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ノー残業デイとなる水曜日は、朝からみんな忙しい。
集中して仕事をこなし、なんとか定時退社を目指す。
「中村先輩、今から外出なのですか?」
「そうなんだよ、鈴宮。クライアントの方で予算に変更があってさ。急遽、担当営業が呼び出されて、俺も同行になった」
定時間際に発生するトラブルには皆、右往左往することになる。
「あと30分ですよね。やばい、終わるかな~」
森山さんは必死に数字とにらめっこしている。
私は……奇跡的にトラブルもなく、定時を迎えることが出来そうだった。
***
「お疲れさまでした~」「お疲れ様です!」
定時を知らせるチャイムが鳴り、皆、一斉に動き出す。
もう混雑が分かっているので、森山さんと二人、トイレで少し時間を潰し、それから非常階段へ向かう。
エレベーターほどではないが、非常階段も混雑している。
「森山さんはこの後帰宅したら、動画のライブ配信をするの?」
「そうです! この会社、結構保守的な会社だと思っていたのですが、副業認めてくれるから、ラッキーです」
森山さんは学生時代からメイク動画の配信をしており、家賃ぐらいの副収入は得ることができているらしい。
そんな森山さんと非常階段を下り、一階の天井が高く、広々としたロビーに着くと、そこは結構人が沢山いる。ノー残業デイということで、待ち合わせをして、飲みに行く人も多いようだ。
「愛梨澄」
声を聞いた瞬間、不穏な意味で心臓がドキッと反応した。
まさかという気持ちで声の方を見て、顔が引きつる。
そこにいるのはツーブロックショートの黒髪に、眉毛細過ぎの義和の姿が見えた。
「何、鈴宮先輩、誰ですか!? いきなり名前呼びって、もしかして新しい彼氏ですか!?」
森山さんが興奮気味に私に話しかけるのを制し、押し殺した声で告げる。
「違うのよ、森山さん。あれ、元カレ」
「え!?」
「なんで会社まで来ているのよ、あのボケナス!」
「す、鈴宮先輩……」
「先、帰って。ごめんね」
「は、はい」
森山さんと離れると、私は枯れ葉みたいな色のスーツを着た義和のところへ向かう。
「何か御用でしょうか?」
「愛梨澄、そんな冷たい言い方するなよ。メールもメッセージアプリも電話も、全部ブロックしているだろう、俺のこと。公衆電話からかけてもつながらないから、仕方なく、ここまで来ただけだよ」
なるほど。確かにもう二度と会うつもりはないと、義和の連絡先は削除していた。そして私のスマホは連絡帳に登録がないと、すべて受信できない設定にしていた。
「な、ちょっと時間くれよ、頼むからさ」
無視したい。けれど、今、沢山の職場の人がこのロビーにはいる。
ここで口論とか言い争いは避けたい。
「分かりました。ついて来てください」
多くの人が正面の出入口から出て行く中、私は義和を連れ、裏口へと向かう。
裏口から出て、駅に向かうため、皆、右の道を進む。左に行くと、ビルの隣にある公園へ出ることになる。
この公園は周囲をオフィスビルに囲まれているため、昼間は会社員が沢山ベンチに座っている。ランチを食べたり、休憩をしたり。
でも夕方になると閑古鳥が鳴いている状態。
つまり誰もいない。
ノー残業デイの待ち合わせをこの公園でする人もたまにいるらしいが、今は誰もいなかった。
「それで、何の用ですか?」
ベンチに座ることなく、何かあったら義和を置いて走り出せるよう、公園の入口近くの砂場の前で、義和と向き合った。
「なあ、そこにベンチあるから、座らないか」
「長話するつもりはありません。寒いですし、用事あるので」
「え、誰かと待ち合わせ?」
「用件を言わないなら、帰ります」
もう本当に回れ右して帰ろうとすると、義和が腕を掴んだ。
「待ってよ、話すからさ」
「話す前に、腕を離してください」
義和は腕を私から離し、数歩後退する。
