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ユカリはハーミュラーの面差しや背格好をじっくりと見つめ、記憶の中のそれと照合する。疑いなく幻視した女性と同一人物だ。あの幻視が呪いだとしても、ユカリの疲れが生じた幻だとしても、奇妙だ。あまりにも同じ過ぎて、今もまた幻を見ているのではないかという気になった。
謁見の裏庭の四阿に据えられた大理石の机を一同は囲んでいる。磨き込まれた机の上には大きなクヴラフワの地図が広げられていて、領境や主要な街が一目で分かる。
ハーミュラーを凝視するユカリの失礼な態度に誰もが気づいていたが、ユカリの人となりを知るがゆえに、それがただの失礼なだけの態度でないことも分かっていた。ハーミュラーもまた特に口出しすることなく、地図にそっと視線を落とし、黙ってユカリの視線を受け止めている。
ユカリは存分に見つめ、まるで何が何だか分からないという結論を出し、いつもの癖でベルニージュの姿を探し始めた時、ようやく皆の視線に気付き、頬を赤らめる。
「すみません、長々と。私、不躾な態度でした。お許しください」
「いいえ。でもよろしければ訳をお聞きしてもいいですか? 私の顔に見覚えがありましたか?」
「いえ、別に、そういう訳ではないんですけど」というユカリの言葉の抑揚でベルニージュとレモニカはそれが嘘だと気づいている。「お綺麗な方だな、と思いまして」
ハーミュラーは上品な笑みを浮かべて受け止める。
「まあ、嬉しいことを仰いましたね。そうですか。気に入っていただけたなら光栄です。私はお世辞でも真に受ける質ですよ?」
「お世辞なんかじゃないです、本当に、本当です」
それは本心だった。佇まいは水辺に咲く一輪のように凛としながら、相貌は視界を覆い尽くす花畑のように惹きつけられる。その声音はさやさやと触れ合う木の葉のように控えめながら、絹に包まれるが如く心地よい。特に瞳、というよりも視線は一度合わせると焼き付くような太陽の如き力強さを持っていた。だが全体として線の細い姿は幻視した姿とは少し違うかもしれない。むしろ幻の方が溌溂としていた。
「このまま火照る顔をお見せするのは気恥ずかしいので本題に入りましょうね。ユカリさんへの説明がてら私たちと皆様の状況、関係をお話します。ああ、丁度良いところに」ハーミュラーの視線に促されて、皆が振り返る。「こういう物をいただけるのもシグニカ統一国のご協力あってのことなのですよ」
四阿にシシュミス教団の神官らしき男が入ってきた。カルストフと似たような白い服だが、ずっと素朴で、あるいは粗末だ。自信に満ちた榛色の瞳、乱れに乱れた銅色の髪の若い男だ。
ユカリは思わず咳き込む。「え? あれ? どうして――」
それはヘルヌスだった。ライゼン大王国の戦士であり、ソラマリアと共にシグニカ統一国に潜入した剣士だ。
「大丈夫だよ! ユカリ!」とベルニージュが大袈裟にユカリの肩をゆすり、黙らせ、そして囁く。「話合わせて」
ベルニージュがハーミュラーに向き直って弁解する。
「申し訳ありません、ハーミュラーさん。ユカリは昔から少し男性が苦手でして、驚いてしまったようです」
ベルニージュがそう言うのならそうなのだろう。男嫌いのベルニージュがそう言うものだからユカリはこみ上げるものを堪えるのに必死だった。
ユカリも肯定するように何度も頷く。ちらりとレモニカの姿をしたレモニカとソラマリアの方を盗み見るが、まるで知らぬ存ぜぬという様子だ。
何とか噴き出すのを堪え、笑みを湛えるに留める。
「もう大丈夫です。もう慣れました」ユカリは誤魔化そうとする。どうやら客人のための飲み物を持ってきたらしいヘルヌスにユカリは相対した。「こんにちは。初めまして。それってお茶ですか? 楽しみだなあ」
その途端ユカリの肩を握るベルニージュの指が喰い込む。台無しになるから嘘に加担するな、黙ってろ、という意味だ。
そうしてベルニージュはユカリにヘルヌスを紹介する。「こちらはミージェルさん。慣れない土地で困っていたワタシたちのお世話を買って出てくれた優しい優しい神官さんだよ」
ヘルヌスが挨拶を交わす前にハーミュラーが口を挟む。
「こちらこそ配慮が足りませんでした。申し訳ありません」ハーミュラーは心苦しそうにユカリを見つめる。「考えてみれば女性ばかりの皆さんに男性の世話人をつけるのが間違いでしたね。すぐに別の者を――」
「いえ、お気になさらず。ただでさえ人手が足りない土地でワタシたちのために古株の神官様の手を煩わせるわけには参りません」ベルニージュがわざとらしく心苦しそうな顔をヘルヌスに向ける。「ああ、決してミージェルさんのことを役立たずの新人と言っているわけではありませんよ?」
ヘルヌスが頬をひくつかせて答える。「ええ、もちろん。お気遣いなく」
その逞しい肉体に似合わない繊細さで器を配り、お茶を注ぎ終えるとミージェルことヘルヌスは四阿の外へ控えた。
どうやら随分と奇妙な状況らしい。つい一ヶ月ほど前までシグニカ統一国に潜入していたライゼン大王国の戦士が亡国クヴラフワの実質的な為政者であるシシュミス教団に正体を隠して潜入しているだなんて。それにベルニージュが庇うということは一時的な協力関係にあるのだ、とユカリは察する。
