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#ころんくん
Yuka🍀🐼
79
ちゃちゃ@あきしお最高
281
#パクリ❌
スピーカーから流れるビート。
床を踏む足音。
ストレッチで伸びる布の擦れる音。
ウォームアップの声。
全部、聞き慣れたはずなのに。
今日のタイキには、どこか現実感が薄かった。
原因は、分かりきっている。
抱きたい。
昨日、ルイがあまりにもまっすぐに落としてきたその言葉。
それがまだ、頭のどこかに居座っていた。
夜が明けても消えなかった。
むしろ、朝になって少し冷静になったぶんだけ意味が濃くなった。
好きな相手に向ける気持ちとしては、たぶん自然なんだろう。
ルイが自分にそういう感情を持ってることは、もう昨日の時点で十分分かっていた。
分かっていたはずなのに。
いざ言葉にされると、全然違う。
タイキは床に座って足を伸ばしながら、こっそり息を吐いた。
スタジオの鏡に映るメンバーたち。
カノンはいつも通りストレッチしながら誰かに何か話している。
ゴイチは軽く肩を回していて、アダムは壁際で静かに体をほぐしていた。
そして少し離れたところに、ルイがいる。
トレーニングウェア。
ラフな黒のトップスに、少しゆるめのパンツ。
首筋にかかる髪を、何気なく手で払う仕草。
音源を確認しながら、軽くリズムを取っている横顔。
昨日までだって、何度も見てきた。
というかずっと見てきた。
相棒として。
親友として。
一番近い存在として。
なのに今日は、見え方が違う。
輪郭が、違う。
肩の線。
首筋。
手の大きさ。
ウェア越しに分かる体の動き。
ストレッチで上がる腕の角度。
そこにある“男”の形が、急にくっきりしてしまう。
「……っ」
タイキは思わず視線を逸らした。
だめだ。
ほんとにだめだ。
今までは、ルイのことを“そういう目”で見たことなんてなかった。
いや、好意を持ってからはもちろん意識していた。
でもそれはもっと曖昧な、熱っぽい、でもまだ自分でも整理しきれてない種類のものだった。
昨日のあの一言で、そこに急に輪郭がついた。
ルイは自分をそういう意味で見ている。
しかも、欲しがる側の熱で。
それを知ってしまったあとに見るルイは、もう前と同じじゃない。
(無理…仕事中に考えちゃダメなやつだ…)
「……集中!」
タイキは小さく、自分に向かって言った。
その声に自分で少しだけ救われる。
そうだ。
今は仕事だ。
ここで浮ついてる場合じゃない。
顔を軽く両手で叩く。
呼吸を整える。
音をちゃんと聞く。
見るな。意識するな。音に入れ。
何度もそう言い聞かせて、タイキは気持ちを切り替えるのに必死だった。
音が流れる。
ビートが身体に入ってくると、少しだけ頭の中が静かになる。
立ち位置。
重心。
角度。
入りのタイミング。
仕事の時のタイキは、そういう整理が速い。
感情がうるさい時ほど、逆に動きで黙らせる癖がある。
一歩、入る。
次のカウントで肩を切る。
足で拍を刻んで、重心を落として、体のラインをつくる。
音楽に入っていく。
さっきまで頭を占めていた余計な熱が、少しずつ別の熱に変わる。
踊るための熱。
魅せるための集中。
音を身体の芯に通していく時の、研ぎ澄まされた感覚。
タイキの表情が変わる。
鏡越しに見ても分かるくらいだった。
さっきまで少し落ち着かなかった視線が、すっと定まる。
空気を読むんじゃなく、空気を作る顔になる。
ひとつひとつの動きに、迷いがなくなっていく。
強い。
しなやかで、でも芯がある。
鋭いのに、どこか引力がある。
気合を入れ直したのが、自分でも分かる。
切り替えた。
そう思った瞬間から、タイキのパフォーマンスは一段上がった。
ただ正確に踊るだけじゃない。
感情の熱までコントロールして、逆に魅力へ変換していく。
その変化に、最初に持っていかれたのはルイだった。
⸻
ルイは最初、普通に合わせるつもりでいた。
昨日の夜を引きずりすぎないように。
今日またタイキの気持ちを煽りすぎないように。
できるだけ、でもちゃんと見守るくらいの距離でいようと。
そのつもりだったのに。
音が入って、タイキが変わった瞬間。
ルイは一拍遅れて息を呑んだ。
「……っ」
鏡の向こうで、タイキの目が変わる。
知っている顔だった。
仕事に本気で入った時の顔。
自分の感情ごと音楽に叩きつける時の顔。
ステージでも、リハでも、たまに見せるあの強い表情。
でも今日は、そこに何かもう一段深いものが乗っていた。
昨日の夜。
ルイの言葉でぐるぐるして、真っ赤になって、でも逃げなかったタイキ。
その熱の名残を抱えたまま、それを全部パフォーマンスに変えている。
それが、異様に色っぽかった。
一つ目のターン。
着地の軽さ。
肩の切り方。
視線を流すタイミング。
汗をかく前の、まだ少し乾いた表情のまま、芯だけ熱い。
ルイは思った。
やばい。
昨日、自分が持っていったはずなのに。
今日は逆に奪われている。
音に乗っているタイキは、もともと強い。
でも今日は、そこに“見てしまった人間の熱”が混ざっていた。
たぶん本人は無意識じゃない。
むしろ意識しすぎて、それを全部集中に変えている。
その必死さごと、ルイには刺さる。
たまらないな、と思う。
そう思ってしまった時点で負けだった。
「……ルイ?」
隣でカノンが何か言った気がした。
でも半分くらいしか入ってこない。
「え、ああ、ごめん」
ルイはとりあえず返したものの、視線はまたタイキへ戻ってしまう。
ほんとに、奪っていく。
そういう顔をするつもりでやってるわけじゃないのが分かるから、余計にまずい。
タイキはただ切り替えてるだけだ。
自分の浮ついた気持ちを、仕事に持ち込みたくなくて。
たぶん必死で集中してるだけ。
でもその必死さが、ルイにとっては一番危ない。
⸻
休憩が入る。
音が止んで、空気が少しほどける。
みんな一斉に水の方へ向かったり、床に座ったり、首元を拭ったりし始める。
タイキは少し息を上げたまま、ペットボトルを取った。
トレーニングウェアは汗で少しだけ肌に沿っていて、首筋にも薄く汗が浮いている。
ルイはそれを見た瞬間、また持っていかれる。
タイキはキャップを開ける。
少しだけ上を向いて、水を飲む。
喉が動く。
汗を流したあとの横顔。
少しだけ乱れた前髪。
息を整えながらも、まだどこか仕事の熱が残っている目元。
ルイは、思わず見つめた。
好きだな、と思う。
どうしようもなく。
昨日の夜みたいに、近くで甘い空気の中にいる時ももちろんそうだ。
でも今、こうして汗を流したまま水を飲んでる横顔にまで、こんなふうに心臓を持っていかれるのが、たぶん一番厄介だった。
ほんと、奪っていく。
ルイは心の中でそう呟く。
欲しいと思う前に、持っていかれている。
こっちが何かする前に、視線も呼吸も全部奪われる。
タイキはたぶん、それに気づいていない。
いや、今日は多少は気づいているかもしれない。
でも、自分がどれだけルイの方を揺らしてるかまでは、たぶん分かっていない。
それがまた、たまらなく好きだった。
タイキがペットボトルを口元から離す。
その時、少しだけルイの方を見た。
ほんの一瞬。
でも目が合う。
昨日までなら、その一瞬でタイキの方が先に逸らしていた。
今日は違った。
少しだけ止まる。
それから、気づいたみたいに目を細めて、でもちゃんと逸らす前に呼吸をひとつ置く。
その“少しだけ止まる”が、ルイには十分すぎる。
ルイは思わず口元をゆるめた。
やわらかく、でもかなり危ない顔だったと思う。
タイキはそれを見て、たぶん一拍だけ固まる。
それから耳の先を少し赤くして、視線を外した。
もう、ほんとに。
「……無理」
ごく小さく漏れた声は、たぶん自分にしか聞こえていない。
「何が?」
アダムが横からペットボトルを取って、淡々と聞いてくる。
ルイは一瞬だけ黙って、それから笑った。
「なんでもない」
ほんとは全然なんでもなくない。
むしろ今かなり危ない。
でもそれを言うわけにもいかないから、ルイは喉を潤すみたいに自分も水を飲んだ。
冷たい水が入っても、全然静まらない。
タイキは少し離れた場所で、また呼吸を整えている。
その横顔を見ながら、ルイは静かに思う。
今日の夜、また来る。
来るのが楽しみで仕方ない自分も、もう隠すことはでかなかった。
仕事終わりの外は、もうすっかり夜だった。
昼のスタジオの熱を引きずったまま、街の空気だけが少し冷たい。
ルイとタイキは並んで歩いていた。
肩が触れるほど近くはない。
でも、昨日みたいにどこかぎこちなく距離を測る感じとも違う。
最初から“このあと一緒に行く”ことが決まっている帰り道は、それだけで少し空気が違った。
タイキはバッグの紐を肩にかけ直しながら、ちらりと横を見る。
