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るるくらげ
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乾いた風が吹き抜ける寂れた街道に、ひときわ大きな舌打ちが響き渡った。
容赦なく照りつける陽光の下、街道を覆う赤茶けた土が歩幅に合わせて乾いた埃を舞い上げる。すり減った革靴の底が苛立たしげに小石を蹴り飛ばすたび、黒髪の青年は忌々しそうに顔を歪めた。
「追放? 俺が? ……はっ、信じられないな。本当に信じられない」
ひび割れた唇から零れ落ちたのは、この三日間で何百回と吐き捨てた言葉だ。怒りと未練、そして行き場のない不満が入り混じった呟きは、荒野の風に吹かれて虚しく消えていく。名をユーリ。齢十八。数日前まで悪魔討伐の最右翼と謳われた、とある国の精鋭”勇者一行”に名を連ねていた男である。
彼がパーティを追放されてから、すでに三日が経つ。何度思い返しても腹立たしい。それを言い渡されたのは、魔物も息を潜めるような静かな昼日中、野営地のど真ん中だった。漆黒の鎧に身を包んだ勇者が腕を組んで陣の中央に立ち、残りの仲間たちがその後ろで、まるで腫れ物に触れるかのように気まずそうに目を逸らして並んでいた。
「お前には、これ以上パーティに居てもらう理由がない」
以上だった。具体的な理由の説明はない。が、彼らの顔を見れば分かる。”こいつは戦闘で何もしていない”と思われているのだ。
何も……していない?
その瞬間ユーリの中で何かが弾けた。絶叫に等しい声が出た。三年間にわたって溜め込み続けた鬱憤が、どす黒い泥のように一気に溢れ出る。俺が裏で何をしていたか知っているのか、と。俺の能力がなければ、お前たちは一年も持たずに魔物の胃袋に収まっていたはずだ、と。俺が抜けたらパーティに何が起きるか分かっているのか、と。
ユーリの持つ異能は”全荷担“という。対象を指定し、その者に降りかかるあらゆる負の要素――たとえば魔力の激しい消耗、致死の呪い、被ダメージ、行動を鈍らせる状態異常、さらには運の悪さとでも呼ぶべき曖昧なものまで――それら全てを代わりに引き受け、自身の持つ正の強化を相手へと押し出す強力な補助能力だ。
規格外の攻撃力、魔力の異常な回転効率、研ぎ澄まされた直感、かわしきれないはずの一撃を間一髪で逸らす不可視の運。そういったものを、無意識の領域で仲間たちへと流し込み続けていたのだ。
ゆえに、勇者パーティは常に絶好調だった。巨大な龍種を相手にしても誰ひとり傷ひとつ負わなかった。凶悪な呪いが立ち込める瘴気の領域を踏み抜いても誰も倒れなかった。五対一の絶望的な包囲網すら、まるで敵が全員間抜けであるかのように容易く切り抜けた。
彼らは全員が”俺たち強いな”と心底思っていた。その異常なまでの快進撃の理由を、ユーリ自身も満足に説明しなかった。するまでもないと高を括っていたのだ。自分が背後で何をしているかくらい、見ていれば分かるだろうと。致命傷を肩代わりして蓄積しているから、自分だけがいつもボロボロで消耗しているのだと、聡明な彼らならいつか気づいてくれるものだと信じていた。
ユーリの悲痛な叫びと激昂を、勇者は眉一つ動かさずひたすら静かに聞いていた。そして、冷徹なまでに落ち着いた声で言い放つ。
「三つ聞いていいか」
ユーリは息を呑み、黙った。
「まず――なぜ今まで黙っていた。お前の能力がそれほどまでにパーティの根幹を支えていたというのなら、なぜただの一度も説明しなかった。俺たちは遊びではなく、プロとして命を懸けて活動している身だ。仲間の能力と役割を正確に伝え合い、戦術を立てるのは基本中の基本だろう。その報告と共有を怠ったのは誰だ」
「だから……! それは、見れば分かると」
「分からなかった。実際に。それが答えだろ」
勇者の声に怒りや嘲りは一切なかった。ただ淡々と事実を述べるその態度は、感情的に怒鳴り散らされるよりも、ずっとユーリの胸を抉った。
「次。今お前が言ったことが全て本当なら、俺たちはずっと、一人の人間の隠された能力に気づかないまま、命綱を預けて頼り切っていたことになる。だが、もしお前が過労で倒れたら? 病に伏したら? 戦闘中に突然離脱したら? ……その瞬間にパーティが全滅しかねないような綱渡りを、三年間も無自覚に続けていたということだ。その恐ろしいリスクを、お前は考えなかったのか」
