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君は鏡の前に立ち、ゆっくりと長い髪を結い上げていく。
ゆるく波打つ長い髪が、指の間を滑っていく感触は、まるで昨夜のワインの余韻のようだった。
窓の外には、雲の合間から淡い陽が射している。昼を過ぎた光は、どこか白く乾いていた。
ふと、鏡の中の自分と目が合う。
赤い瞳は静かに光り、少しだけ微笑んだ。
「……さて」
黒いコートを羽織り、玄関へ向かう。小さな鞄の中には、昨夜のカードが入っている。
《Bar Melancholia》の金文字が、なぜかさっきよりも深く刻まれているように思えた。
鍵をかける手が、ほんの一瞬だけ止まる。
胸の奥にある、ざわめきの正体はまだ分からない。ただ、行かなくてはならない気がした。
それは義務でも、好奇心でもない。
……もっと、何か根源的な「縁」のようなもの。
階段を降り、通りに出る。
(治……)
太宰の名を、心の中でそっと呼ぶ。
それが呼びかけなのか、それともただの確認なのか、自分でも分からなかった。
タクシーを止めると、運転手が振り返る。
「どちらまで?」
一拍の沈黙のあと、君はそっとカードを取り出して、運転手に見せた。
男は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに何も言わず、静かに車を発進させた。
窓の外の景色が、ゆっくりと流れていく。
現実の街が、少しずつ夜の帳に染まり始める。
——そして、そのまま、君を“あの場所”へと連れて行く。
ーーーーーー
同じころ。
太宰は探偵社の屋上に出て、タバコを一本取り出していた。
火をつけず、ただ指で回しながら空を見上げる。
「……今夜、か」
ポケットに手を入れる。そこには何もない。
けれど、心には残っていた。
青い瞳。あの言葉。そして——君の笑顔。
どれも現実かどうかは曖昧なままだ。
「人は、偶然なんて信じない。か……」
呟いたその声は、誰にも聞こえなかった。
けれど、まるで風だけが、その意味を知っているかのように、そっと太宰のコートの裾を揺らした。
夜が、再び、始まろうとしていた。