ルイは前を向いたまま、静かだった。
何か無理に話しかけてくるわけでもなく、かといって気まずいわけでもなく。
ただ、歩幅をちゃんと合わせてくれている。
会話は少ない。
「今日、最後の通しよかった」
と、ルイが一度だけ言って。
「……そっちも」
と、タイキが小さく返す。
それだけで、また少し沈黙が落ちる。
でも、その沈黙は嫌じゃなかった。
むしろ今は、それくらいがちょうどいい。
昨日の夜、あんなに濃い時間を過ごして。
そのあと今日一日、スタジオでも何度も視線が交わって。
それでもちゃんと仕事を終えて、こうしてまた一緒に帰っている。
それだけで、もう十分すごいことみたいに思える。
歩きながら、タイキは自分の胸の内を少しだけ探る。
緊張してないわけじゃない。
むしろ、してる。
ルイの家にまた行く。
昨日、自分から「明日も来ていい?」なんて言った手前、変に意識してしまう部分だってある。
でも、不思議と昨日ほどの張り詰め方じゃなかった。
怖さよりも、今日は“行きたい”の方がちゃんと前にある。
その違いが、自分でも少しうれしかった。
ルイのマンションが見えてくる。
昨日と同じ道。
同じ建物。
なのに今日は、少しだけ息がしやすい。
エレベーターに乗って、上へ向かう。
小さく響く機械音。
二人きりの空間。
それでも今日は、昨日みたいに息を詰めて立つ感じではなかった。
タイキは前を向いたまま、小さく言う。
「……今日、静かだな」
ルイが少しだけこっちを見る。
「うるさい方がいい?」
「別に、そういう意味じゃねぇよ」
「じゃあよかった」
ルイは低く笑う。
「今日のタイキ、なんかちょうどいい」
その“ちょうどいい”に、タイキは小さく眉を寄せる。
「何それ」
「安心してる感じ」
ルイはさらっと言う。
「俺は嬉しい」
そういうことを普通に言うから困る。
でも、今日はその困り方も昨日より少しだけやわらかい。
エレベーターが止まる。
廊下を歩いて、部屋の前まで来る。
ルイがポケットから鍵を取り出す。
その何気ない仕草を横で見ながら、タイキはふっと肩の力を抜いた。
昨日は、この玄関の前に立っただけで無駄に心臓が跳ねていた。
もちろん今日もゼロではない。
でも、今は少しだけ違う。
“また来た”じゃなくて、
“また来たかった場所に来た”感覚。
ルイが鍵を差し込みながら、横目でタイキを見た。
「今日はさ」
ドアを開けながら、やわらかい声で言う。
「なんかデリバリーして食べようか」
タイキが少しだけ目を瞬く。
「……作んねぇの?」
「作ってもいいけど」
ルイは玄関の灯りをつけて、先に靴を脱ぎながら笑う。
「昨日に比べて、今日はたぶんもう少しだらっとしたい」
「あと、タイキと一緒にメニュー見るの楽しそう」
その言い方が妙に自然で、タイキは少しだけ口元をゆるめた。
「何それ」
「そのまんま」
「……変なの」
言いながら靴を脱いで部屋に上がる。
昨日と同じ部屋。
同じ匂い。
同じ照明。
なのに今日は、入った瞬間に体が強張る感じが少なかった。
ルイはスマホを持ってきて、ダイニングではなくそのままリビングのローテーブルに置いた。
その自然さにつられて、タイキもソファへ向かう。
昨日は、座る位置ひとつにもいちいち意識がいっていた。
どこに座るか、近すぎないか、向かい合うのか。
そんなことばかり考えていた気がする。
今日は。
気づけば、隣に座っていた。
ぴったりではない。
でも、不自然に離れてもいない。
普通に二人でスマホの画面をのぞけるくらいの距離。
座ってから少しして、そのことに気づいたタイキは内心で小さく驚いた。
…隣、ふつうに座れてる。
昨日の緊張感に比べたら、それだけでもだいぶすごい。
近いのに、まだちゃんと話せる。
心臓はうるさいけど、逃げたくなるほどではない。
それどころか、今はこの距離が妙にしっくりきている。
ルイがデリバリーアプリを開く。
「何食べたい?」
「……なんでも」
「それ一番困るやつ」
「じゃあ、お前決めろよ」
「タイキが食べたいもの知りたい」
「……急に優等生みたいなこと言うな」
ルイが少し笑う。
その笑い方が今日は近い。
「じゃあ、和食系?」
「この時間に和食のデリバリーあんの」
「探せばある」
「へぇ」
二人で画面をのぞき込む。
タイキは途中から、もう普通に身を乗り出していた。
ルイの肩が視界の端に入る。
たまに少しだけ腕が近くなる。
でも、それでいちいち固まらなくなってる自分に気づく。
「これ、どう」
ルイが画面を見せる。
「海鮮丼と、うどんのセット」
「……お前、そういうの好きだよな」
「タイキは?」
「俺は、唐揚げある方がいい」
「子ども?」
「うるせぇ」
思わず返した声が、思ったより普通で。
タイキは自分で少しだけ笑いそうになった。
ルイもすぐ横で笑っている。
「じゃあこれ」
「丼ものと、揚げ物系もある」
「サイドでポテトも頼める」
「ポテトいらねぇだろ」
「え、いるでしょ」
「いや、いらねぇって」
「でも結局食べるじゃん」
「……食うけど」
そのやり取りに、自分でも驚くくらい肩の力が抜けていく。
昨日の夜のあの濃さを知ってる相手と。
“抱きたい”だの“足りなくなった”だの言い合った相手と。
その翌日に、こうして隣でデリバリーのメニューを見ながらポテトで言い合ってる。
なんか、変だ。
でも、すごくいい。
タイキは少しだけ息を吐く。
たぶん今、自分はかなり安心した顔をしてる。
そんな自覚がほんの少しあった。
「じゃあ、これ頼む?」
ルイが聞く。
「……うん、それでいい」
「ほんと?」
「お前、まだなんか追加したい顔してる」
「いや」
ルイは笑いながら指を動かす。
「タイキが素直にうんって言うから、ちょっと嬉しくて」
「……いちいち言うなよ」
注文が確定する。
配達予定時刻が表示される。
「二十五分くらいだって」
「結構早いな」
「混んでないのかも」
「そうかもな」
ふっと、会話が途切れる。
でもその沈黙は、昨日とはまるで違った。
無理に埋めなくていい沈黙。
隣にいること自体がもう自然になり始めてる感じ。
タイキは背もたれに少しだけ体を預けた。
視線の先には何もついていないテレビ。
その黒い画面に、自分たちの並んだ姿がぼんやり映っている。
隣同士。
昨日の自分に見せたら、たぶん無理すぎて倒れる。
「……なんか」
タイキがぽつりと言う。
「ん?」
ルイが向く。
「昨日に比べたら、だいぶ普通だな」
その言葉に、ルイが少しだけ目を細めた。
「普通、ね」
「いや、普通ではねぇか」
タイキはすぐに言い直す。
「でも、昨日よりは」
「うん」
ルイはやわらかく頷く。
その言い方に、タイキはほんの少しだけ照れる。
でも、否定しなかった。
「……まぁ、たぶん」
「たぶん?」
「慣れたわけじゃねぇけど」
タイキは視線を前に向けたまま言う。
「今日、ちゃんと一日あったし」
「仕事して、顔見て、普通に喋って」
「そのあとでここ来たから」
「……昨日ほど、わけわかんなくなくなってないかも…」
最後の方は少しだけ小さくなる。
ルイはその言葉を、ものすごく大事なものみたいに聞いていた。
それが分かる空気だった。
「そっか」
ルイが静かに返す。
「それ、かなり嬉しい」
タイキは横を見ない。
でも、ルイが今きっとやわらかい顔をしてるんだろうな、とは分かる。
「……なんで」
「タイキ、安心した顔してるから」
その一言に、タイキは少しだけ目を見開いた。
安心した顔。
そんなの、自分ではちゃんと見えていなかった。
でも、ルイには分かるんだと思うと、胸の奥がじんとあたたかくなる。
「……してる?」
「してる」
ルイはすぐ答える。
「昨日はもっと、ずっと肩に力入ってた」
「今日は今のとこ、ちゃんとここにいる感じする」
ちゃんとここにいる。
その表現が妙にしっくりきて、タイキは小さく唇を噛んだ。
そうかもしれない。
昨日は、気持ちも体も追いつかなくて。
ずっとどこか浮いてた。
でも今日は、ちゃんとこの部屋に入って、ちゃんと隣に座って、ちゃんと一緒に夜を始めてる感じがある。
それはたぶん、ルイが急がないからだ。
昨日のあと今日一日をちゃんと挟んだからだ。
それでも、自分がまた来たいと思ったからだ。
「……そっちこそ」
タイキが小さく言う。
「ん?」
「今日、なんか……落ち着いてるな」
ルイが少しだけ笑う。
でもその笑いの奥で、たぶん本音は違う。
「がんばってる」
「何を」
「タイキが安心した顔してるから」
ルイは少しだけ声を落とす。
「それ壊したくないなって思ってる」
タイキの喉が小さく鳴る。
その言葉を、こんなふうに隣で聞くのはだめだ。
普通に話せてたのに、一瞬でまた胸が熱くなる。
でも昨日と違うのは、その熱に飲まれきらないことだった。
ちゃんと受け止めながら、まだここに座っていられる。
