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ソレールの家に辿りついた時はもう夕方だった。


今日はミルラが来てくれる日だけれど、きっともう帰宅しているだろう。


ミルラのことは好きだけれど、今日は顔を合わせたくない。誰もいない部屋で、思いっきり泣いて、スッキリしたい。


そう思っていたのに、間が悪いことにミルラは、ちょうど家の門を出るところだった。


今日はつくづくツイていない。


せめて会釈程度でやり過ごすことができたらと思ったけれど、それすら過ぎたる願いだった。


「ちょっと、アネモネちゃん!な、な、なんて格好してるんだい?!」


ふくよかな身体に似合わない俊敏な動きで駆け寄ったミルラは、乱暴にアネモネの肩を掴んだ。


「……ごめんなさい。お借りした服、汚してしまいました」

「馬鹿言ってんじゃないわよっ」


ニコニコと笑い、キビキビと動くミルラが別人のように見える。こんなときに好きな人からの罵声は、かなりキツい。


掴まれた肩を振り払う勇気がないアネモネは、精一杯ミルラから目を逸らす。


「ごめんなさい、すぐ洗濯しますから、ごめんなさい、許して下さい。ちゃんと綺麗にします。元通りにします……すみません、ごめんなさい、どうか許してください……ごめんなさい、ごめんなさい」


頭がぐらぐら揺れて、身体が芯から凍えていく。


寒くて、怖くて、足元がゆらゆらして、おかしな世界に迷い込んでしまったようだった。


もう怒らないで、何でもするから。

お願いだから、どうか今は責めないで。

これ以上の罵倒を受けたら、心がめちゃくちゃになって壊れてしまいそうだ。そうしたら、もう二度と立ち直れない。


恐怖に囚われたアネモネは、ミルラから距離を取ろうと踵を浮かす。


でもその瞬間、ミルラの胸が大きく膨らんだ。


「何言ってんだよっ。服なんてね、どぉーでもいいんだよ!!」


カミナリよりも大きなその声に、全ての感情も思考も弾け飛んでしまったアネモネは、ただただ口を半開きにすることしかできなかった。


間の抜けた顔をするアネモネに、ミルラは大股で一歩距離を縮めると、アネモネの腕を掴んだ。


その力は痛いと思う程、有無を言わせないものだった。


「ほら、早くお入りっ。身体を拭かなきゃ風邪をひいちまう」

「……あの、時間外勤務じゃ」

「んなもん、どーでもいいんだよっ」


二度目の「どーでもいい」は、一度目のそれより強い口調だった。






アネモネを居間に引き入れたミルラは、バスルームに行くとしばらくゴソゴソして、バスタオル抱えて戻って来た。


それから思考が停止してしまったアネモネの背後に回り、ドレスのボタンを外していくと一気に引き下ろした。


初めての経験にアネモネは、驚き過ぎて声も出せずに硬直してしまう。


──バサッ。


少し遅れて寒さを覚えたアネモネの視界が、真っ白に染まる。フカフカのタオルを、ミルラが被せてくれたのだ。


「あーこんなことなら、出掛ける時に引き留めれば良かったよ。まったくお天道様も気まぐれだね。あんなに晴れていたのに、こんな土砂降りになるなんてさ。これじゃあ、水門番も大忙しだねぇ」


早口でまくし立てるミルラの手は、ごしごしとアネモネの髪を拭いてくれる。


口調も荒いし、手つきも丁寧とは言い難い。でも、伝わってくるのは泣きたくなるほどの温もりで、アネモネの瞳に、止まったはずの涙が再び滲む。


「……ミルラさん、ありがとうございます。でも後は、自分で」

「いや、もう風呂に入りな」


大方拭き終えたミルラは、濡れたバスタオルを持ったままバスルームを指差した。


「ついさっき薪を入れたばっかりだから、まだぬるいかもしれないけれど、この季節ならすぐにお湯になるさ」

「……はい」


嫌という理由が見つからないアネモネは素直に頷き、バスルームに移動した。


バスタブには普段は使わないラベンダーの入浴剤が入れられていて、その香りを肺いっぱいに吸い込んだら鼻の奥がつんと痛んだ。


ぬるいと感じたお風呂のお湯は、あっという間に丁度良い湯加減になった。


アネモネはしばらくバスタブで蹲って、目を閉じる。


考えたくないのに、思い出したくないのに、過去の記憶が蘇る。


もう、誰も知らない思い出。自分が忘れてしまえば、それはこの世界から消えてなくなる、どうでもいいもの。


それがまだ自分の中にあるのは、捨てられないからなのか、捨てたくないからなのか。


ぐるぐると考えていても答えが出ない。


……出ない状態で心がもやもやする。でも、このままではのぼせてしまいそうな予感がしてアネモネは、のろのろと風呂から上がった。


さすがにもう帰っただろうと思ったけれど、ミルラはまだキッチンに居た。


「温まったかい?」

「はい。ありがとうございました」

「いいんだよ、そんなこと。ほらこっちにおいで、これをお飲み」


キッチンのテーブルを軽くたたいて、ミルラはアネモネに着席を促す。そこには湯気の立ったココアが置かれていた。


アネモネはこくりと頷いて、着席するとココアを一口飲む。


「……甘くて、美味しいです」

「そうかい」


じんわりと伝わる素朴な甘さに、アネモネはほぅっと息を吐く。


ミルラは何も言わず、濡れたままのアネモネの髪をバスタオルで拭いてくれた。先ほどよりも優しい手つきで。

紡織師アネモネは恋する騎士の心に留まれない

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