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自分の存在が人々の記憶から消えたから、エルダーは今、満ち足りた生活を送ることができている。
小汚い平民に対して、何の躊躇いもなく手を差し伸べることができるほどに。
飢え死に寸前の自分が師匠に出会えたから、こうして今の自分がある。
とどのつまり、一人の伯爵令嬢の存在が消えたから、二つの幸せが生まれた。
幸せなんて望んでも、そう易々と手に入るものじゃない。だから喜ぶべきこと。
(それなのに、どうしてこんなにも心がざらざらとするのだろう)
アネモネは、顔を上げて空を見つめた。
複雑な気持ちを抱えてはいるが、はだからといって後悔などしていない。昔に戻りたいなど、一度も思ったことはない。二度と戻りたくはないとは、何度も思ったけれど。
顔の位置を戻したアネモネは、よったよったと歩き出す。
(……これは深く考えない方がいいことだ。考えちゃいけないんだ)
湧き上がる名前の付けることができない感情を踏み潰すように、一歩一歩、アネモネは左右の足を交互に動かす。頭を空っぽにして。
人の流れに身を任せて歩き続けていると、不意に地面に雫が落ちた。
それは一つではなかった。ポタリポタリと地面に染みを作る。
アネモネは、再び足を止めて空を見上げた。
ついさっきまで淡い水色だったのに、今にも落ちてきそうな厚い雲に覆われていた。
大粒の雫が頬に落ちるが、数を数えることができたのは3つまで。あっという間に土砂降りの雨になってしまった。
「……踏んだり蹴ったりだ」
アネモネは、思いっきり顔を顰めて舌打ちした。
空から降ってくる雫は、平等に街全体を濡らしていく。ザーザーと雨脚を強めて、容赦無く。
髪や肩、腕に頬。至るところに雨粒を感じながら、アネモネはまた歩き出す。
今、この足を止めてしまったら、その場にしゃがみ込んで動けなくなりそうな気がしてならない。
一つの仕事をこなせば、階段を上がるように一つ大人になると思っていた。
そして経験を積み上げていけば、師匠のような一人前の紡織師になれると思っていた。
でも、なぜだかわからないけれど、今、ちっとも自分が目指す大人に近付いているとは思えない。
アネモネは、立ち止まって深く息を吐く。
でもまたすぐに歩き出す。足を引きずるようにして。
すれ違う人々は、相変わらず忙しない。
突然の雨に、何がそんなに嬉しいのか楽しそうに声を上げ、飛び跳ねるように歩く子供がいれば、それを見て苛ついた表情をするやさぐれた風貌の男がいる。
買いたての梱包されたサクランボを取り出して、軒先で雨宿りをしながら食べ出すご婦人もいれば、反対側の大きな木の下で、クリームが山盛りになった焼き菓子を頬張る若い女性達もいる。
皆、少しずつ違う表情を浮かべているが、こんなに惨めな顔をしているのは自分だけだろう。
そんな自虐的なことを思ってしまった瞬間に、アネモネの足がとうとう止まってしまった。
すれ違う人たちは皆、総じて早足だから、まるで自分がどんどん後ろに流れていくようだ。
こんなにざわついた心を抱えているというのに、周りの景色は何も変わらない。きっと明日も、明後日も。
(なんで私は、前に進めずにいるんだろう)
歩行のことではなく、今の現状が。
一つの仕事に思いのほか時間がかかってしまっているから、弱気になってしまっているだけなのか。
それとも、自分が描いた大人になる過程の中に、馬車から突き落とされることが含まれていなかったせいで、戸惑っているだけなのだろうか。
まさか、とうに吹っ切れたはずの昔の家族に再会して、自分でも情けないと思う程動揺してしまったせいなのか。
もしくは、その全部のせいなのか。全然、別のことなのか──
考えれば考えるほど辛くなり、アネモネの瞳から暖かい何かが溢れてくる。
雨の色と同じそれは、どれだけ止めようとしても、止めることができなかった。
(違う、違うもん!これは涙なんかじゃない、雨だ。絶対に雨だ。誰が何といっても……!)
そんな強がりを心の中で呟いた後、アネモネは手にしていたハンカチをポケットにしまった。
これ以上、汚してしまわないように。