タイキは少しだけ息を吐いて、それから小さく呟く。
「……やさしいな、お前」
ルイはそれにはすぐ答えなかった。
たぶん、照れてる。
少ししてから、ほんのわずかに照れた声で言う。
「好きだからじゃない」
その返しに、タイキは思わず肩を揺らした。
でも今日は、そこで黙り込むだけじゃない。
「……そういうとこだよ」
小さく返すと、ルイが隣で笑った。
昨日に比べたら、だいぶ穏やかな夜の始まり。
でも、たしかに昨日の続きでもある。
隣同士で、少しずつ、普通に話せるようになっている。
そのことが、タイキには思っていたよりずっと嬉しかった。
⸻
ルイは、タイキの横顔をこっそり見ながら思っていた。
安心した顔してる。
それが、たまらなく嬉しい。
昨日はこの部屋に入った瞬間から、タイキの呼吸が浅くなっているのが分かった。
座る位置にも迷って。
目が合うだけで赤くなって。
その全部が可愛くて、同時に少しだけ申し訳なくもあった。
でも今日は違う。
玄関に入った時の肩の力が、昨日よりずっと軽い。
ソファにも自然に座った。
しかも隣に。
デリバリーの画面をのぞき込みながら、普通にくだらない話をして、ポテトで軽く言い合って、ちゃんと笑っている。
その小さな変化のひとつひとつが、ルイには大きかった。
昨日より、ここにいてくれてる。
その実感がある。
たぶんタイキはまだ、自分がどれだけルイを安心させてるか分かっていない。
“明日も来ていい?”って聞いた時点で十分だったのに、こうして実際また来て、しかもこんな顔をしてくれる。
嬉しくないわけがない。
でも、だからこそ欲張らない。
この安心した顔を守ることが、今はたぶん一番大事だ。
焦らせないで。
ちゃんと笑える夜にする。
気づいたら少し近くなってた、くらいの夜にする。
それが今日の正解だと、ルイは静かに思った。
それでも時々、隣にある肩の気配に視線が引かれる。
仕事終わりの名残をまだ少し残した横顔。
メニューを見てる時の真面目な目。
笑う時、少しだけ口元がやわらぐところ。
見ているだけで、胸の奥がじんわり満たされていく。
タイキがふとこちらを見て、「なに」と小さく言う。
見すぎていたのがばれたらしい。
ルイは少しだけ笑って、正直に答える。
「いや」
「安心した顔してるなと思って」
タイキはまた少し照れたみたいに視線を前に戻した。
でも、その反応すら昨日よりやわらかい。
ルイは、そんなタイキの横顔を見ながら、胸の中で静かに思った。
今日、来てくれてほんとによかった。と。
デリバリーの到着予定までは、まだ少し時間があった。
ソファに並んで座ったまま、二人の間にはさっきよりずっとやわらかい空気が流れている。
昨日みたいに、何を言っても熱に直結するような切迫感ではない。
もちろんまったく意識していないわけじゃない。
でも、少なくとも今はちゃんと笑えて、ちゃんと話せている。
それがタイキには少し嬉しかった。
ルイの家。
隣同士のソファ。
好きな相手。
昨日までの自分なら、こんな条件が揃った時点でとっくに呼吸が変になっていた。
それなのに今日は、少しだけ違う。
もちろん心臓はうるさい。
でも、そのうるささごとここにいられる感じがした。
ルイがスマホをローテーブルに置いて、少しだけ背もたれに体を預ける。
タイキもつられるように肩の力を抜いた。
「配達の人、結構早めだな」
タイキが画面の通知を見ながら言う。
「うん」
ルイが隣で答える。
「タイミングよかったかも」
「俺らが優柔不断じゃなかったからだろ」
「え、どっちが?」
「ポテト入れるかでちょっと迷ってたのお前だし」
「最終的に食べるのタイキじゃん」
「……食うけど」
また小さく笑いがこぼれる。
タイキは、その笑いの余韻の中でふと思う。
昨日のあの濃さを知ってるのに、こうしてくだらない会話で和めるの、なんかすごいな、と。
その時だった。
ルイがテーブルの上のリモコンを取ろうとして、少しだけ前に身を乗り出す。
同じタイミングで、タイキもさっき置いたスマホを取ろうとして動いた。
「……あ」
肩がぶつかる。
ほんの軽く。
それだけのはずだった。
でも、タイキの方がバランスを崩した。
ソファの座面に少し浅く座っていたせいで、重心が思ったより前へ落ちる。
腕で支えようとして、置き場所を間違える。
気づいた時には、ルイの方へ倒れ込むような体勢になっていた。
「タイキ」
低い声と同時に、ルイの腕が伸びる。
支えられる。
腰のあたり。
反対側の手は、タイキが落ちないようにソファの背に添えられている。
一瞬で、距離がなくなる。
「……っ」
タイキの呼吸が止まる。
ルイに半分乗りかかるみたいな格好になっていた。
顔が近い。
近すぎる。
とっさに手をついた先が、ルイの胸元だったことに気づいて、さらに思考が止まりかける。
中学の頃から知ってるはずの幼いルイではもう無い。気付けば背も伸びて、手だって大きくなって、手をついた胸元だって…
呼吸に合わせてわずかに上下する感触がやけにリアルだった。
だめだ、と頭のどこかで分かるのに、体がすぐには離れられない。
ルイも動かなかった。
たぶん、動けなかった。
支えている腕に力が入っているのが分かる。
腰に回った手も、ちゃんと止めるためのもののはずなのに、熱だけは隠しきれていない。
視線が、合う。
さっきまでのやわらかい空気とは明らかに違う。
静かで。
危なくて。
呼吸の浅さまで見えてしまう距離。
タイキは喉が鳴るのを止められなかった。
その喉元にルイの視線が一瞬落ちたのがわかる。
ルイの目が、ほんの少しだけ深くなる。
昨日の夜、何度も見た目だった。
でも今は、それがこんなに近くにある。
「…ル…」
タイキが何か言おうとした、その瞬間。
ピンポーン。
部屋にチャイムが鳴る。
二人とも、同時に止まった。
一拍遅れて、現実が戻ってくる。
「……っは」
ルイが小さく息を吐く。
タイキは慌てて体を起こした。
離れる。
さっきまで触れていた場所が急に遠くなって、逆に全部意識してしまう。
「ご、ごめ……」
「いや」
ルイもソファから少しだけ身を起こして、短く首を振る。
「……タイミング、よすぎるな」
その言い方が少しかすれていて、タイキの胸がまた大きく跳ねる。
ルイもかなりきてた。
それが分かってしまう声だった。
チャイムがもう一度鳴る。
「あー……」
ルイが目元を押さえるみたいに一度だけ顔を伏せて、それから立ち上がった。
「取ってくる」
「……うん」
タイキは動けないまま頷く。
ルイが玄関へ向かう背中を見送る。
その足取りは落ち着いて見える。
でもさっきまでの熱を、たぶん完全には消せていない。
玄関の方でドアを開ける音。
「ありがとうございます」と、いつもの落ち着いた声。
受け取りのやり取り。
そのわずかな時間で、タイキはようやく自分の呼吸を思い出した。
「……なにあれ……」
誰に聞かせるでもなく、小さく漏れる。
安心したと思ったのに。
普通に話せてると思ったのに。
たったあれだけで一気に空気が変わるとか、やっぱり全然だめだ。
腰に添えられた手。
支えられた時の力。
近かった顔。
胸元に触れてしまった手のひらの感触。
思い出しただけで、ますます顔が熱くなる。
一方、玄関で袋を受け取ったルイは、ドアを閉めたあと一度だけ静かに息を吐いた。
危なかった。
本当に、ちょっと危なかった。
あれがチャイムじゃなかったらどうしてたか、正直あんまり考えたくない。
支えたまま、たぶん数秒は固まっていた。
タイキも。
自分も。
あの距離で、あの目をされたまま、あと一歩でも空気が進んでいたら――
そこから先は、今は考えない方がいい。
ルイはデリバリーの袋を持ったまま、ほんの少しだけ苦笑した。
安心させないと。
せっかく今日は、タイキが昨日より落ち着いてここにいてくれていた。
隣にも自然に座って、安心した顔まで見せてくれていた。
それを、今の事故の余熱でまた全部ぎこちなくするのは違う。
平常心の皮をかぶれ。
そう自分に言い聞かせる。
内心は大荒れだ。
さっき触れた腰の熱も、視線の近さも、まだ全然残っている。
正直、今すぐ台所で冷たい水でも飲みたいくらいには心臓がうるさい。
でも、戻ったら普通にする。
タイキがまた肩に力を入れないように。
“今のは事故”で片づけられるくらいの空気に戻してやる。
ルイはもう一度息を整えてから、リビングへ戻った。
「腹減ったよな。食べよ」
そう声をかけながら、できるだけいつも通りの顔で袋をローテーブルに置く。
タイキが少しだけ顔を上げる。
まだ耳が赤い。
でも、さっきよりはちゃんとこっちを見られている。
よし、とルイは内心で思う。
このくらいなら戻せる。
袋を開ける。
容器をひとつずつ出していく。
テーブルの上に並べる。
「お」
ルイはひとつの容器を見て、わざと少し明るい声を出した。
