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森は静寂に包まれていた。
陽の傾き始めた空から注ぐ橙色の光は
鬱蒼と茂る枝葉の隙間を縫って届くことなく
地面に届く頃には青みを帯び
湿った苔の上でひっそりと揺れていた。
そこに、ひとつの光源だけが
異様に紅く脈打っていた。
炎のような
しかし刃にも似た鋭さを帯びた両翼。
それは、アリアの背から突き出ていた。
もはや彼女の意志だけでは制御しきれぬほど
暴走した──不死鳥が
彼女の肉体を媒体に
外に顕現しようともがいている。
アリアは、蹲っていた。
自らの身体を抱きしめるように
背の炎の翼を押さえ込むようにして。
その顔は、苦悶と拒絶に染まりながらも
どこか悲しげだった。
唇は開かれぬまま、深紅の瞳だけが静かに揺れていた。
彼女を包むのは
まるで水面のように揺らめく結界。
透き通るような光の膜は
時折きらきらと光を放ち
炎の暴発を防ぐかのように
彼女の周囲を囲んでいた。
その結界の外。
一匹の白猫──ティアナが
小さな身体を張って踏ん張っていた。
前足の爪を地に深く食い込ませ
蒼い眼差しを一瞬も逸らさずに
主を見据える。
その毛並みには
炎の干渉で生じた細かな裂傷が
無数に走っていた。
幾度か弾けるように血が吹き
白い毛を濃赤に染めてもなお
彼女は退かなかった。
ただ、気高く、静かに
主のために抗い続けていた。
──その時だった。
風もないはずのこの場所に
ひらりと一枚の桜の花弁が舞い落ちた。
それは地に触れることもなく
ふわりと宙を滑り
やがてもう一枚、そしてもう一枚と
次々と増えていく。
花弁は重なり、渦を描き──
一瞬
世界が光に包まれたかと思ったその刹那。
霧散する桜の中心から、男が現れた。
風が、吹いたようだった。
藍色の着物の裾が柔らかく揺れ
黒褐色の髪が後ろに流れた。
その姿を目にした瞬間
ティアナの蒼き瞳が大きく見開かれる。
結界の内側
アリアの紅い瞳もまた
無言のまま大きく揺れた。
それは──待ち焦がれていた存在。
時也。
桜を纏い現れた時也は
ゆっくりと前へ歩み出ると
鳶色の瞳をまっすぐアリアに向け
僅かに頭を下げた。
「遅くなり
申し訳ございませんでした⋯⋯」
その声音は、深く、静かで
どこまでも穏やかだった。
だが、言葉の底には
彼女を一人にしてしまったことへの
痛切な悔いと
再び彼女を連れ帰ることを
決して譲らぬ決意が宿っていた。
桜の香りを纏いながら
時也は静かに、結界の前に膝をついた。
その手には、数枚の護符が握られていた。
それは、刃ではなく、鎖でもない。
──共に〝帰るための鍵〟
「ティアナさん⋯⋯
アリアさんを護ってくださって
ありがとうございました。
結界は、まだ保てますか?」
静かな問いかけに、ティアナは短く
しかしはっきりと鳴いて応えた。
その声は
疲弊の中にも凛とした誇りがあった。
時也は頷くと
手から一枚の護符を抜き出した。
それは純白の和紙に精緻な文様が刻まれ
淡い桜の香を纏っていた。
墨の色は深く
どこか生きているかのような
気配を帯びている。
「では⋯⋯これを」
彼が差し出すと
ティアナは躊躇うことなくそれを咥えた。
まるで、それが何であるかを
理解しているように。
──そうだった。
これはかつて
アリアが涙の結晶に自身を封じた際
青龍とソーレンの力を束ねるために
時也が用いた、術の強化のための護符。
異能とは異なる〝式〟の力を宿すそれは
時也の陰陽術と植物操作を
その〝意思〟で繋ぎ止める楔のようなもの。
ティアナは知っていた。
それがどれほど尊く
時也という男がどれほどの〝覚悟〟を以て
使っているかを。
護符から流れ込む温かな力が
白い小さな身体に沁みていく。
柔らかな風が
そっと周囲を撫でるように吹いた。
「六根清浄⋯⋯急急如律令──!」
時也が低く、しかし確かに言霊を紡ぐと
護符が淡く発光した。
「ティアナさん
貴女は翼に結界を集中させてください──
アリアさんを、僕の結界で護り
二つの結界を用いて切り離します」
ティアナは一瞬
翡翠のような瞳で彼を見つめ
次の瞬間、結界を一部だけ解いた。
時也は、その刹那の隙を見逃さなかった。
桜の花弁が再び風を切り
時也の身体がふわりと舞うように前へ出る。
炎が唸り、地を焦がす寸前で──
彼はアリアを抱きしめるように
結界の中へと飛び込んだ。
ティアナは言われた通りに
翼にのみ結界の範囲を狭め
時也の護符により
先ほどよりも安定して結界を展開させる。
灼熱が、皮膚を焼いた。
だが、それでも腕を解くことはなかった。
彼女の背に暴れ狂う炎の翼が
今まさに彼の身体を灼いている。
着物は焦げ、肌は赤黒く裂け──
肉を焦がす煙が立ち上る。
それでも時也は微動だにせず
彼女を胸元に抱きしめ
耳元で囁くように言った。
「⋯⋯アリアさん。
もう、大丈夫です。
どこに行こうと、何が僕たちを裂こうと──
必ず、僕が迎えに行きますから⋯⋯」
その声は、苦痛ではなく
静かな愛しさに満ちていた。
──そして。
彼の掌の護符が、燃えるように輝いた。
その周囲に緋と金の式文が浮かび
空間そのものが僅かに歪む。
時也の口が、再び言霊を紡ぎ出す。
「掛けまくも畏き御祖の神よ──
高天原に坐し給う、常世の理を司りし神々に
恭しく、ことの由を白さく。
穢れ集いしこの地を
いまし我、言霊を以て祓わんとす。
風、凪ぎ
水、澄み
火、和ぎ
土、眠り
空、閉じる。
我が術は、斬らずして拒むもの。
我が声は、咎を問わず、ただ鎮めるもの。
故に願わくば──
穢れよ、抗うことなく還れ。
名もなき闇よ
神直日の気に抱かれ
元の清き姿へと、戻り給え」
詠唱が終わった瞬間。
彼の結界とティアナの結界
その境界線が軋みを上げる。
炎の翼が、激しくのたうち
悲鳴のような熱気を撒き散らす。
しかし、次第に──その流れが変わった。
まるで捻じ切られるように──
両結界の力に引き裂かれ
翼が、音もなく分断された。
その刹那。
「──ッシャアアアッ!!」
ティアナが咆哮を上げた。
その声は
小さな猫のものとは思えぬほど力強く
彼女自身の結界が
一気に収束していくのと同時に
炎が、すうっと掻き消えるように霧散した。
森の空気が、再び静けさを取り戻す。
残ったのは、微かに焦げた匂いと
優しく抱きしめられている
黄金の髪を揺らすアリアと
その身を灼熱で焼かれながらも
鳶色の瞳を閉じることなく
彼女を見つめる時也だった。