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この世界には音があふれている。
人の内なる音までも感受してしまうセンリツにとっては殊更に。
能力を得てしばらくは、止むことのない音の奔流に苦しめられ寝込んだこともある。けれど、眠りの世界でさえ音から逃れることはできないと理解してからは、それこそ死に物狂いで能力をコントロールする術を身に着けた。
(彼は、どうなのだろう)
この世界にたった一人きりの美しい瞳。
センリツにとってそれは美というよりも哀しさを呼び起こすものだったが、彼がそれをコントロールできるようになるまでには、計り知れない努力があったのではないだろうか。念能力は、生来のものをコントロールするほうが難しい。
(あ、帰ってきたのね)
夜と朝が混じり合うような時間帯。さすがに人の気配が少ない事務所で、間違えようのない音を感知した。彼、クラピカの音はとても透き通っていて、それでいてどんな混沌にも染まらずによく通る。強い欲と感情が集まる裏社会において、彼のその音を聞くと、出口の見えない音の渦のなかから力強く引き上げてもらえるような心地がするのだ。怒りに染まったときの彼の音は、こちらまで心を引き裂かれそうな哀切さを帯びるのだけど、平時のそれは奥のほうに潜んでいて、冬の朝のようなしんとした、誰にも侵せない静けさがある。
「センリツ、まだいたのか」
音を追うように本人が姿を見せた。きっちり着こなされた黒スーツにはこんな時間だというのに少しの乱れもない。整った無表情からもほとんど読み取れるものがないけれど、煙草とアルコール、そして香水の匂いがした。
「貴方こそ、こんな時間までお疲れさま。ちょうどお茶を淹れるところなのだけど、飲む?」
「ああ。ありがとう。お願いしよう」
休むという概念がすっぽり抜け落ちているような常の彼を見ているので、誘ってはみたものの断られると思っていた。珍しい。何かあったのかと思うけれど、彼の心音は何も語っていない。
「センリツは今日は音楽家の〇〇氏の案件だったな。こんな時間まで事務所にいるということは、何かあったか?」
(本当にこの人は)
目の前の年若い上司の有能さを改めて思い知る。自身の仕事と目的とで多忙を極めているだろうに、こうやって周りの人間の予定まで把握しているのだから。お茶の誘いを断らなかったのもそのためか。
「いいえ、とても平穏に完了したわ。ただ、氏は本当に音楽に造詣が深い方で、つい任務後のお話が盛り上がってしまって」
これは半分本当。この世界の仕事にあって珍しく、今日は本当に平和な時間であり、音楽家としても得がたい経験だった。とはいえそれでも事務所に帰ってきたのは真夜中過ぎ。そのまま帰るつもりだったのだけど、レオリオから着信があったのだ。
『あいつ、元気か?いや、元気って感じじゃねえかもしれないが。こんな時間に悪い……変な夢を見てどうしても気になっちまって。けどあいつは相変わらず電話に出ねし。ったく……いや、申し訳ない。いきなり電話しておいて……』
心配と苛立ちと申し訳なさと、いろいろな感情が電話口から伝わった。でも、電話ごしでも彼の心音はとてもあたたかく落ち着く。気持ちのこわばりがほっと解けるような音だ。
『大丈夫よ、私もちょうど誰かと話したかったところなの。彼はそうね、たしかに元気という言葉は少し違うかもしれないけれど、自分を傷つけるようなことはしていないわ。順調に目的を達しているみたい。ただ、すごく忙しいから、私もなかなか話す機会がないの。だから電話に出たくてもなかなか出られないのかも……』
『いいや、気を使ってくれなくて構わねえ、あいつが敢えて出ないはわかってるんだ。けど、オレはこれからもかけ続けようと思う。あいつが迷惑するくらいがちょうどいい。それにあいつの今の様子が分かって良かった。ありがとうな。変な時間に悪かった。センリツさんも体に気を付けてな』
明るい余韻で電話は切れた。それでなんとなく、クラピカを待ってみようと思ったのだ。