ぐうの音も出なかった。ユーリの唇がわななき、言葉を探したが何も出てこない。
「そして最後。お前は今、”俺が抜ければどうなるか分かっているのか”と言ったな。それは俺たちに対する脅しか」
「っ、そういうつもりでは……」
「意図は尋ねていない。俺にはそう聞こえた、という話だ」
勇者は一歩前に出た。その眼光がユーリを鋭く射抜く。
「お前は俺たちに理解されていない、信頼されていないと言う。だが逆に聞く。お前は俺たちを信頼していたか? 本当に背中を預けられる相手だと思っていたなら、もっと早くに打ち明けていたはずだ。”俺はこういう能力で、こういう形でパーティを支えている。負担が大きいから、これだけは覚えておいて助けてほしい”――そう言うだけでよかったんだ。それが言えなかったのは何故だ」
痛いほどの沈黙が落ちた。
「この理屈は分かるよな」
分かった。嫌というほど、痛いほどに分かってしまった。
だからこそユーリは何も言い返せず、逃げるように自分の荷物を掴んで野営地を出るしかなかったのだ。そのまま三日間、逃避するように街道を歩き続けている。
――理不尽だ。
口の中を噛み締めながら、それでも彼はそう思い続けた。思い続けることしかできなかった。勇者の言葉を認めてしまえばその瞬間、血反吐を吐きながら耐え忍んだ三年間の積み上げが全て、己のコミュニケーション不足というただの失策に成り下がってしまうからだ。ならば、自分は無能な仲間たちから理不尽な仕打ちを受けた悲劇の男なのだということにしておく方が、精神衛生上ずっと楽だった。
まあいい。俺を失った喪失感を、せいぜい血肉で思い知れ。
追放の翌朝、ユーリは”全荷担“の向き先を変えた。三年間、見返りも求めずパーティへと流し続けた全ての正の要素を自分自身へと向け直したのだ。
それ以来、彼に驚くべき変化が起きていた。身体が、羽でも生えたかのように恐ろしいほど軽いのだ。どれだけ歩いても魔力は底をつく気配がない。靴擦れや古傷はつく端から癒えて消えていく。周囲の気配を察知する反射が、直感が、尋常ではない速度で研ぎ澄まされていくのが分かる。
三年分の積み立て強化を丸ごと己の肉体に取り戻した今の彼は、控えめに言っても、かつての勇者すら凌ぐほどの万能感に満ち溢れていた。その一方で、今頃あのパーティがどうなっているかは――まあ、想像に難くない。
せいぜい足搔いてみろ。泣いて許しを請うても遅いからな。
歪な優越感に浸りながら歩いていると、前方にぽつんと人影があるのに気づいた。白銀の髪。真っ白なローブ。小柄な後ろ姿。大きな荷物を持っているわけでもなく、護衛の姿もない。ただひとりで、ふらふらと街道を歩いている。
ユーリは足を止め、その無防備な背中を眺めた。試したかった。極限まで高まったこの新しい自分の力を。誰かに目に見える形で。
「おい、そこの」
尊大に声をかけながら、右手に”全荷担“の力を絞り込んだ。自分自身の全能力を一点に束ね、手のひら大の不可視の圧力として撃ち出す。それが一体どれほどの破壊力を生むか、自分自身でもまだ測りかねていた。ほんの少しだけ出せばいい。加減はする。気絶させるくらいで留めてやる。
空間を歪める程の奔流が撃たれた。ボンッ、と大気が弾ける轟音。
「――」
言葉にならない現象が起きた。放たれた圧力が少女の背中に触れた途端、それがふっと掻き消えたのだ。魔法の盾に吸い込まれたわけでも、物理的に弾き返されたわけでもない。ただ虚空へと溶けるように、あるいは打ち寄せる波が砂浜へと引いていくように、あまりにも静かに霧散したのだ。
そして次の瞬間、それはユーリの元へ戻ってきた。自分が放った、渾身の、三年分の圧力が。綺麗に、そっくりそのまま、全部。
「あ!?」
ごうっ、と風が大きく鳴った。ユーリの身体がふわりと浮かぶ。地面が猛烈な勢いで遠ざかる。空が、雲が、一瞬にして近づいてきた。
歩いていた街道が細い一本の線となり、広大な森が緑色の絨毯となり、視界の全てがみるみるうちに小さくなっていく。天高く舞い上がりながら、ユーリの脳裏にはただひとつの疑問だけが支配していた。
