕らの姿があまりにも違いすぎたのだろう、若井のあの反応も頷ける。
元貴は少しだけ考えて、僕の様子を気にかけてくれつつ現状を理解しようと努める。流石だよね、こういうところ。本当に頼りになるし、頼りにしてしまう。いつも寄りかかってしまって、申し訳ないな、って思う。
「どこまで話した?」
「まだなにも」
お医者さんの診察もあったし、急に情報を与えても混乱を招くだけだろうしとマネージャーが答える。分かった、と元貴が頷いて、お願いがあるんだけど、とマネージャーになにかを指示する。マネージャーは分かりましたと頷き、スケジュールの調整はチーフがしています、と言い残して早歩きで去っていった。
忙しい中での調整は困難を極めるだろうなと、どこかこの事態を他人事のように考えていると、僕の手を元貴がそっと掴んだ。僕の冷たい手に眉を寄せ、涼ちゃん、とやさしい声で僕の名を紡ぐ。
「顔色悪いよ。座ろ」
「……へいきだよ」
「だめ、座って」
懇願するように僕の手を握る元貴に苦笑する。廊下に備え付けのソファに手を引かれて座ると、元貴が横に腰掛けて僕の顔を覗き込んだ。
「何か飲む?」
「ううん、大丈夫、ありがと。元貴もびっくりしてるのに、ごめんね」
「や、へいき。頭打ったって聞いたときは焦ったけど、取り敢えず身体は平気そうだし」
……嘘つき。僕の手を握る手、ちょっと震えてるよ。元貴も怖かったよね、大事な親友にもしものことがあったらって。それなのに平気なふりして僕のこと気遣って、なんでもないことのように言わせて……やさしいね。
お礼を込めてきゅ、と握ったままの手に力を入れると、ふわ、と笑った元貴がこてんと僕の肩に頭を乗せた。
「子ども庇ってとかヒーローかっての。どうせなら子ども庇って自分も無傷でいろよって話だよね」
「ふふ、若井らしいよね」
若井のことだから、身体が反射的に動いたんだろうな。護らなきゃって。そういうところがかっこよくて、大好きなんだよね。自分のことを大切にして欲しいって思うけど、そこで護れなかったら自分を責めちゃうんだろうな。
「7年前か……」
ぽつりと呟いた元貴にかける言葉が思い付かず、うん、とだけ応える。
今の若井からしてみれば、僕も元貴もよく知っている友人またはメンバーじゃなくて、同じ名前を持つだけの別人みたいな存在だろう。完全に忘れたわけじゃないっていうところにグループとしては希望があるようで、だけど僕にとってはとてつもない絶望なような気がしてならない。
「大森さん、藤澤さん、お待たせしました」
病院の人に叱責されない程度の小走りで、先ほど元貴に指示を受けたマネージャーが両手いっぱいに荷物を持って戻ってきた。元貴が僕に向かって、そして自分自身にも言い聞かせるように、行こう、と言って立ち上がった。僕の手をゆっくりと離し、僕に向かってその手を差し出す。元貴の手を取って立ち上がり、元貴とマネージャーの後ろをついていった。
「入るよー」
極力いつもと変わらない態度で元貴が入室すると、ベッドでぼんやりとしていた若井が振り返り、やはり知らない人を見るような不安げな目でこちらを見た。
その眼差しにズキリと胸が痛む。今朝までの、甘くとろけそうな眼差しを僕は覚えているから。いってくるね、とやわらかい声を僕は知っているから。
目を逸らしたくなるけれど、しっかり見守っていなければならない。どうするのか、どうなるのか見届けなければならない。Mrs.のひとりとして、若井に近しい人間として。
ベッド横の椅子に腰掛け、元貴はまっすぐに若井の目を見返した。言葉を選ぶように少しだけ考えたあと、結局は単刀直入に切り出した。
「……お前、今いくつ?」
「は?」
「いいから。今何歳?」
「にじゅうに……さん?」
「うん、俺もお前も今年で29ね」
「……は?」
ぽかんとする若井に少しだけ同情する。混乱するよねそりゃ。お医者さんとの話し合いで、自分の記憶が混濁していることは察しているかもしれないけど、いきなりそんなこと言われても訳がわからないよね。
だけど元貴はそんな若井を気にすることなく話を次へと進める。
「で、これ」
元貴がマネージャーを振り返って、持ってきてもらった荷物を受け取り、いくつかを選別してベッドに備えられている机に乗せていく。僕たちのことが掲載されている雑誌の数々だった。
「読め」
「は!?」
「今のお前になにを言ったってどうせ信じないでしょ? だから、読め。これが俺たちの軌跡だから」
元貴のやろうとしていることが分からないわけではない。言葉で説明をするよりもこっちの方が手っ取り早くて分かりやすいだろう。とはいえ、ダメージを受けた脳にそんなに刺激を与えていいものなのだろうか。
若井は雑誌の表紙を飾る自分の写真を見つめ、元貴を見て、僕を見た。戸惑いや困惑は見えるが、苦痛を感じさせるものではない。そのことに少しだけ安堵する。元貴もそれを感じたようで、安堵を滲ませてやわらかく微笑んだ。
