テラーノベル
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玄関の鍵を回した瞬間、
芹沢綾斗(せりざわあやと)は、
「家の匂い」が変わっている事に気付いた。
表現しづらい。
洗濯でも、香水でも、焦げでもない。
けれど鼻腔の奥が、僅かに硬くなる匂いだった。
湿った布を長く放置したような、
温度のない匂い。
それは、
部屋の空気が人の都合”を
離れた時にだけ生まれる。
綾斗は買い忘れた牛乳の紙パックを握り直し、
靴を揃え、廊下を歩いた。
いつもならテレビの音がする。
父の咳払いがする。
母が台所で食器を置く音がする。
なのに今日は、
時計の秒針だけがやけに強調されて聞こえた。
――カチ、カチ、カチ。
リビングの扉は半開きだった。
綾斗は声をかけようとして、やめた。
声をかける前に“確認してしまう癖”が、
昔からある。
扉を推し開ける。
まず目に入ったのはソファ。
父と母が並んで座っていた。 いつもの位置だ。
テレビは消えている。照明は点いている。
カーテンは閉まっている。
そして2人は、眠っているように見えた。
綾斗は、その“眠り方”が正し過ぎる事に、
ほんの1秒で違和感を抱いた。
人は眠る時、姿勢に乱れが出る。呼吸がある。
筋肉が弛む。
だが父も母も、背筋がある。顎が落ちていない。
肩が落ちていない。
綾斗は歩み寄り、母の手に触れた。
冷たかった。
その冷たさが皮膚の表面だけではなく、
骨の内側から滲むような冷たさである。
そう理解した瞬間、 綾斗の喉は勝手に締まった。
声を出すという行為が、
突然、物理的に不可能になる。
肺が動かない。舌が動かない。 思考だけが動く。
(…死んでる)
次に父に触れた。
同じ冷たさ。
同じ硬さ。
同じ、ありえない静けさ。
綾斗は後ろを振り向いた。
部屋は整い過ぎている。散乱がない。
争った痕跡がない。
テーブルの上には皿が置かれている。
食事の途中のように見える。
なのに、何故2人は、
今“座ったまま”死んでいるのか。
思考は勝手に分類を始めた。
――外傷は?
――血は?
――倒れた形跡は?
――薬は?
――匂いは?ガス?
――鍵は?侵入は?
綾斗は自分が冷静である事に気付き、
気持ち悪さを覚えた。
泣きたかった。叫びたかった。
そうすべきだと、どこかの自分が言っている。
けれど“解こうとする頭”が、
それを許さなかった。
玄関へ戻る。鍵を確認する。
内側からかかっている。
窓へ行く。全て閉まっている。
補助錠もかかっている。
台所の換気扇は回っていない。
ガスの元栓は閉まっている。
それでも、2人は死んでいる。
綾斗は電話を取った。
指が震えて、番号を押し間違えた。
2回目で、ようやく押せた。
「…もしもし、助けてください。父と母が…」
その後の記憶は、
映像みたいに切り取られている。
玄関のチャイム。
走ってくる靴音。
制服。
無線。
金属の匂い。
所轄の刑事は、矢島という男だった。
目付きが鋭いのに、声だけが妙に柔らかい。
法医が来て、淡々と体を触り、瞳孔を確認し、
体温計を当てた。
矢島が言った。
「坊主、君はどこにいた」
「2階です。自室」
「何か聞こえたか。物音とか、叫び声とか」
「…何も」
矢島はリビングをぐるりと見回し、
窓を確認し、玄関の鍵を触った。
そして、言葉を落とした。
「侵入痕、なし。鍵も内側。争った形跡も、なし」
法医が鑑定の初期初見を告げる。
「外傷なし。皮下出血なし。窒息初見なし。
薬物反応は簡易検査では陰性。
死因は急性循環停止の可能性が高いです」
急性循環停止。
それは“心臓が止まった”という現象に過ぎず、
原因を示さない言葉だ。
矢島は眉間に皺を寄せた。
「つまり心臓発作か?」
「断定は出来ません。
ですが…2人ともほぼ同時刻。座位。
表情が穏やか過ぎる。
自然死として処理するには、整い過ぎています」
矢島は綾斗を見た。
「君がやった、って事はないよな」
綾斗は首を振る。
否定は簡単だった。事実だから。
だが“事実”を並べれば並べるほど、
事件は可笑しくなる。
矢島が続ける。
「君がやってない。侵入者もいない。
凶器もない。…なら、どうして2人が死ぬ?」
矢島の問いは、問いの形をしていない。
それは、世界に対する抗議だった。
綾斗は、その抗議が間違っている事に気付いた。
矢島の前提が、成立していない。
(“侵入者”と“凶器”と“暴力”がなければ、
人は殺せない。)
(だから、殺人ではない)
その前提が、
世界のルールとして採用されている。
でも、今目の前に死体がある。
死体は“ルール違反”だ。
なら、ルール側を疑うべきだ。
綾斗は自分でも驚くほど静かな声で言った。
「その説明は、成立してません」
矢島が顔を上げる。