「タイキの、旨そう」
笑顔までつくる。
その笑顔の内側では、まだ全然落ち着いていなかった。
さっきの事故を思い出すたび、心臓が余計な打ち方をする。
でもそれは一切出さない。
タイキはその言葉に、少しだけ視線を落としてから小さく返す。
「……お前のも、うまそう」
その声音が少し照れていて、ルイの内心はまた無駄に荒れる。
だめだ。
ほんとに、安心させたいのにこっちの理性ばっかり削られる。
それでも表面だけは崩さない。
「ちゃんと腹減ってたしな」
ルイは容器を並べながら言う。
「冷める前に食おう」
「……うん」
タイキが頷く。
ひとまず、さっきまでの危険な空気は回避した。
完全に消えたわけじゃない。
でも少なくとも今は、食べられる。
話せる。
また隣同士でいられる。
それでいい。
今は、それでいい。
(…動揺しすぎだ。落ち着け俺)
ルイはそう思いながら割り箸を割って、ひとつをタイキに渡す。
「はい」
「……ども」
指先が少しだけ触れそうになって、でも今度はちゃんと何も起こらない。
その何も起こらなさに、ルイは少しだけ安心して、少しだけ寂しくなって、内心でまた苦笑した。
ほんとに、今日は大荒れだ。
でも、タイキがようやく容器のふたを開けて、ちゃんと食べようとしている姿を見たら、その気持ちも少しだけ落ち着く。
安心、させる。
今日はちゃんとそれをやる。
その先のことは、またあとで考えればいい。
ルイは自分にも言い聞かせるように、穏やかな声で言った。
「いただきます」
タイキも小さく返す。
「……いただきます」
そして夜は、もう一度だけ少し落ち着いた顔をして、続きを始めた。
デリバリーの容器を開ける音が、妙に現実的だった。
湯気の立つ丼。
揚げ物の匂い。
ソースの小袋。
さっきまであんなに危険だった空気を、一度だけ日常に引き戻してくれるみたいな光景。
ルイが「いただきます」と言って、タイキも小さく返した。
箸を持つ。
唐揚げをひとつ取る。
口に運ぶ。
味はちゃんとする。
うまい。
でも、舌より先に別のことばかり意識してしまう。
さっきの事故。
腰を支えられた手。
近すぎた顔。
胸元に触れてしまった感触。
あの数秒で、一回落ち着いたはずの心臓がまた完全に持っていかれた。
…戻れないって、こういうことなんだ。
タイキは静かに思う。
ルイが気を遣ってくれているのも分かる。
今みたいに普通のテンションへ戻そうとしてくれているのも。
わざと明るく「旨そう」とか言って、空気を整えてくれているのも。
でももう、たぶん無理だ。
一度触れてしまうと、意識をリセットするまでに時間がかかる。
それは昨日から今日にかけて、もう十分すぎるくらい実証済みだった。
昨日、手を繋いだだけでだめだった。
今日、その余韻を抱えたままスタジオに行って、ルイの見え方まで変わった。
だったら、今さっきのあの距離をなかったことにして、また平気な顔でいられるわけがない。
だから、ごめん、ルイ。
さっきので今日は俺、意識しないのはもう無理かもしれない。
胸の中で、そう静かに呟く。
でも不思議と、パニックではなかった。
昨日なら、ここでまた逃げたかもしれない。
トイレに立つとか、飲み物を取りに行くとか、無理やり呼吸を整えに行ったと思う。
今日は違う。
だめだと分かったから、逆に腹が括れた。
ああ、もう無理なんだ。
じゃあ、もう無理なまま行くしかない。
そう思った瞬間、タイキの中の何かが少しだけ静かになる。
ルイは向かいじゃなくて隣にいる。
ローテーブル越しじゃなく、同じ高さで。
その距離にまだ熱はある。
でも今は、その熱を見ないふりするより、ちゃんと持ったままここにいた方が楽だった。
タイキは唐揚げをもうひとつ箸でつまんだ。
衣が少し大きめで、いい匂いがする。
それを見た瞬間、何の前触れもなく口が動いた。
「……からあげ、一個、食う?」
ルイがぴたりと止まる。
「え」
「いや」
タイキはそのまま、妙に落ち着いた声で続ける。
「これ、思ったよりうまい」
自分でも驚くくらい自然だった。
照れてないわけじゃない。
心臓はちゃんとうるさい。
でも、さっきまでみたいに逃げ腰ではない。
唐揚げを持った手を、そのまま少しルイの方へ寄せる。
距離が、縮む。
ほんの少し。
でも昨日の自分なら絶対にやらない近さだった。
ルイは動揺していた。
表面にはあまり出さないようにしているけど、分かる。
目の奥がわずかに揺れて、呼吸のタイミングがほんの少しずれた。
……タイキ、今何を考えてる?
たぶん、そう思っている顔だった。
ルイはそれでもちゃんと受け取る。
少しだけ身を寄せて、箸先の唐揚げを食べる。
「……うま」
小さくそう言って、元の位置に戻る。
それだけ。
それだけなのに、タイキの胸の奥はじわっと熱い。
自分から食べさせた。
この距離で。
ルイに。
その事実が遅れて効いてくる。
でも、もう後戻りはしなかった。
「あ、それ俺のよりうまいかも」
ルイがわざと少し軽く言う。
「一個食っただけで分かるかよ」
「分かる」
「じゃあ交換する?」
「それは嫌」
そんな何でもないやり取りの途中で。
タイキの口が、また少しだけ本音に先を越された。
「今さ… ちゃんと意識してんのに」
ルイがこちらを見る。
タイキは自分でも、今言ったことを数秒遅れて受け止めた。
でももう止まらない。
「……ルイの隣、落ち着く」
静かだった。
あまりにも本音で。
言った瞬間、タイキは自分で少しだけ目を見開く。
でも、今さら引っ込める気にはならなかった。
言ったついでだ。
ちゃんと聞こう。
そう思えたのは、今日ここまで来た自分を、もう少し信じたかったからかもしれない。
タイキはルイの方を向く。
ちゃんと。
真正面というほど大げさじゃない。
でも、誤魔化さない角度で。
「ルイは……どう?」
ルイの表情がわずかに止まる。
「俺とこのくらいの距離、落ち着く?」
声は、なるべく重くしなかった。
真剣になりすぎないように。
いつもの感じを少しだけ残して。
でも、ちゃんと届くように。
ルイはすぐには答えなかった。
たぶん、今のタイキの変化を受け止めていた。
さっきまで照れて、揺れて、引っ張られる側だったのに。
今は自分から距離を測ろうとしている。
その変化が、ルイにとっても思ったより大きかったのだと思う。
数秒してから、ルイが小さく息を吐いた。
「……落ち着くよ」
低い声。
「かなり」
タイキの喉が小さく鳴る。
ルイはそのまま続けた。
「正確に言うと、落ち着くし、ちょっと危ない」
「でも」
少しだけ目元をやわらげる。
「今のタイキとこの距離にいるの、すごい好き」
その返答に、タイキは少しだけ口元をゆるめた。
やっぱり、と思う。
自分だけじゃない。
ルイだってちゃんと揺れてる。
揺れてる上で、今の“ちょうどいい危うさ”を見てくれてる。
それが、少しうれしい。
「……そっか」
タイキは小さく言う。
「うん」
ルイも返す。
「タイキは?」
「だから、さっき言っただろ」
「落ち着く、って?」
「……うん」
そこで少しだけ視線を逸らす。
「意識してるのに、ってやつ込みで」
ルイが小さく笑う。
でも茶化さない。
ただ、やわらかく受け取る笑い方だった。
「その言い方、すごいな」
「何が」
「ちゃんと揺れてるのに、逃げてない感じ」
「……逃げたら、たぶん昨日と同じになるし」
タイキは小さく肩をすくめる。
「もう、そこまで戻るのも面倒くさい」
ルイが一瞬だけ黙って、それから少し困ったみたいに笑った。
「面倒くさいって」
「でも分かる」
その“分かる”が妙に嬉しい。
タイキは箸を持ったまま、少しだけ息を吐いた。
今日はどこまでなら、お互いに落ち着けるのか。
どこまでなら平気で、どこからが危ないのか。
それを、もう少しだけ試してみてもいい気がした。
昨日は、熱に飲まれるだけだった。
今日は違う。
近づいたら危ないことも分かってる。
でも、近づいた時に全部壊れるわけじゃないことも、少しずつ分かり始めている。
今日、どこまでなら落ち着けるんだろう。
もう少しだけ試せたらいい。
その気持ちに、タイキは自分で少しだけ驚く。
でも嫌じゃない。
むしろ、ちゃんと前に進んでる感じがした。
ルイはそんなタイキの顔を見ながら、まだ少しだけ内心でざわついていた。
さっきの事故のあと、また距離を開ける方へ戻ると思っていた。
少なくとも、今夜は一度そういう空気になったら、タイキの方が慎重になるだろうと。
なのに、今のタイキは違う。
落ち着いている。
いや、落ち着いているように見えて、実際はたぶんかなり意識している。
でもその上で、自分から一歩だけ詰めてくる。
唐揚げを食べさせてきて、隣が落ち着くと言って、さらに“ルイはどう?”と聞いてくる。
その変化が、思った以上にルイを揺らしていた。
……タイキ、今何を考えてる?
