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明日のふりをしてやってくる今日を、どうやって拒絶すればいいのか分からなかった。
あの、喉が焼けるほど甘ったるかった時間を形容する言葉を、俺は持たない。
歳を重ねた男が耽るにはあまりに無垢で、直視することさえ躊躇われる白昼夢のような時間。
およそ二週間、俺たちは恋人のように過ごした。
ーー恋人のように。
俺たちが手を取り合って陽だまりを歩くなど、あってはならないことだ。
復讐を誓った者と、その引き金を引いた者。
地獄の淵でさえ対等に並ぶことの許されない俺たちに、幸福の器を分かち合う資格など最初から無かったのだ。
ならば、何故ーー
***
日本の警察と手を組むことになった。
あの少年の見事な頭脳が、それが最善だと弾き出した結果だ。
FBIと公安。
国籍も矜持も異なる巨大な組織が、あえて手を取り合う。
それはあの巨大な深淵を覗き込むために、俺たちが互いの背中を預けるという「狂気」に近い決断だった。
……もっとも、彼にとっては泥水を啜るような苦渋の選択だったに違いないが。
***
組織という巨大な怪物の断末魔を収め、瓦礫の下から真実が掘り起こされ始めた頃。
世界はひどく騒がしく、それでいて俺の周囲だけは耳鳴りがするほど静かだった。
事後処理という名の事務作業が山積する中、俺は変声機のスイッチを入れ、大学院生・沖矢昴の皮膚を貼り直した。
目的は、FBIの機密データを彼――降谷零に手渡すこと。
公的なルートでは残せない、組織の残滓に関する極めて個人的で危険な「毒」の受け渡しだ。
夕刻の喫茶ポアロ。客足も途絶え、西日がテーブルの木目を赤く焼いている時間帯。
カウンターの向こうで、彼は相変わらずの「安室透」として、淀みのない手つきでカップを磨いていた。
「いらっしゃいませ。――おや、沖矢さん。先ほどはわざわざお電話をいただいたそうで」
貼り付けたような、けれど完璧な笑顔。
「ええ、安室さん。少し、お耳に入れたい新メニューがありましてね」
俺はカウンターの端、この店の看板娘の目が届きにくい死角へと滑り込んだ。
注文したのは、この店で最も無難なブレンドコーヒー。彼は機密データの入ったチップが、俺のポケットの中で熱を持っていることなど露知らぬふりで、静かにコーヒーを運んできた。
「熱心ですね」
「ええ。少し、調べ物に没頭しすぎてしまって」
「……あ、そうだ。ちょうど新作の試作が終わったところなんです。よければ、意見を聞かせてくれませんか?」
それはカモフラージュのための、毒にも薬にもならない会話のはずだった。
差し出されたのは季節外れの温かなスープ。俺はスプーンを手に取り、その深い味わいに目を細めた。
「……美味しいですね。コンソメの引き方が、丁寧だ」
「わかりますか? 隠し味にセロリの葉を少し使っているんです」
料理の話。それは多分、俺たちが唯一、銃火器や血の匂いを介さずに共有できる言語だった。
ふと、工藤邸で一人鍋を火にかけていた時間を思い出す。
ただ空腹を満たすためではなく、誰かのために作るわけでもない、空白を埋めるための作業。
「実は、私も最近は大根の煮物に凝っていまして。出汁を染み込ませるために、一度冷ますのがコツだとようやく理解しました」
「ほう、大根ですか。それはいい。面取りはしましたか?」
「ええ、もちろん。ですが、どうしても火の通りにムラができてしまう」
「それは火力が強すぎるのかもしれませんね。弱火で、ゆっくりと対流させるイメージです。急いではいけませんよ、料理も、それ以外も」
彼は楽しそうだった。
降谷零として、赤井秀一という宿敵を睨みつける鋭い眼光はどこにもない。
ただの料理好きな青年が、同好の士に出会ったかのように声を弾ませる。
あの赤井秀一が、平凡な家庭料理にここまで熱を上げている。その滑稽な事実が、彼にとってはよほど愉快だったのだろう。
「沖矢さんは、本当に……何事にも真摯ですね。あなたの作る料理は、きっと優しい味がするんでしょう。……素晴らしいですね。料理に対してそれほど真摯に向き合えるのは、一つの才能ですよ。尊敬します」
不意に、真っ直ぐな称賛が飛んできた。
それは演技ではない、純粋な心からの言葉。
「――……。……あ、……ありがとうございます」
言葉に詰まった。
喉の奥が引き攣れるような感覚。
視線をどこにやっていいか分からず、俺は必要以上に瞬きを繰り返し、眼鏡のブリッジを押し上げた。
戦場でも、FBIのオフィスでも、俺が受け取るのは常に「優秀だ」という評価か、「死神め」という罵倒だった。
純粋に、ただそこに在る努力や感性を褒められるという経験に、俺の人生はあまりにも乏しかった。
「おや、照れているんですか?」
彼もまた、意外だという顔でいた。
何かに敗北したような、くすぐったいような、幼い表情。
クスクスと笑う。
その笑い声が、西日の差し込む店内に溶けていく。
かつて坊やが言っていた言葉を思い出した。――「赤井さんは可愛らしいところがあるんだね」。