「何ッで俺の能力が俺に効くんだよぉぉぁあああ!!」
情けない悲鳴は、上空の強い風の中に溶けてあっけなく消えた。街道に取り残された少女が、ゆっくりと立ち止まって振り返る。彼女は何もない空を見て、無人の街道を見て、最後に誰もいなくなった方向をもう一度まじまじと見つめた。
「……今のは」
こてん、と首を傾げ、それからほんの少しだけ困ったように眉を下げる。
「何だろ。人の声も聞こえたような……気のせいかな?」
誰に言うともなく呟いて、少女は再び前を向き、何事もなかったかのように歩き出した。美しい白銀の髪が夕暮れの光の中で耽美に揺れる。
――その名を、ソラスという。およそ二年前、祖国を追われた少女だった。
■
アイオロス連邦諸国の中心たる盟都、グランフォート。自由や仕事を求めてあらゆる人種と種族が集うこの街は、むせ返るような熱気と喧騒に包まれていた。露店や冒険者向けの武具店がひしめき合い、様々な言語が飛び交う中央区の大通りは、まるで巨大な生き物のようにうねっている。
その濁流のような人波の中で、ソラスは完全に立ち往生していた。雪のように真っ白で透き通る肌と、艶やかな銀糸のような髪。小柄で華奢な彼女の姿は、屈強な傭兵や商人たちが闊歩するこの街において、あまりにも場違いで危うげだった。
「――あなた、道に迷ってるの?」
不意に、横から声が掛かった。弾かれたように顔を向けると、そこには洗練された容姿を持つ一人の女が立っていた。美しい金髪のロングヘアに、深い碧眼。整った顔立ちには、ソラスを”見慣れない迷子”として訝しむような、かすかな呆れと好奇心が混じっている。歳の頃は二十歳そこそこといったところか。
「あ、はい……人が多すぎて、右も左もわからなくて……」
おずおずと答えるソラスを見て、女はふっと面白そうな表情を浮かべた。周囲を行き交う男たちが、その凛とした美貌に何度か熱い視線を送っているが、彼女はまるで気にも留めていない 。
彼女は腕を組み、少し顎をしゃくって尋ねた。
「ふうん。この街に来たばかりってところかしら。まあ、初めてなら誰でもそうなるわね。で、どこへ行きたいの?」
その言葉の端々には、強い責任感や生来の面倒見の良さが無意識に滲み出ているようだった。ソラスは一瞬躊躇したものの、彼女の根底にある優しさを感じ取ったのか、決心したように口を開く。
「――エルナっていう、あなたと同じ金髪碧眼の女の子を探しているんです。今、十四歳くらいの」
そこで、ソラスは言葉を区切った。女の纏う空気が、わずかに鋭く変化したのを感じたからだ。
「あの子、すごい冒険者になって私の力になる、とか意気込んでるらしくて……」
その名前と経緯を聞いて、彼女の眉がわずかに動いた。しかし、すぐに元の冷静な顔つきに戻る。
「エルナ? 聞いたことない名前ね。私と同じ髪色と瞳をした十四歳の女の子……このグランフォートには子供の冒険者もいないわけじゃないけど、そんな特徴の子は見かけないわ。それに――あなたの力になる、ですって?」
ゼータはソラスを頭のてっぺんからつま先まで、品定めするようにじろりと見た。その視線は鋭く、相手の実力や素性を見抜こうとしているのが明らかだった。
「あなた、もしかしてその子の保護者か何か? にしてはずいぶん若く見えるけど」
棘のある指摘に、ソラスは慌てて訂正する。
「ただの友達……です。あ、いえ、かなり親しい。けど少し事情があって……私を許してくれたあの子が危険な目に遭うのを放っておけない、という、感じです」
友達、という言葉にゼータはふっと息を漏らした。それは嘲笑というよりは、何かを懐かしむような、あるいは遠い目をするような響きだった。彼女自身もかつては誰かを守りたいと願う、ただの少女だったのかもしれない。
「事情、ね」
彼女は短く呟くと視線を人混みの向こうダンジョンの入り口がある方角へと向けた。何か考え事をしているようだったが、やがてソラスへ向き直る。
「そのエルナって子が本当にこの街で冒険者を目指してるなら、まず向かう場所は一つしかないわ」
鎧の女は得意げに、ぴっと人差し指を立てた。
「冒険者ギルドよ。あそこなら登録もできるし、情報もたくさん集まる。駆け出しの冒険者が最初に足を踏み入れる場所だから、手がかりがあるとしたらそこじゃない?」