「……三日は安静にってことだからせいぜいお勉強してよ」
俺ら仕事あるから行くわ、と元貴が立ち上がると、
「あ、ねぇ、俺のスマホは?」
と若井が訊いた。ドキッと僕の心臓が嫌な音を立てた。
「あるんじゃない?」
元貴がマネージャーに視線を送ると、車にあるので取ってきます、とマネージャーが出て行った。
マネージャーが戻るまでは待つことにしたらしい元貴が、動画サイトに公式アカウントがあるからそれも観ておいて、倒れた拍子に腕も打ったみたいだからしばらくギター禁止だから、あと三日間は基本的に外部と連絡取らないで、関係者はいいけど関係者が分かんないでしょ、など、矢継ぎ早に告げている。
そんな普段通りに見える二人を見つめて、小さく深呼吸をする。
「……若井」
訊くなら今しかないと、元貴にあれやこれやと注文を受け、分かったから! と逃げるように雑誌を手に取った若井に声を掛ける。僕の声が震えていることに気づいた元貴が、どうしたの? といいたげに目を向けた。
「若井の記憶だと、彼女さんとどうなってる?」
僕の質問に元貴が息を呑み、若井が怪訝な表情で眉を寄せた。なんでそんなこと訊くのかと言わんばかりの鋭い眼差し。そりゃそうだよね、なんでそれが今関係しているのか、分からないよね。
でもね、僕にとってはめちゃくちゃ重要なことなんだよ。僕に現実を突き付けるものになるから。
僕がなんの話をしようとしているのかを察した元貴が、口元を隠して考えを巡らせてくれている。良い考え、浮かびそう? ふふ、僕は全く浮かばない。
「……別れ話をしている、か、別れたか、のどっちか。スマホ見れば分かると思うけど」
その辺の記憶ははっきりしていないのか。2018年か2019年だと、忙しくしていた頃だったから余計にあやふやなのかもしれない。でも、そんな曖昧な記憶の中でも、7年間という月日が空白な若井にとっては今もまだ彼女さんという存在が当然なんだ。当たり前の存在として、彼女さんがいるのだ。
きっとそこに、僕はいないんだろうね。
こんなことになっているなんて思いもよらないだろうから、それは仕方がないことだ。彼女さんを本当に大切にしていたことも知っている。覚えている。
7年って数字を聞いたときから分かっていたことだけど、いざ言葉されると刺さるものがあるなぁ。
すっと頭の中が冷たくなって、若井の次の反応次第では動いているこの心臓も冷たくなっちゃうんじゃないかなって錯覚する。
「……若井、信じられないと思うんだけど」
「さっきから信じられないことばっかだけどね。なに?」
冷たい声に涙が出そうになる。若井としては意図して出している訳じゃないだろう。23歳の若井にとって僕は苦手な歳上のメンバーってだけだろうから。
でも、今の若井の姿で、その視線と声は辛いものがあるよ。
そうだよね。訳が分からないと混乱しているときにごめんね。でも、スマホを見たら分かっちゃうから、先に言っておいた方がいいと思うんだよね。彼女さんをとても大切にしていた若井からすれば衝撃で、信じたくないかもしれないことかもしれないけど、なにも知らずに見るよりマシだと思うから。
「っ、ちょっと待って涼ちゃん!」
すぅ、と息を吸うと、元貴が焦ったように僕を振り返った。元貴の声に若井がびっくりして目を見開いている。僕は元貴を安心させるように笑いかけ、ゆるく首を横に振って元貴を制止してから若井に近づく。
心配してくれてありがとね、元貴。大丈夫だから僕に言わせて? 始まりは若井が言ってくれたんだから僕の手で終わらせて? 記憶が戻ったらまた始められるかもしれないし、ね? 始められなかったら、そのときは、助けてって言っちゃうかも。
元貴が僕の手を握り締める。そんな僕らを気にした様子なく若井が続きを待っている。元々距離が近かったから、このくらいの触れ合いは若井も見慣れているのだろう。
一度強く目をつむり、覚悟を決める。どんな反応がきても、受け止めなければならない。僕のことを気遣えというのは、今の若井にはとてもじゃないけど無理な話なんだから。
呼吸を吐き出すのと同時に目を開き、若井の目をまっすぐに見つめた。
「若井は今ね、俺と付き合ってて、俺と一緒に住んでるんだよ」
「……え……?」
こんな風に失うくらいなら、今日の朝、いってらっしゃいってキスをしたときに死んでしまえたら良かった。
忘れじの行く末まではかたければ今日を限りの命ともがな(儀同三司母)
続。
時系列とかふわっとしています。ふわっとやさしい気持ちで読んでやってください。
コメント
12件
百人一首!!発想が天才...✨ 思いを若井さんに告げるのも悲しいのにすぐ言う勇気が....泣けますね 次も楽しみにしてます!Keiさんのどのお話も好きすぎる...😇
新しいお話しありがとうございます✨ 楽しみです💕
私、記憶喪失ネタも大好きで、、、🤭💕 まさか作者様のお話で読めるなんて!?と小躍りしてます🍏 また楽しみ出来ました🙌 いつもありがとうございます✨