本気でそう思う。
昨日までなら、ルイが先に踏み出していた。
今日は、タイキが自分の足で距離を測ろうとしている。
それが嬉しい。
でも、ちょっと怖い。
嬉しすぎて、こっちの理性が追いつかなくなるから。
ルイはひとつ息を整えて、それから努めて穏やかな声で言った。
「じゃあ、今日はこのくらいが丁度いいのかもな」
タイキが目を向ける。
ルイは少しだけ笑う。
「このくらいの距離で一緒にご飯食べるの」
その提案に、タイキはほんの少し考えてから頷いた。
「……うん」
「それなら、できそう」
その“できそう”が、ルイの胸の奥を静かに満たす。
今夜は、これでいい。
これがたぶん、かなり大きい一歩だ。
「よし」
ルイは箸を持ち直す。
「じゃあ、ポテトも食う?」
「さっきいらねぇって言ったじゃん」
「でもこの流れなら食うだろ」
「……食うけど」
またそんなやり取りをしながら、二人は少しだけ肩の力を抜く。
隣にいる。
意識している。
それでも、今はまだ大丈夫。
その“まだ大丈夫”の輪郭を、二人で少しずつ静かに確かめていた。
食事がひと段落すると、テーブルの上には空いた容器と、少しだけ残ったポテトの塩気の匂いが残った。
さっきまでの会話の熱も、完全には消えていない。
でも、張りつめたものはだいぶほどけていた。
ルイがリモコンを手に取る。
「……映画でも見るか」
ルイがふと笑う。
タイキが少しだけ目を上げる。
「…うん」
ルイがテレビをつける。
暗めの画面が部屋に淡い光を落として、リビングの空気が少しだけ夜らしくなる。
配信サービスの一覧を流しながら、二人でなんとなく好みの映画を探す。
「これ、前にカノンが薦めてたやつ」
「え、怖いやつ?」
「いや、サスペンス」
「それ一番寝れなくなるやつだろ」
「じゃあ、こっちは」
「ラブコメ?」
「何その顔」
「別に」
「嫌?」
「……嫌じゃねぇけど」
「じゃあこれにする?」
「お前が観たいなら」
「タイキも嫌じゃないなら、これ」
そんなたわいのないやり取りのあとで、結局少し古めの洋画に決まる。
内容はゆるくて、音楽も静かで、夜にちょうどいいやつだった。
映画が始まる。
ソファの距離は、さっき決めた“このくらい”。
触れてはいない。
でも遠くもない。
肩が少し動けば気配を感じるくらいの隣同士。
最初のうちは、タイキもちゃんと画面を見ていた。
ルイのことを意識していないわけじゃない。
でも、それでも少しずつ“同じ場所で映画を観てる”普通っぽさが勝ち始めていた。
暗い部屋。
テレビの光。
低めの音量。
食後の満たされた体。
隣にいるルイの静かな体温。
安心したのだと思う。
気づけば、タイキのまぶたは少しずつ重くなっていた。
映画の中で誰かが笑っている。
その声が遠い。
画面が変わるたび、部屋の明るさがゆるく揺れる。
ルイの気配が近い。
香りがする。
昨日より知ってしまった、落ち着く匂い。
タイキは一度だけ、浅く息を吐いた。
ルイの方へ、ほんの少しだけ重心が寄る。
自分でも気づかないくらい自然に。
肩先が近づいて、布越しに体温の境目が曖昧になる。
ルイはその変化に気づいていた。
気づいていたけど、何もしなかった。
いや、何もできなかった。
映画の内容なんて、半分も頭に入ってこない。
タイキの肩が近い。
時々、眠気に引かれるみたいに少しだけ触れそうになる。
そのたびにルイの呼吸が浅くなる。
でも、起こしたくない。
せっかく安心して、こうして隣で力を抜いているのだから。
タイキの頭が、ゆっくり傾く。
一度、少しだけ起き直しかけて。
でもまた眠気に引かれて、今度はもっと深く落ちる。
ぐらり、と前へ。
「……っ」
反射だった。
ルイはすぐに腕を伸ばして、その頭を受け止めた。
完全に前へ倒れる前に両肩を支える。
自分の頬を掠める柔らかい髪の感触。
力が抜けた身体の重み。
タイキは起きない。
まぶたは閉じたまま、呼吸だけが少し深くなる。
ルイは息を止めたまま、しばらく動けなかった。
このまま元に戻すか。
起こしてしまうか。
でもソファに座ったまま頭を戻すのは、たぶん無理がある。
中途半端に触って起こすくらいなら――
「……仕方ないだろ、これ」
小さく自分に言い聞かせて、ルイは慎重に体勢を変えた。
ソファの座面に少し深く座り直す。
片手で頭を支えたまま、もう片方の手をタイキの肩へ回す。
ゆっくり。
本当に、起こさないように。
そのまま、そっと自分の膝の上に寝かせる。
タイキの頭がルイの腿に落ち着く。
重さがきちんと乗って、ようやく安定する。
「……まじか」
ほとんど声にならない呟きだった。
膝の上。
タイキが。
眠ってる。
髪が少し乱れて額にかかっている。
近い。
近すぎる。
でも寝顔は無防備で、あまりにも静かで、欲なんて持つ方がだめだと思う。
ルイはテレビの光に照らされたその横顔を、しばらく黙って見ていた。
長い睫毛。
眠っているせいで、いつもより少しだけ幼く見える表情。
呼吸に合わせてわずかに動く唇。
それが膝の上にある現実が、あまりにも危なかった。
それでも、目を逸らせない。
しばらくして、タイキが小さく身じろぎした。
「……ん」
浅く息をこぼして、寝返りみたいに体が動く。
ルイは慌てて支えたけれど、その動きは止まらなかった。
タイキはゆっくり身体の向きを変える。
そしてそのまま、ルイの方へ寄ってくる。
頬が腹のあたりに触れる。
さらに深くもぐるみたいに顔を埋めた。
「……っ!」
ルイの全身が硬直する。
洋服越しに伝わる熱。
柔らかい髪。
呼吸が、腹のあたりにかすかに当たる。
タイキは完全に寝たままだった。
ルイの苦労なんて知らずに、一番落ち着く場所を見つけたみたいな顔で、さらに少しだけ擦り寄る。
「……あったか……」
落ちたのは、寝言だった。
ルイは天井を仰ぎたくなった。
「あったか、じゃないんだよ……」
抗議みたいに呟く。
でも声は全然強くない。
むしろ、たまらなく甘かった。
タイキはそのまま眠り続ける。
腹に顔を埋めたまま。
片手はルイの腰のあたりの布を無意識に軽く掴んでいて、もう片方の手は自分の胸元に引き寄せている。
この距離で寝られるの、どうかしてる。
いや、寝てるからこそ、か。
ルイは片手を持て余した末、そっとタイキの肩のあたりに置いた。
抱き寄せるほどじゃない。
ただ、落ちないように。
それだけの理由で。
でも、その“それだけ”の形があまりにも親密で、ルイはしばらく映画の画面をまともに見られなかった。
やがて映画は終わって、エンドロールが流れる。
部屋には音楽だけが低く残る。
ルイはリモコンを取って音を少し下げた。
それでもタイキは起きない。
困った。
でも、困ってない。
いや、困ってる。
でも、このままでもいい気がしてしまう。
その矛盾を抱えたまま、ルイはソファに座り続けた。
タイキの重み。
体温。
時々、眠りの深さで少しだけ変わる呼吸。
自分の腹に触れる額の位置。
微かに届くシャンプーの匂いと、今日一日動いたあとの人のあたたかい匂い。
優しい時間なのに、危険でもある。
でもその危険ごと、今はとても静かだった。
結局そのまま、夜は朝方までほどけていった。
⸻
目を開けた時、最初に感じたのは重みだった。
ルイはまだソファに座ったままだった。
うっすら差し込む朝方の青い光。
テレビはもう暗くなっている。
部屋の空気は夜の終わりの静けさをまとっていた。
そして、膝の上にはタイキがいた。
いや、正確には――
膝の上から少し身体がずれて、でもまだ腹のあたりに顔を寄せたまま、半分抱え込むみたいな格好で眠っている。
ルイは天井を見たまま、静かに息を吐いた。
「……まだ、いる」
当然だ。
自分がここから動かなかったんだから。
でも、改めて意識すると破壊力が高すぎた。
その時、タイキも小さく身じろぎした。
「……ん……」