場を取り仕切るようにハーミュラーが口を開く。「皆さんは原因不明の、おそらく未知の呪災の一つによってラゴーラ領に運ばれたのだそうですね。ですがユカリさんだけは少々勝手が違った、と」
突然天井から糖蜜の垂れるようにゆっくりと人形が下りてきた。それぞれユカリ、ベルニージュ、レモニカ、ソラマリア、そしてユビスを表しているのだと分かる。人形は糸で吊るされた操り人形で、糸の先の天井には青白く輝く雲が立ち込めていて、その中から伸びていた。
ユカリ以外の人形はクヴラフワの中心、ビアーミナ市に着地し、ユカリ人形はゆらゆらと揺れながら流されて、西の方へ落ちた。そこがラゴーラ領なのだ。
「メグネイルという街でお世話になりました」とユカリが補足すると人形も正しいらしい位置へと移動した。「なんで私だけ西に流されたんだろう。暴れたからかな」
「そもそもワタシたちとは別の場所から運ばれたわけだから結果も変わったか、もしくは別の呪いなんじゃない?」とベルニージュは推測する。「ワタシたちは封呪の長城の外だけど。ユカリは?」
一応中かな、とユカリが答えるより先にハーミュラーが口を挟む。「外? つまり外に呪いが溢れているということですか?」
「ああ、言われてみればそういうことになりますね」とベルニージュは今気づいた風に頷く。「一応、アルガルタ高地の西側なのでクヴラフワの領土ですけど」
「直ぐにシグニカ側に警告しなくては」とハーミュラーが言うが早いか神官の男がやってくる。「それにガレイン、ハチェンタ、ライゼンにも」
ユカリ人形はメグネイルの街でくるくると回っている。巫女の言伝を携えた神官が走り去ると、ユカリ人形もまたビアーミナ市へと元気に腕を振って歩き始める。
「そしてユカリさんもこの街へやって来て、ご友人様方と無事に再会できた、と」一息ついてハーミュラーが口を開く。「ユカリさんも含め、皆さんがこの過酷なクヴラフワにやってきた目的は呪災の研究ということでしたね」
「それに呪災を解くことも」とユカリが無邪気を装って付け加える。
既にカルストフにそう説明してしまったのでベルニージュと事前に打ち合わせていたのだった。ハーミュラーの表情が僅かに曇る。
「黙っていて申し訳ありません」とベルニージュが引き継ぐ。「クヴラフワ救済は貴教団の宿願だということは存じ上げていましたので、出しゃばった真似だと考え、控えていました」
結局のところ魔導書を手に入れ、解呪していくつもりだから嘘ではない、とユカリは自分に言い聞かせた。
「お気になさらないでください」ハーミュラーは懐の深い笑みを浮かべる。「誰が救済しようとも、それを恨むことなどありえませんよ。むしろ是非ご協力願いたいものです。原因はどうあれビアーミナ市の真ん中に突然現れることのできる魔法使いなど数限られていましょう。何よりラゴーラ領の呪いを祓ったとか?」
空気が少しばかり張り詰める。ラゴーラ領を解呪したことについても隠さず話すつもりではあったが、ハーミュラー含め教団はまだ知らないはずだと踏んでいたのだ。
「それに関しては――」とベルニージュが言いかけたがハーミュラーに手で制される。
「ユカリさんに、ユカリさん自身の口からお聞かせください。ユカリさんが呪いを解いたのですから」
もう既にカルストフ神官長からの報告が届いているのだろうか。それも思いのほか詳細に。
「正直に言うとまだ解呪方法は明確になっていません」とユカリは決められた通りの台詞を喋る。
「では、どうやって?」というハーミュラーの疑問は最もだ。
「今回は追い詰められた状況であらかじめ用意していた魔術を片っ端から試しました。それらの魔術をお教えすることはできますが、何がどのように作用したのかはまだ分かりません」
ハーミュラーの眼差しは明らかに疑う者の探る眼差しだ。ユカリ人形たちは地図の中心で輪になって踊っている。
「一日も早く……」と口にしたハーミュラーの声は上ずっていた。小さく息をついて落ち着きを取り戻す。「一日も早くクヴラフワ救済をするためなら惜しむものはありません。長年の研究も全て公開いたしましょう。御存知の通り、望む結果は出せていませんが魔法を究めんとする方の役には立つはずです。皮肉なことに、これほどの実験場は世界のどこにもないでしょう。この国の、人々の苦しみは、共に暮らしてなお想像を絶します。皆を救うためなら、力及ばずながらも私は何だって致します。ですから、解呪の魔術が解き明かされた暁には是非ご共有ください」
声を震えさせまいとハーミュラーは気丈に振る舞っている。
ユカリは前に見て聞いたハーミュラーの幻を思い出す。実験と言っていたはずだ。どういう訳か分からないが、あの幻は過去を見せたのかもしれない。クヴラフワ救済のために尽力するハーミュラーの姿を。
胃の辺りに溜まった罪悪感を抑えてユカリは答える。「同じ思いとは申しませんが、私たちのクヴラフワを救いたい気持ちに嘘はありません。誠心誠意お手伝いさせていただきます」
追及をかわすにしてもベルニージュならばもっと上手くできただろう、とユカリは落ち込む。
魔導書のことは話せない。まだほとんど何も分かっておらず、話せることもないのだが、もしも分かっていたとしても救済機構の直ぐそばでは明かせない。
いつの間にかユカリ人形が変身している。魔法少女の魔導書まで再現されていた。