その時は鼻で笑い飛ばしたが、今、自分の頬が微かに熱を持っているのを自覚して、俺は敗北を認めるしかなかった。
時計の針が重なり、閉店の時刻が訪れた。
表札が「CLOSE」に引っくり返され、俺たちは店を出た。
街灯が灯り始めた帰り道。安室透が、ふと立ち止まって俺を見た。
「あれ? 沖矢さん。帰り道、あちらじゃなかったですか?」
しまった、と思ったが顔には出さない。
「ええ、実は。……住まいの家主が一部リフォームをすると言い出しまして。いえ、家主に迷惑をかけたくないので、今夜はホテルにでも泊まろうかと考えているんです」
咄嗟についた、他愛もない嘘だ。
データの受け渡しを終えれば、俺は別のセーフハウスに移動するつもりだった。
だが、彼は少しだけ考え込むような素振りを見せた後、信じられない言葉を口にした。
「なんだ、そんなことか。……なら、リフォームが終わるまで僕の家に来ませんか?」
心臓が、変な跳ね方をした。
「いいんですか? 私のような、どこの馬の骨ともしれない男を」
「ええ。ただし――」
彼は一歩、俺に歩み寄った。
至近距離。彼の瞳の中に、夕闇に紛れた鋭い光が宿る。
「その『仮面』を剥がしてきてください。僕の家に、沖矢昴を招くつもりはありませんから」
バレていた。
いや、最初から彼は気づいた上で、この「安室透」としての平穏を楽しんでいたのだ。
俺は苦笑し、首元の変声機に手をかけた。
「……手厳しいな、君は」
そこから二週間。
俺たちは、ひとつの屋根の下で過ごした。
朝、コーヒーを淹れる香りで目が覚める。
キッチンには、エプロン姿の降谷零がいる。
彼は公安のトップとしての顔を玄関に置き忘れ、まるで新婚の生活でも楽しむかのように、俺に朝食を促すのだ。
「赤井、今日の味噌汁はナメコです。火傷しないように」
「ああ……。君は相変わらず、朝から手際がいいな」
「褒めても何も出ませんよ。ほら、冷める前に食べてください」
テーブルを挟んで向かい合い、ニュース番組を見ながらパンを齧り、味噌汁を啜る。
大きな仕事を終えた後、処理すべき事案は山ほどあったはずだ。
だが、この部屋の中だけは、外の世界の喧騒から切り離された空白地帯のようだった。
ある夜は、彼が職場の愚痴をこぼした。
「部下の風見が、また報告書を溜め込んでいて……。あいつは真面目すぎるのが欠点ですね」
「……俺の部下にも、似たようなのがいる。キャメルというんだが」
「ああ、あの運転の上手い彼ですか。ふふ、苦労しますね、お互い」
そんな他愛もない会話が、夜の帳を埋めていく。
俺は時折、自分が赤井秀一であることを忘れそうになった。
あと一歩で復讐を終わると思うと、目的を失った抜け殻のような気分になる。
そんな俺を、彼の淹れる紅茶の熱や、洗剤の匂いや、時折見せる無邪気な笑顔が、無理やり現世に繋ぎ止めていた。
それは、地獄の底で見る白昼夢だった。
俺たちが手を取り合って陽だまりを歩くなど、あってはならないことだ。
俺たちは、あまりにも多くのものを失いすぎた。
――そして、その夜はやってきた。
酒が少し、入りすぎていたのかもしれない。
二人で並んでソファに座り、琥珀色のウィスキーを眺めていた時だ。
どちらからともなく、その名前が漏れた。
「……スコッチ」
室温が、一瞬で氷点下まで下がった気がした。
彼の手の中にあるグラスが、微かに震える。
それは俺たちが決して触れてはならなかった、箱の底に沈めたはずの呪詛だ。
「……彼は、君のことを最後まで心配していた」
「……黙れ」
低く、地這うような声。
先ほどまでの穏やかな空気は霧散し、そこには「降谷零」と「赤井秀一」という、剥き出しの憎悪と後悔だけが残された。
「お前に何がわかるんだ。……あの日、あの場所で、彼が何を思い、何を遺して逝ったのか。引き金を引かせたお前に、語る資格なんてないんだ」
彼の瞳から、一筋の熱が零れ落ちる。
何も言えなかった。
幸福の器を分かち合う資格など、最初から無かったのだ。
この二週間という時間は、割れた器の破片を、ただ無理やり繋ぎ合わせていただけの、脆く儚い偽りだった。
「……出て行ってくれ、赤井」
その言葉を最後に、俺たちの「共同生活」は終わった。
こうして今に至る。
明日のふりをしてやってくる今日を、どうやって拒絶すればいいのか分からなかった。
およそ二週間、俺たちは恋人のように過ごした。ーー恋人のように。
職場のオフィスに戻り、日常という名の戦場に身を投じても、指先に残る彼の家の温度が消えない。
あのキッチンで彼が立てていた包丁の音や、気まずそうに顔を赤らめたあの瞬間の表情が、呪いのように俺の脳裏に焼き付いている。
地獄の淵でさえ対等に並ぶことの許されない俺たちに、幸福の器を分かち合う資格など最初から無かった。
ならば、何故ーー。
何故あの日、君は俺を誘ったんだ。
何故、あんなにも優しい顔で、俺に笑いかけたんだ。
窓の外では、今日も冷淡な朝日が昇り始めている。
俺は手元の冷え切ったコーヒーを煽り、二度と戻らないあの「ぬるま湯」の残滓を、無理やり胃の底へ流し込んだ。
黃