事務所には組員たちが待機や休憩をできるスペースがいくつかあって、そこはセンリツがよく使っている場所だった。だからほかの組員たちは遠慮して空けていてくれていることが多い。
(ここは不思議な居場所だわ)
自身の今の容姿が、蔑みの対象となることは嫌というほど分かっていた。言葉や態度に出なくとも、心音でそれがわかってしまうのが双方にとっての不幸。けれど目的を達するためにはその痛みに馴れるしかなかった。それなのに。
(彼、クラピカは本当に私の外見について何とも思っていない)
初対面で性別を間違われたものの、それだけ。「目を見れば分かる」とはかつて彼が言った言葉だけど、彼のふるまいは、本当にその眼差しから人の内面を見ているように思える。そしてそんな若頭の態度が影響したものなのか、ノストラード組の組員たちも、自分のことを若頭と近しい古参組員として、また、ときに仲間の回復のために使われる音楽の力の持ち主として、侮りではなく敬意をもって接してくれるようになった。
「お茶、どうぞ」
ほどよい加減になったカップを渡す。しなやかな手がそれを受け取る。その右手に今は鎖の姿はない。
「ありがとう」
しっかりと合った視線。その黒い瞳からは感情を読み取りにくい。それでも、いつもの無表情が微かに緩んだのが分かった。心音にもいつもより少し温度が感じられる。
(良かった)
レオリオの話をしようかと口を開きかけたとき、穏やかな声が先んじた。
「今日参加した会合で、センリツの目的に役立つかもしれない人物と伝手ができた。紹介しても良いか?」
(だからどうしてこの人は)
己の目的だけでも背負い切れるかわからない重さだろうに。周りのことなんて捨て置いて、自身の目的のために手段を選ばないことができればもっと楽だろうに。損な性格だ。だからこそ人が集まる。
「とてもありがたい申し出だわ。ぜひお願い」
せめて感謝の気持ちが伝わるように精一杯の笑みを浮かべる。
「でも、貴方の目的は進んだの?」
どうしても気になって訊いてしまう。
「正直なところ、今日はあまり収穫はなかった。だが、組の立場を考えれば参加しておいて損はなかったとも言える」
冷静な物言いの裏にどれだけの感情が封じられているのだろう。静かにお茶を口に運ぶ仕草は優雅で、1枚の絵画のよう。彼はいつからこういう所作を身に着けたのか。
「それを飲んだらしっかり休んだほうが良いわ」
休むということを思い出させるのが、彼の部下たちの重要な役目になりつつある。
「そんなに疲れて見えるか?」
「そうね、見た目にはわからないけれど、この数日のスケジュールを思えばそうすべきだと言える」
「見えないなら良かった。だが、その言葉には従おう。実は出る前にリンセンにも言われた」
音も立てずに空になったお茶のカップが置かれた。無茶をしがちな上司の補佐に、遠慮なく進言できる人間がいて良かったと思う。そう采配したのも本人ではあるが。
「センリツも、早く休んだほうが良い。ごちそうさま」
するりと席を立ち、クラピカが部屋を出ていく。その透き通った音が地下に向かうのを感じた。
(休めるのかしら)
地下は彼だけの聖域だ。そこに何があるのか、彼に近しい人間はよく知っている。だからこそ心配になる。それは彼にとって大切な時間なのだと理解はするけれど、そこで過ごす時間は余計に彼の精神を削いでいるのではないかと。
(大きな力は人を歪めるものだけど)
たとえば強大な権力、莫大な資産、圧倒的な武力。どんなに崇高な志を持っていても、人は大きな力を持ち続けると、力に酔い、吞み込まれ、本来の方向を見失ってしまいがちだ。その歪みの始まりは、人の内なる音に如実に表れる。その瞬間を何度も聞いてきた。
だからクラピカが裏社会で着実に地位を築いていくなかで、少しばかり危惧があったのだ。けれどそれは杞憂だった。彼の音はいつまでも澄んだまま。ただ、見た目にはわからなくとも、そのことが彼を消耗させつづけているのではないかとも感じる。
(私にできるのはこれくらい)
いつも身近に置いているフルートをそっと構え、祈るような気持ちで微かな音を奏でる。おそらく意識には聞こえない、けれど無意識にそっと影響するくらいの音。それが地下まで届くことを祈って。