かすれた声。
まぶたが少し動いて、それからゆっくり開く。
数秒、焦点が合わない。
眠気の膜がまだ残ったまま、ぼんやりと自分のいる場所を探している顔。
そして、次の瞬間。
「……え」
一気に目が覚める。
ルイと目が合った。
いや、それ以前に状況が近すぎる。
腹のあたりに顔を寄せたまま。
肩にはルイの手。
自分の手はルイの服を軽く掴んだまま。
実質ゼロ距離だった。
「っ、え、ちょ……!」
タイキが慌てて起き上がろうとする。
その動きだけでルイの心臓も一緒に跳ねた。
でも反射で、ルイの手が先に動く。
「待って」
低い声。
横になったままのタイキの肩に、そっと手を置く。
押さえつけるほどじゃない。
本当に、逃げなくてもいいと伝えるみたいなやわらかい力で。
タイキの動きが止まる。
「……まだ、しばらくこのままでいい」
その声は、自分で言っておいて少し甘すぎると思った。
でも、もう隠す余裕もなかった。
タイキはルイを見上げる。
顔が、一瞬で熱を持っていくのが分かる。
「な、何言って……」
「起きるのはわかってる」
ルイは少しだけ苦笑する。
「でも、そんな慌てなくていい」
タイキの心拍数は、たぶん普通じゃない。
見て分かるくらい、呼吸が浅い。
喉が小さく上下して、目も泳ぎかけて、でも完全には逸らせない。
近いからだ。
近すぎるから。
寝起きの熱を持った体温。
ルイの服越しに伝わるあたたかさ。
朝方の静かな部屋に残る、昨日からの柔らかい匂い。
シャンプーの香りと、少しだけ残ったコーヒーの残り香と、ルイの体温と匂いが、近すぎる距離で混ざっている。
タイキはその全部にやられていた。
ルイの手が置かれた肩は、そこだけ妙に熱い。
腹に近い場所に顔を寄せていたせいで、呼吸ひとつにも敏感になる。
ルイの体温は高くて、でも落ち着く。
それがまた危ない。
「……俺」
タイキの声は、寝起きのせいで少しかすれていた。
「ずっと、このままだったの」
「うん」
「……うそだろ」
「ほんと」
ルイは正直に答える。
「途中で起こそうとしたけど」
「全然起きなかったし」
「俺の方に潜ってきた」
タイキの耳まで赤くなる。
「…覚えてない…」
ルイの服に視線を向けたまま、上なんて向けなかった。この距離で見てしまったら、なんかもう色々終わる気がして。
「あと」
ルイは少しだけ口元をやわらげる。
「“あったかい”って言ってた」
「……っっ!」
もうほんとに無理だった。
タイキは片手で顔を覆いたくなるのをこらえて、代わりにルイの服を掴んでいた指先を少しだけほどいた。
でも完全には離せない。
離したら離したで、今度はこの距離の現実味が増しそうで。
ルイはそんなタイキを見ながら、肩に置いた手をほんの少しだけ撫でる。
あやすみたいに。
起きたばかりの体を落ち着かせるみたいに。
その優しさが、またタイキの心臓をひどくする。
「ルイ……」
「ん?」
「優しくすんな……」
「無理」
ルイはすぐに言う。
「今のタイキに優しくしない方が難しい」
タイキは何も言えなくなる。
朝方の光はやわらかく、部屋の輪郭を薄くしていた。
その淡い明るさの中で、ルイの顔は夜より少しだけ素直に見える。
眠そうで、でも穏やかで、そして明らかに甘い。
タイキは息を整えようとする。
でも整わない。
ルイの香りが近い。
喉の動きが見える。
肩に置かれた手の熱が、布越しにずっと残っている。
「……起きる」
タイキがようやく言う。
「うん」
ルイは頷く。
「もうちょっとしたら」
「今じゃねぇのかよ」
「今だと、タイキまたどっか行きそうだから」
それは図星で、タイキは言い返せない。
もし今ぱっと解放されたら、たしかに一回洗面所にでも逃げたい気持ちはある。
呼吸を立て直したい。
顔の熱をどうにかしたい。
でも、ルイの言う通り。
今ここで急に離れるのも、たぶん少し違う気がした。
だからタイキは、観念したみたいに小さく息を吐く。
そして、ごくわずかにだけ。
ほんの少しだけ、力を抜いた。
それに気づいたルイの手が、また肩をそっと撫でる。
「……素直」
「何それ……」
「今、ちゃんとここにいてくれたから」
そんな言い方をされると、また逃げたくなるのに。
でも、その言葉の奥にある“焦らなくていい”が伝わってきて、タイキはますます何も言えなくなる。
結局二人は、朝方の静かな部屋で、もうしばらくそのままだった。
ゼロ距離。
触れ合ったまま。
でも急がず、壊さず。
タイキの心拍数だけは、最後まで全然普通じゃなかったけれど。
ルイの香りも、体温も、肩に置かれた手の優しさも、全部ひっくるめて。
たぶんその朝の数分間が、二人にとっていちばん甘い“起きたあと”だった。
朝の光は、夜よりずっと残酷だった。
暗がりの中なら誤魔化せた距離も、薄い青白さの中では輪郭を持つ。
自分がどこにいるのか。
ルイにどれだけ近いのか。
肩に置かれた手の位置まで、全部がはっきり分かってしまう。
タイキは、息を整えようとしていた。
でも整わない。
小さく吸って、少し長めに吐く。
また吸う。
それを繰り返しても、心臓のうるささだけはどうにもならない。
その浅い呼吸を、ルイはたぶんずっと見ていた。
横になったままのタイキの肩が、呼吸のたびに少しずつ上下する。
早すぎはしない。
でも、全然平常じゃない。
しばらくしてから、ルイが低く、やわらかい声で聞いた。
「落ち着いた?」
タイキは一瞬だけ目を閉じた。
その問いかけ方があまりにも優しくて、逆に胸の奥がきゅっとする。
「……まだ」
小さく返すと、ルイが少しだけ笑う気配がした。
笑うといっても、からかうんじゃない。
ちゃんと分かってる人の、静かな笑い方。
「だよな」
そのあと、ほんの一拍だけためらうような間があった。
それから、ルイの指先がそっと動く。
肩じゃなく。
頬でもなく。
ただ、髪にだけ。
額に少しかかっていた前髪を、撫でるとも整えるともつかない手つきで、やさしく触れる。
一度だけ。
本当に、許されるか探るみたいに控えめに。
タイキの喉が小さく鳴った。
髪に触れられただけなのに。
いや、だからこそかもしれない。
それ以上じゃないから、余計にやさしさばかりが伝わる。
ルイの指先は温かい。
朝方の少し冷えた空気の中で、そこだけが静かに熱を持つ。
「……ルイ」
呼ぶと、また小さく「ん」と返ってくる。
そのやり取りだけで、タイキは少しだけ呼吸が整うのを感じた。
心臓はまだだめだ。
でも、さっきみたいに今にも逃げ出したい感じではない。
ルイは髪に触れた手をすぐに離した。
そこも、ちゃんと優しい。
「何か朝飯、食べる?」
落ちてきた声は、夜よりも少し低く、やわらかかった。
寝起きの温度をそのまま含んだみたいな声。
タイキはそれに、小さく頷く。
言葉にするとまた変に照れそうで、まずはそれだけ。
でも、その頷きで十分だったみたいに、ルイの空気が少しゆるむ。
「よし」
ルイはそう言って、タイキの肩から手を離した。
それから慎重に、自分の膝の位置を少しずつずらす。
急に体勢を変えると落ち着きかけたものまで崩れそうだったから、動きはひどく丁寧だった。
ソファの端にあったクッションを引き寄せて、さっきまで自分の膝のあった場所へ差し込む。
そのあとで、タイキの頭をほんの少しだけ持ち上げて、クッションの上へと移していく。
ルイの膝の熱が、ゆっくりとクッションの柔らかさに変わる。
名残惜しい、なんて思った瞬間に、タイキは自分で少し目を見開いた。
でももう、それを否定する気力もない。
「ちょっとだけ待ってて」
ルイが低く言う。
ソファに残されたタイキは、しばらくそのまま動けなかった。
⸻
ひとりになった途端、急に静かになる。
いや、さっきまでだって静かだった。
うるさいのは自分の心臓。
でも今の静けさは、ルイの体温の代わりにクッションがある静けさだ。
