校舎裏に流れる、夕暮れの静かな風。その中に混じるように、千歌の声が響く。
凪は壁に背を預け、うっとりとその声を聴いていた。
「……やっぱり、すごいな。先輩の歌。」
ついこぼれた言葉に、千歌は歌を止め、恥ずかしそうに肩をすくめる。
「そ、そんなすごいものじゃ……。趣味で歌ってるだけなんだから」
「でも、俺はもっと聴きたいです。先輩の歌」
真っ直ぐな瞳で見つめられ、千歌は心臓が跳ねるのを感じた。
こんなふうに言ってくれる人は、今までいなかった。
「……でも、あんまり会うのは……」
口ごもる千歌。
父に知られたらどうなるか、その恐怖が頭を離れない。
けれど凪は、屈託のない笑顔で続けた。
「俺、先輩ともっと話したいんです。歌だけじゃなくて、先輩のことも…」
凪の瞳は、曇りひとつない空みたいにまっすぐで。
千歌は視線をそらそうとしたけれど、どうしても逸らせなかった。
――こんなふうに言ってくれる人、今までいなかった。
父の前ではただの「娘」でしかいられなくて、歌うことさえ許されないのに。
「……ほんとに少しだけ、なら」
気づけば言葉がこぼれていた。
凪の顔がぱっと明るくなる。
「ほんとですか! じゃあ、また明日も」
「……だめ。毎日は無理。でも……時々なら」
それだけ言うのが精一杯だった。
それでも凪は満足そうに笑って、頷いた。
「じゃあ、約束です。時々でも、俺に先輩の歌を聴かせてください」
「……ほんと、強引なんだから」
そう呟きながらも、千歌の胸の奥は少しだけ温かくなっていた。
危ういのに、心がほどけていくようで――。
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