「…何?」
綾斗は続けた。
誰かが止める前に、
頭が答えの形へ転がっていく。
「侵入者がいないなら殺人じゃない、
って前提も。
“殺す行為”がないから殺人じゃない、
って前提も」
矢島が言葉を探す。
「坊主、待て。お前、何を――」
「死体がある。2人とも同時刻。
条件が揃い過ぎてる。
自然死だって言うなら、
自然死の条件を満たしてない」
綾斗は、テーブルを指した。
「…皿が3枚あります。配置が不自然。
3人家族の並べ方じゃない。客の席がある」
矢島はその皿に近付いた。
確かに皿が3枚ある。箸が3膳。
だが、父母の前の皿は食べかけのようで、
3枚目だけ妙に整っている。
矢島は、そこで初めて“犯罪の匂い”を
嗅いだ顔をした。
「来客がいた…?」
綾斗は首を横に振る。
違う、と言うために。
「“外部の来客”なら、侵入になる。
でも侵入痕がない。
防犯カメラがある。そこに映ってない。
なら、ここに来たのは――
“家族として入れる人間”です」
矢島の目が細くなる。
「家族以外で?」
綾斗は言いかけて止めた。
その言葉を口にすると、世界がひっくり返る。
今はまだ、証拠が足りない。
だから綾斗は、論理の形だけを残す。
「“家族”っていう概念の中に、
欠けてるピースがある。
そのピースが埋まると、この事件は成立します」
矢島が苦い顔で笑った。
「…子供が言う事じゃねえな」
綾斗は笑わない。
笑えない。
感情を取り戻すと、壊れてしまう気がした。
だから、頭だけで立っている。
法医が、2人の瞼を閉じ、毛布をかけた。
その手つきの丁寧さが、逆に残酷だった。
“これで終わりです”と宣言されているようで。
矢島は綾斗に言った。
「坊主。今夜は親戚の家に行け。俺が手配する」
綾斗は小さく頷いた。
そして、もう1度テーブルを見た。
3枚目の皿。
客の席。
箸。
グラスは2つ。
(グラスが2つ…?)
皿は3枚なのに、グラスは2つ。
この不一致は、偶然か。
あるいは、意図か。
綾斗は心の中でメモを作る。
・皿3/箸3/グラス2
・客席配置
・争いの痕跡なし
・同時刻死亡
・侵入なし
・凶器なし
・そして…死に顔が穏やか過ぎる
穏やか、ではない。
綾斗には、あれが“穏やか”に見えない。
むしろ、理解しきった者の表情――
思考が止まった者の表情だ。
矢島が現場写真を撮るよう指示を飛ばしながら、
ふと呟いた。
「カメラが生きてるのも気持ち悪いな。
事件の時刻だけ、ちゃんと映ってやがる。
不審者がいない事を“照明”するみたいに」
綾斗は、その言い方に反応した。
(照明…?)
そうだ。
この事件は、説明ではなく照明の形をしている。
まるで誰かが、“侵入者はいない”という結論へ
誘導するために、状況を整えたみたいに。
矢島が言う。
「防犯カメラは玄関と廊下だけ。
リビングは映らない。
つまり、家の中で何が起きたかは――
誰も見てない」
綾斗は心の中で答える。
(見てないんじゃない。見せてない)
そう考えた瞬間、胃の奥が冷たくなった。
“見せてない”という事は、
見せたくない何かがある。
その何かは、凶器か。
侵入者か。
――それとも、存在してはならない人物か。
綾斗は、もう1度だけ皿を見た。
3枚目の皿の縁に、僅かな光沢がある。
唇の油だ。
食べたのだ。誰かが。
父と母以外に、誰かが家にいた。
家族として入れる誰かが。
カメラに映らない誰かが。
綾斗は、
そこで初めて“恐怖”に近いものを感じた。
恐怖は感情だ。
感情は推理を歪める。
だから彼は、その恐怖を「条件」に変換した。
【条件】
“家族として入れるが、
家族として数えられていない人物”が存在する。
その条件を満たす候補は、ほとんどない。
だが、候補が少ないという事実は、
同時に真相の輪郭をくっきりさせる。
綾斗は一息で、胸の中の言葉を折り畳んだ。
まだ言わない。
言えば世界が壊れる。
証拠が揃うまで、言わない。
矢島が綾斗の肩に手を置いた。
「…坊主。今日はもう休め。
お前が何を言おうと、
俺はこの事件を終わらせねえ」
綾斗は、頷いた。
その言葉は信用出来る。
矢島の目は、嘘を付いていなかった。
だが、信用と解決は別だ。
綾斗は玄関を出る前に、
もう1度だけ振り返った。
ソファの上の2人。
穏やか過ぎる顔。
整い過ぎた姿勢。
そして、テーブルの3枚目の皿。
綾斗は心の中で、宣言した。
(これは、殺人だ)
(ただし、凶器がない)
(ただし、侵入がない)
(ただし、暴力がない)
(つまり――)
(“殺しの行為”そのものが、密室になっている)
時計の秒針が、やけに大きく鳴った。
――カチ、カチ、カチ。
その音が、綾斗には“挑戦状”に聞こえた。
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