タイキはゆっくり天井を見た。
朝の光。
ぼんやりした視界。
少しだけ重い身体。
そして、まだちゃんと残ってる熱。
「……やば」
小さく呟いて、片手で顔を覆う。
今、自分はルイの膝の上で寝ていた。
しかも腹に顔を埋めて。
あったかい、なんて寝言まで言って。
起きたあとも、肩に手を置かれて、髪まで撫でられて。
冷静に思い返せば思い返すほど、だいぶ終わっている。
でも、それ以上に厄介なのは、嫌じゃなかったことだ。
嫌じゃないどころか。
安心していた。
ものすごく。
ルイの膝の上。
腹に頬を寄せた距離。
体温。
香り。
肩に置かれた手。
全部、近すぎるのに。
普通ならパニックになってもおかしくないのに。
朝起きた瞬間こそ焦ったのに、そのあと少しずつ、落ち着いていく自分がいた。
それが今になって効いてくる。
「……ほんと…っ…」
静かにクッションに顔を埋めた。
ルイの家のだから、結局その香りからは逃れられない。だから息を止める。そして小さくまた呼吸をした。
昨日の夜から何度も思ってる。
でも、朝になってさらに実感した。
もう、前みたいな“近いけどただの相棒”の位置には戻れない。
というか、戻りたくないのかもしれない。
そう思ってしまう自分までいる。
ソファに横になったまま、タイキはそっと自分の髪に触れる。
さっきルイが撫でたあたり。
ただ髪に触れただけなのに、そこだけまだ熱を持ってる気がする。
「……何でだよ」
ほんの少し触れただけだ。
昨日の手だってそう。
今日の朝だってそう。
それなのに、その“少しだけ”のせいで、こっちはいちいち全部持っていかれる。
ルイが優しいのも分かる。
止めてくれてるのも。
急がせないようにしてるのも。
その全部が分かるから、余計にだめなのかもしれない。
やさしくされると、もっと欲しくなる。
そのことに、もう気づいてしまっている。
タイキは目を閉じて、小さく息を吐いた。
今すぐ立ち上がって洗面所に逃げたい気持ちも、少しだけある。
でも動きたくなかった。
ルイがさっきまでいた場所の余韻が、まだソファに残っている気がして。
その熱を少しだけ抱えたまま、もう少しここにいたい。
それがたぶん、一番まずい。
キッチンの方から、食器の小さな触れ合う音がした。
ポットに水を入れる音。
棚を開ける音。
それだけで、ルイがちゃんとそこにいるんだと分かる。
タイキはうっすら目を開けて、リビング越しのキッチンを見た。
朝の光の中で立つルイの背中は、夜より少し現実的だった。
ラフな服の皺。
寝起きの少し乱れた髪。
肩の線。
腕の動き。
昨日から何度も思い知らされてる。
今の自分は、もうルイを“ただ近い人”として見られない。
男として意識してしまう。
だから、あの背中を見てるだけでも胸の奥が静かに熱くなる。
「……朝飯…」
小さく呟いて、自分で少しだけ笑いそうになる。
でも、食べたい。
ルイと、まだ一緒にいたいから。
そう思ってしまうところまで含めて、たぶんもうかなりだめだった。
⸻
キッチンで、ルイはコーヒーを淹れながら静かに呼吸を整えていた。
朝になっても、結局落ち着かなかった。
というか、夜より危なかったかもしれない。
眠っていたタイキの重み。
腹に顔を埋めてきた無防備さ。
“あったかい”って寝言。
起きたあと、慌てるくせに完全には離れていかない感じ。
肩に手を置いた時の反応。
髪に触れた時の、息を止めるみたいな沈黙。
一個一個が、まだ身体のどこかに残っている。
ポットのスイッチを入れて、コーヒー豆を量る。
手順はいつも通り。
でも頭の中は全然いつも通りじゃない。
あのまま、もう少しだけ引き止めたかった。
朝の光の中で、まだしばらくこのままでいいと言ったのは、本音だった。
本当なら、もっと触れたかった。
髪じゃなくて、頬とか。
肩に置いた手を、そのまま背中へ滑らせるとか。
でも、それをしなかった自分を褒めるべきかどうかは微妙なところだ。
(…危なかった)
今日の朝のタイキは、夜より無防備だった。
寝起きのせいもある。
でもそれだけじゃない。
たぶん、ちゃんと安心していた。
ルイの膝の上で寝て。
起きても完全には逃げなくて。
髪を撫でられても、そのままそこにいた。
あれは大きい。
たぶん本人は、まだそこまで言語化していない。
でもルイには分かる。
タイキは、少しずつ自分の近くで力を抜けるようになってきている。
それが、うれしい。
だからこそ、ここで欲張るのはだめだとも思う。
お湯が沸く音がして、ルイはフィルターに湯を落とした。
香りがふわりと立ちのぼる。
朝のコーヒーの匂いは、夜とは少し違う。
少しだけ明るくて、少しだけ現実的で。
その香りの中で、ルイは昨日と今朝をゆっくり繋げて考える。
今日、このあとどうするか。
まずは朝飯。
重すぎないもの。
タイキが寝起きでも食べやすいもの。
それから、できれば焦らない会話。
“昨日と今朝、どうだった?”みたいな問い詰める空気にはしない。
でも、なかったことにもしたくない。
あの朝のゼロ距離は、たぶん二人にとってかなり大きかった。
そこを雑に流すのも違う。
(……難しいな)
でも、難しいと思うのはたぶんいいことだ。
簡単に扱えないくらい、今のタイキが大事だということだから。
ルイはコーヒーを落としながら、ソファの方をちらりと見る。
タイキはまだ横になったまま、少しだけこっちを見ていた。
目が合う寸前で、ふいっと逸らされる。
その感じに、ルイは小さく口元をゆるめた。
可愛い。
でも、今はそれを言わない。
ただ、朝飯を出して。
ちゃんと食べさせて。
昨日の夜から今朝までの熱を、少しやさしい形に変えていく。
今朝の正解は、たぶんそれだ。
それでも、髪に触れた時の感触を思い出すと、胸の奥がまだ少し熱い。
柔らかかった。
朝の光の中で見るタイキの顔も、無防備で、ひどく近かった。
困るのに、うれしい。
この矛盾はたぶん、しばらく消えない。
ルイはコーヒーを二つ淹れ終えて、静かにカップを持ち上げた。
朝が、ちゃんと始まる。
でもたぶん二人とも。
昨日の夜から続いているこの熱を、まだどこかで抱えたままだった。
ルイが朝食を持って戻ってきた時、タイキはようやくソファの上で身体を起こした。
さっきまで横になっていた名残で、髪は少しだけ乱れていて、目元にもまだ眠気が残っている。
でも、起き上がったことでまた現実が追いついてきたらしく、タイキはルイの顔を見た瞬間に少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「…起きた?」
ルイがローテーブルにトレーを置く。
トースト、卵、少しだけサラダ。
マグからはまだ湯気が上がっていた。
「……ん」
タイキは小さく返して、ゆっくり背筋を伸ばす。
寝起きのままルイの部屋で朝食の匂いを嗅いでいるこの状況が、まだ少しだけ信じられないみたいな顔だった。
ルイはその表情を見ながら、何でもない顔でカップを手渡す。
「熱いから気をつけて」
「……ありがと」
受け取ったタイキの指先が、マグの熱に少しだけ力を抜く。
その様子を見て、ルイはようやく少し安心する。
ソファに並んで座る。
さっきまでのゼロ距離に比べたら、今はちゃんと距離がある。
でも、昨夜よりは近いままだった。
その“近すぎず遠すぎない”隣で、タイキがぽつりとこぼした。
「俺のせいで……ルイ、ちゃんと休めてないだろ……」
目はカップの中に落ちたまま。
申し訳なさそうに、でもごまかさずに言う声だった。
ルイはその言葉を受け取って、少しだけ目をやわらげる。
「俺が、そうしたかった」
即答だった。
タイキがゆっくり顔を上げる。
ルイはそれ以上大げさな顔をしない。
ただ、本当にそう思ってる人間の静かな目で、タイキを見ていた。
「タイキが寝たの、俺の膝の上だし」
