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「……みこと、それさっきもう食べたよ」
キッチンに立つすちは、少し困ったようにそう言った。
テーブルの上には、さっき自分が用意したばかりのトーストとスープ。
それとまったく同じものを、みことは今、もう一度作ろうとしている。
「え? うそ……?」
みことは手に持っていたパンを見つめ、ぱちぱちと瞬きをした。
「だって、お腹すいてて……」
「うん、食べてもいいよ。でもさ、ほら」
すちはトーストを指さす。
「もうある」
「あ……ほんとだ」
みことは一瞬、笑ってごまかした。
「なんか最近、時間の感覚おかしいんだよね。はは」
すちはその笑顔を見ながら、胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。
――最近、こういうことが増えている。
鍵を閉めたか忘れる。
スマホをどこに置いたか分からなくなる。
同じ話を短時間で何度も繰り返す。
どれも、よくあることと言えばよくある。
疲れているだけかもしれない。寝不足かもしれない。
けれど。
「みこと、ちゃんと寝てる?」
「寝てるよー。すちが一緒に寝てくれるし」
ふわっと笑うその顔は、いつも通り柔らかい。
でも、どこか“頼りない”不安定さが混じるようになった気がしていた。
すちは、みことの頭をぽんと撫でる。
「無理してない?」
「してないよ。……たぶん」
その「たぶん」が、妙に胸に残った。
数日後。
みことは、最寄り駅で立ち尽くしていた。
改札を前にして、頭が真っ白になる。
(……あれ? 俺、どっち行くんだっけ)
自宅の方向が、分からない。
路線図を見ても、見慣れているはずの駅名が、どれも他人の文字のように見える。
心臓が、どくんと大きく跳ねた。
「……やば」
手が震える。
スマホを取り出して、すちに電話をかける。
『もしもし?』
すちの声を聞いた瞬間、みことの喉が詰まった。
「すち……俺、駅にいるんだけど……」
『うん? いつもの駅?』
「……どこに帰ればいいか、分かんなくなった」
一瞬の沈黙。
『……動かないで。今、迎えに行く』
すちの声は、静かだったけれど、はっきりと緊張がにじんでいた。
ホームで座って待つみことの隣に、すちは息を切らして駆け寄ってきた。
「みこと……!」
「ごめん……」
みことは、泣きそうな顔でうつむく。
「俺、家の場所……一瞬、分かんなくなって……」
すちは何も言わず、ぎゅっとみことを抱き寄せた。
心臓の音が、すぐ近くで重なる。
「大丈夫。ちゃんと一緒に帰ろう?」
そう言いながらも、すちの胸の中には、はっきりとした“違和感”が芽生えていた。
――これは、ただの物忘れじゃないかもしれない。
その夜。
みことは眠りについたあとも、何度か目を覚ました。
「……すち?」
「ここにいるよ」
すちは、そのたびに答えた。
みことは安心したように、また目を閉じる。
すちは、眠るみことの髪をそっと撫でながら、胸の奥で小さく祈った。
――どうか、気のせいでありますように。