「簡潔に用件を言ってください」
「なんか冷たいな。10年来の付き合いじゃん」
「信頼は築き上げるのに10年かかりますが、失う時は1秒です」
もはや仁王立ち状態で告げると、義和はいきなり拝むように手をあわせ、頭を下げた。
「愛梨澄、本当にごめん。俺が間違っていた。咲とは別れたから、やり直しさせて」
「はあ?」
呆れる私に義和が語った話は、聞いているうちに怒りが爆発しそうなものだった。
あのお盆休みの日。
義和と咲という女の情事の場に踏み込んでしまい、私と彼は別れた。同時に義和は、咲と交際を開始。最初の頃は、上手くいっていた。だが咲がこんなことを言い出したのだという。
「義和先輩、咲、産むなら早くがいいと思うのです」
「え、何が?」
「だから、赤ちゃんです! 子育って超ハードですよね? 若いうちじゃないと無理だと思うのです。だからとっと結婚して、子供作りません?」
突然、咲が結婚について話しだしたのだという。
何かの悪い冗談かと思い、スルーしようと思った。
だがその日以降、赤ちゃん話を散々され、結婚するつもりがないなら、お泊りデートはしたくないとなったのだという。
「咲の同期の男子に聞いたら、咲の奴、仕事なんてさらさらするつもりはなくて。会社には結婚相手を探すために来ているって、豪語していたらしい。一日も早く、相手を見つけて、寿退社をしたいって。……俺、騙されていたんだよ」
義和は同情を求める顔をするが、全く持ってして同意できない。
何を被害者面しているのか、と思ってしまう。
「そんな話聞かされても、1ミリも心が動かないのですが。自分が蒔いた種なのですから、どうぞご自分で対処してください」
もう帰ろうとすると、再び腕を掴まれた。
「もう、何なのですか?」
掴んでいた手を振り払う。
義和は困り切った顔のまま、話を続ける。
「だから、咲とは別れたから。それで分かったんだよ。俺、このまま独身でいたら、咲みたいな女に騙されるかもしれないって。だからさ、愛梨澄、俺と結婚しよう」
もう開いた口がふさがらない。
ワナワナと震えていると、「あ、愛梨澄喜んでくれている?」と義和が勘違いの笑顔になる。
「やっぱ愛梨澄が一番だよ」
そう言った義和が抱きついてきたので「やめてよ!」と逃れようとすると「照れるなよ」と迫ってくる。もう恐怖しかなく「いや!」と叫んだその時、私は転倒しそうになっていた。
最悪!
そう思った私の体は、ふわりと誰かの胸の中に着地している。
大人っぽいムスクの匂いが、グレーに白ストライプのスーツから、香っていた。紺色のネクタイとロングコート、その先を追って顔をあげると、黒髪に黒縁眼鏡、碧眼の瞳の長身の男性と目が合った。
だ、誰!?
「いたたたたた」
義和は情けない声を挙げている。
見るとこのスラリとしたナイスガイが、義和の手首を掴み上げていた。
「嫌がる女性に手を出すなんて、男の風上に置けないな。ねえ、お兄さん、彼女にもう手を出さないでもらえる? 俺、彼女にベタ惚れだからさ」
あれ、この言葉、どこかで聞いたことがある。
「はあ? お前、誰なんだよ、俺は愛梨澄の……あたたたた!」
「元カレさん、未練がましいよ。しつこくするならこのまま警察行きましょう。そのスーツの社章のロゴ、大手インテリアメーカーですよね。警察にお世話になったって、会社に知られたら、大変じゃないですか?」
この言葉に義和の顔が真っ青になる。
会社の看板に泥を塗るようなことがあれば、大変なことになるぐらいは、瞬時に理解できたようだ。
「! わ、分かった。もう帰る。二度と彼女の前に現れません!」
そこでようやく手を離してもらえた義和は、恨みがましそうな目で私を見た。
「元カレさん、あなたが彼女に手を出そうとした瞬間の写真、撮ってありますから。それを持って、いつでも警察に行けること、忘れないでください」
義和は絶句し、私から視線を外すと「くそっ」と悪態をつき、公園から駆け足で出て行った。