少しだけ口元をゆるめる。
「起こす方が無理だった」
「……それは」
タイキが気まずそうに眉を寄せる。
「……すみません」
「謝るとこじゃない」
ルイは小さく笑う。
「むしろ、かなり嬉しかったし」
その一言に、タイキの耳がまた少しだけ赤くなる。
でも今朝は、昨夜みたいにすぐ崩れない。
ちゃんと受け取って、ちゃんと照れている感じだった。
朝食を食べ始めると、会話は自然と少なくなる。
寝起きの静けさと、夜の余韻がまだ少しだけ部屋に残っていた。
トーストをかじる音。
カップを置く音。
時々交わる短い言葉。
「……うまい」
「よかった」
「卵、ちょうどいい」
「タイキ好きかなと思って」
「……なんで知ってんの」
「前に言ってた」
そんな何でもないやり取りを挟みながら、朝は少しずつ現実へ戻っていく。
一通り食べ終わって、タイキがカップの底を見つめていた時だった。
ルイが、今度は少しだけ落ち着いた声で言う。
「今日、午後からスタジオだろ」
タイキが頷く。
「……うん」
「一旦、家帰る?」
その言い方は静かだった。
帰したい、でも突き放したいわけじゃない。
ちゃんと、呼吸を整えるための提案。
ルイは続ける。
「一回リセットした方がいい」
“離れよう”じゃない。
“整えよう”のニュアンスが、ちゃんとそこにあった。
タイキは少しだけ目を伏せる。
たぶん、その違いをちゃんと受け取っている顔だった。
「……そうだな」
小さく息を吐く。
「このまま行ったら、今日たぶん」
「うん」
「……色々、無理かも」
ルイはそこで笑わない。
ただ、やわらかく頷く。
「俺も同じこと思ってた」
その返事に、タイキが少しだけ口元をゆるめる。
「お前もかよ」
「うん」
「かなり」
「……そう見えないのずるい」
「見せないようにしてるから」
その言葉に、二人の間で小さく笑いがこぼれる。
昨夜よりも、今朝よりも、少しだけ落ち着いた空気だった。
⸻
片づけを済ませて、いよいよ玄関に立つ頃には、部屋の中はもう完全に朝の明るさになっていた。
昨夜この玄関で、背中越しにキスを落とされたことまで思い出してしまって、タイキは靴を履きながらほんの少しだけ呼吸を浅くする。
でも今日は、それを顔に出しすぎないくらいには整えられていた。
ルイも、昨日みたいに不用意に近づきすぎない。
ちゃんと少し距離を持って、タイキが靴を履くのを待っている。
その静けさが、逆に名残惜しい。
「じゃあ」
ルイが低く言う。
「スタジオでまた」
「……うん」
タイキは立ち上がる。
でも、すぐにはドアの方へ向かわなかった。
ほんの一歩ぶんだけ、ルイの方へ向き直る。
言いたいことがある顔。
でも、うまく言葉を選んでる顔でもある。
ルイは何も急かさずに待った。
タイキの手が、小さく動く。
ぎゅっと掴みにいくんじゃない。
大胆に触れるんでもない。
ただ、そっと。
ルイの小指だけに、触れる。
本当に、それだけだった。
軽く、確かめるみたいな接触。
でもその小ささが逆にたまらなくて、ルイの呼吸は一瞬だけ止まった。
タイキは視線を少しだけ下げたまま、小さく言った。
「……一緒に過ごせてよかった」
落とすみたいな声だった。
大げさじゃない。
甘すぎもしない。
でも、ちゃんと本音だった。
ルイはすぐに返事ができなかった。
小指に触れているタイキの指先の温度。
その短い言葉の重さ。
昨夜から今朝までの全部を、その一言でまとめられた気がしたから。
「……うん」
やっとそれだけ返す。
それでも足りなくて、少しだけ声を足す。
「俺も」
タイキがほんの少しだけ顔を上げる。
目が合う。
ちゃんと熱はあるのに、朝の終わりにふさわしい穏やかさもある視線だった。
タイキは小指を離して、それから小さく頷く。
「じゃ、また後でな」
「また後で」
その言葉で、ようやく別れになる。
ドアが開く。
廊下の空気が入り込む。
タイキが一歩外へ出て、でもまた少しだけ振り返る。
ルイはその姿を、昨日の夜とは違う気持ちで見送っていた。
帰したくない、だけじゃない。
ちゃんとまた会える。
そう思える朝だった。
タイキの姿が見えなくなってから、ルイは静かにドアを閉めた。
⸻
静かになった玄関で、ルイはしばらくそのまま立っていた。
小指に残った感触が、まだ消えない。
たったそれだけ。
指先が軽く触れただけ。
「……反則だろ」
小さく呟いて、ようやく息を吐く。
この前に比べてタイキが妙に落ち着いていて、かと思ったら事故みたいに距離が崩れて、結局朝は膝の上で目を覚ました。
それだけでも十分すぎるのに、最後にあの一言だ。
一緒に過ごせてよかった。
それをあんなふうに、そっと置いていく。
しかも、小指だけ触って。
“好き”とは言わない。
でも、そこに近いものをちゃんと置いていく。
それを、タイキは今の自分なりの形で渡してきた。
ルイは思う。
ちゃんと帰してよかった。
朝のあの距離のまま、欲張らなくてよかった。
そうしたからこそ、最後にあの一言がもらえた。
ゆっくりリビングへ戻る。
ソファはまだ少し乱れていて、今朝までの名残がそこにある。
ルイはその前で立ち止まって、静かに考える。
タイキが“また後で”って言った。
それだけで十分だ。
困ったみたいに笑って、ルイはようやく肩の力を抜いた。
マンションを出て、朝の空気に触れた瞬間、タイキはやっと大きく息を吐いた。
外は少し涼しい。
でも、体の内側はまだ全然熱い。
歩きながら、何度も思い返してしまう。
朝起きた時の距離。
肩に置かれた手。
髪を撫でられたこと。
朝食の匂い。
“俺が、そうしたかった”って言ったルイの声。
それから最後。
自分が、小指だけ触ったこと。
「……自分から…」
小さく呟く。
でも、嫌な意味じゃなかった。
あんなこと、前の自分なら絶対しない。
照れて、逃げて、結局何も言えなかったはずだ。
それなのに今日は、“よかった”って言えた。
しかも、ちゃんと触れて。
その事実が、自分でも少し信じられない。
でも同時に、分かっていることもある。
一回ちゃんと離れて、整えた方がいい。
それはルイの言う通りだ。
このままの熱で午後のスタジオに行ったら、たぶんまた視線ひとつで持っていかれる。
今日の自分はきっと、思ってる以上にルイのことを意識してしまう。
それでも。
それでも今のタイキは、嫌じゃなかった。
むしろ、少しずつ自分の方もちゃんと近づいている感じがする。
ルイに触れられるたびに慌てるだけじゃなくて、今日みたいに、自分から小さく返せた。
あれは大きい。
自分の中では、かなり。
「……また後で、か」
口の中で小さく繰り返す。
午後、また会う。
何事もなかったみたいにスタジオで顔を合わせるのかもしれない。
でももう、何事もなかった頃の二人じゃない。
それでも仕事は仕事でやる。
ちゃんと切り替える。
一回家に帰って、顔洗って、服を替えて、呼吸を整えて。
その上でまた会う。
その“また”が、今は少しだけ楽しみだった。
タイキは朝の空を見上げる。
眠い。
少しだるい。
でも、胸の奥は不思議と満たされていた。
コメント
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もう、第7話、胸がいっぱいです……! 特に「安心した顔」を見せられるようになったタイキの変化が、じんわりと心に染みました。あれだけ意識してしまう相手の膝の上で眠れるほどにリラックスできるって、本当に大きな進歩ですよね。ルイが必死に平常心を保ちながらも、内心で大荒れしてる姿も、そのギャップがたまらなく愛おしかったです。最後の小指の触れ合いとか、「一緒に過ごせてよかった」の一言とか、言葉にできない気持ちがぎゅっと詰まっていて、読んでるこっちまで幸せな気持ちになりました。次はスタジオでどんな空気になるのか、もうドキドキが止まりません!