続けて、顎でギルドがある方向を指し示す。
「……もっとも、無事に辿り着ければ、の話だけど。見ての通りここは人が多いから」
女の言う通り、街の大通りは人でごった返していた。そうなのだ。ソラスも来た時から感じていたが、ここは故郷のライトリム村はおろか、かつての隣町ヴァルクミールよりも人口密度が圧倒的に高い。彼らは一様に仕事を探しにきているようだった。うう、とソラスが情けない声を漏らす。
「あ、あの、厚かましいようですが、道案内をお願いできませんか……? えっと、その」
ソラスは女の名前がわからず言い淀んだ。言い淀むソラスを見て、彼女は小さく首を傾げる。自分の名前がまだ伝わっていなかったことに気づいたようだった。
「私の名前はゼータ」
彼女はそう名乗ると、再びソラスの頼みに対して思案するような顔になる。その目はただ親切心だけで動く人間のものではない。何かしらの打算やあるいは単なる気まぐれか、その真意は読み取れなかった。
「ごめんなさい! 私はソラス、と申します」
図らずとも先に名乗らせてしまった非礼を詫び、その艶やかな銀糸を揺らしながら、ぺこりと頭を下げる。
「ソラス。道案内するのは別に構わないけれど、タダでとはいかないわよ。私も暇じゃないの」
その言葉を聞くや否や、ソラスはエイル硬貨の詰まった麻袋をぎゅっと握りしめる。しかし、自分が求めているのは金銭ではないとばかりに、
「あなた、私を雇うだけの価値があるのかしら?」
ゼータはいたずらっぽく口の端を吊り上げてソラスを見つめた。その言葉には試すような挑発するような色合いが濃く含まれていた。
「な、何でもします……私にできることであれば! 編み物とか得意です! 唄も歌えます! 戦いは……好きじゃないですけど、必要なら」
編み物、唄戦いは好きじゃないーーゼータの顔から、先ほどまでの試すような笑みがすっと消えた。代わりに信じられないものを見るような怪訝な表情が浮かぶ。彼女はソラスが何か特別な技能や交渉術を持っていると踏んでいた。だが、返ってきたのはあまりにも平和でこの殺伐とした街には不釣り合いな技能ばかりだったからだ。
「……はぁ」
思わず、といった感じでため息混じりの声が漏れる。
「あんた本気で言ってるの? ここはお花畑じゃないのよ。編み物で魔物が倒せるとでも?」
彼女は心底呆れかえったように、こめかみを指で押さえた。目の前の人物が本当に状況を理解しているのか、疑わしくなってきたようだった。
「魔物? 魔獣のことですか……? それなら、はい、倒せると思います」
その言葉にゼータの目が鋭く細められた。さっきまでの猜疑や警戒の色が消え、純粋な興味と探るような光が宿る。”倒せる”という一言が、ようやく彼女の中で引っかかった。
「ふーん……大きく出たじゃない」
彼女は再びソラスとの距離を詰め、その顔をじっと覗き込んだ。まるで真偽を確かめるかのように。
「さっきは戦いは好きじゃない、なんて言ってた口でよく言うわね。魔物を倒すのと喧嘩するのとはわけが違うのよ」
彼女の口調は依然として厳しいが、そこには先程とは違う種類の関心が含まれている。この自信の源は何なのか、ハッタリかそれとも本物か、見極めようとしていた。
「いいわ。そこまで言うなら、試させてもらう。もしあなたが本当に戦えるというのなら、ギルドまで連れて行ってあげる」
そこで言葉を区切る。次いで、グローブを着けた指をその柔らかな唇に当てながら、
「でも、もし口だけだった場合は…そうね、私の言うことを何でも一つ聞いてもらうわ。それでどう?」
「わ、わかりました! 張り切ってやります!」
元気な返事を聞いて満足げに、しかし冷ややかにゼータは微笑んだ。
「威勢がいいのは嫌いじゃないわ。……ついてきなさい。試す場所はすぐそこ」
彼女はそれだけ言うと、くるりと背を向け雑踏の中を慣れた足取りで歩き始める。人波をかき分けるその姿には、有無を言わせぬ迫力があった。
■
しばらく歩くと、二人は比較的人通りの少ない裏路地へと入った。そこは建物の影になって薄暗く、湿った空気が漂っている。壁には得体の知れないシミが広がり、隅にはゴミが溜まっていた。
ゼータが足を止めると、その影から、ぬるりと何かが姿を現す。緑色の肌をした小柄な人型の魔物、小鬼だ。それが三体錆びたナイフや棍棒を手に、威嚇するように歯を剥き出しにしている。
「ここなら邪魔は入らないでしょ」
ゼータの、場違いなほどに明るい声が響いた。
「さあ、お手並み拝見といきましょうか」
彼女は壁に寄りかかり、まるで観客のように腕組みをしてソラスとゴブリンたちを交互に見やる。おそらく時間が掛かるものだと踏んでいたのだろう、ゼータの予測は、だが大きく外れることとなった。
ソラスはゴブリンの姿を認めた瞬間、すっと片手を持ち上げた。パキパキ、と空間が凍りつき、彼女の背後に幾つかの氷の剣が生成される。そして空を切り裂き、ゴブリンの持つ武器を的確に弾いて粉砕した。次に見えない力、恐らく斥力のようなものが発生し、彼らを壁に叩きつけて気絶、すぐさま無力化してみせたのだ。
目の前で起こった光景にゼータの瞳が大きく見開かれた。その冷静沈着な仮面が初めて崩れ、驚愕の色がありありと浮かんでいた。精密な動作の氷の剣、無詠唱での魔法行使、そして不可視の力場。それらはどれも一流の魔術師、否、特殊な血筋の者ですら実現が遥かに難しい高等技術だったからだ。どれか一つならまだしも、全てを同時にやってのけるなんて神業、聞いたことがない。
「なっ……!?」
思わず声が出る。予想を遥かに超える展開に、ゼータの思考が一瞬停止した。
「あんた……一体何者なの」
気絶したゴブリンたちとソラスを何度も見比べ、ようやく状況を飲み込むと彼女はゆっくりとソラスに歩み寄った。もはや試すような態度は微塵もない。その顔には警戒心とそれ以上に強い好奇心と探究心が渦巻いていた。無意識のうちに腰の双剣の柄に指が触れている。
「今の魔法? でも、詠唱がなかった。それにあの力……重力操作か何か?」
彼女は問いただすようにソラスを睨みつけた。
「とてもじゃないけどC級やB級……いえ、それどころか、A級のレベルですらない、かもしれない」
かつてのアルベルトやラヴィニアを思わせるその気迫に、思わずソラスはたじろぎ、両手を体の前でぶんぶんと振りがなら言った。
「えっと、私! なんか詠唱なしに魔法を使えるみたいで……本来は詠唱が必要だって最近知ったくらいで! 重力操作については、まあ、そんな感じで合ってると思います」
焦りから、言葉が次々と口をついて出る。
「ええ……何それ」
ゼータの声にはもはや隠しようもない動揺が滲んでいた。魔法の常識を覆すその一言に彼女は眩暈すら覚えそうだ。無詠唱でこれほどの威力を発揮する魔法使いなど、伝説の中でしか聞いたことがない。
「”そんな感じで合ってる”じゃない! あなた自分がどれだけ異常なことをやってのけたか分かってるの!?」
思わず声を荒げるが、すぐにはっとして路地裏の周囲を見回し、声を潜めた。
「下手に他の奴に聞かれたら面倒なことになるわ」
彼女は深く息を吸い、乱れた思考を無理やり落ち着かせようとした。そして、改めてソラスを見据える。その目には先程までとは比較にならないほどの価値と、そして危険性を見定めようとする光が灯っていた。
「いいでしょう。あなたの実力はよく分かった。……約束通りギルドまで案内してあげる」
その言葉は先程とは打って変わって、ビジネスライクな響きを帯びていた。
「一つだけ聞かせて。その力を一体どこで手に入れたの?」
「生まれつき、としか……。特別な何かをしたわけじゃないです。たぶん、そういう存在なんだと思います」
生まれつき。そういう存在。ゼータの唇がわずかに震えた。ソラスから返ってきた答えは、彼女の理解を完全に超えていた。まるで神話の登場人物か、あるいは世界の特異点のような存在。ゼータの脳裏に様々な憶測が駆け巡る。
「そう」
短い沈黙の後、彼女はそれだけを呟いた。その声には納得とも、諦めともつかない複雑な響きがあった。これ以上問い詰めても無駄だと悟ったのかもしれない。
「もういいわ。聞くだけ野暮だったみたいね」
彼女は身を翻し、今度こそ迷いのない足つきで裏路地を出ていく。鎧の擦れる金属音が微かに鳴る。その背中からは、先程までとは明らかに違う緊張感が放たれていた。ソラスという存在をどう扱うべきか、あるいはどう利用できるか、頭の中で高速で計算しているようだった。