「そういや、さっきなに言いかけた?」
「え……っ!?」
報告を聴いて、大急ぎで競技場を目指す道々のことだ。
とは言え、相棒はあのザマだし、早駆けをするには脚力が足りず、なかばボスに引きずられる形だった。
自分も連れてけと志願したのは手前(てめえ)なワケだから、あまり文句を言えた義理じゃない。
恐ろしい風切り音が耳元でビョオビョオと鳴っていたが、よく通るあの人の声は、拾うのにそう難儀するものでも無かった。
どちらかと言うと、厄介なのは風圧のほうか。
帽子は元より、何かの拍子に唇が捲られて、そのままどっかへ飛んでいきそうな錯覚に見舞われた。
「なに……!? なんすか!」
「ほれ、“今の俺は”って」
「あぁ……」
人が丸くなる要因は、それこそ様々だと思う。
加齢であったり、生活の変化。 宗旨替えなども、その一因か。
彼女と任務を共にしたのは、もう何年前だ?
あの頃のボスは、それこそ盛(さか)りに盛った炎のようで、恐怖による規律の徹底。 暴力による統制を信条にする人だった。
まかり間違っても、口答えなどできたものでは無く、一言でもそのように発すれば、たちまち鉄拳制裁の雨あられだ。
そこから考えると、この変わりようは単に丸くなったと言うよりも、生まれ変わったと表すほうが、何かとしっくり来るような。
「……何かあったんすか?」
「あん!?」
「なにかありました!?」
声を張ったところ、 危うく舌を噛みそうになった。
足裏に火焔を点した健脚は、民家の屋根を風のように駆け、電柱の天辺を踏んで高々と舞い上がる。
ふと、真横にのぞむ東の空に気を向けると、次第に顔を出し始めた太陽が、折り重なる雲の表面を、薄っすらと朱色(あけいろ)に染めていた。
「そう見えるかい?」
「見えるから訊いてんす」
自然の雄大さに感動する性質(たち)ではないが、その時ながめた朝焼けは、不思議と心の中にすんなりと入ってくる景色だった。
丸くなった。
そうだろうとも。 俺も人ことは言えやしない。
「まぁ、お前さんと同(おんな)いような感じかも知んないな」
「え?」
わずかに速度を落とした彼女は、眩(まぶ)しげに横合いを見た。
夜明けを間近に控えた、コバルトの空を背景にしている所以(ゆえん)もあるだろう、何とも言えない儚(はかな)さが、陰影のように際立(きわだ)つ顔つきだ。
バカげた話だが、この人もまた女性なのだと、そんな当たり前のことを痛感させる表情だった。
「最近、お上(かみ)と差しで話すことが多くてね?」
「それは──」
「なんだろうな……? “感化された”って言い方も変だけど、自分の道は本当にこれでいいのかって、思うことがあるじゃんか。 たまに」
赤茶けた屋根瓦を捉えた足裏が、速やかにこれを踏み台に転用し、全幅にわずかな動揺を及ぼした。
脳天を引っ張られるような浮遊感と共に、空がいっそう近くなる。
「あんたも、そんな感じのモンを見たんじゃないの? あのヒトに」
「………………」
俺がアイツになにを見たのか、それは自分でも分からない。
仕事疲れですっかりと干からびた目ン玉に、風に任せて気ままに漂(ただよ)う雲みてぇな足取りが、いたく魅力的に映ったのはたしかだろう。
しかし、これを単に“感化された”で済ますのは、いささか具合が悪い。
退(の)っ引きならない事情があったとは言え、それまでの生活をそっくりと放(ほ)っぽり出した理由が、一時(いっとき)の感情によるものとあっては、さすがに立つ瀬がない。
「私があのヒトにケンカ吹っ掛けたら、どうなると思う?」
「は?」
急に不穏なことを言い出した。
丸くなった・角(かど)が取れた。 そういった旨(むね)を念頭に定めた先の題目は、いったいどこへ行ったのか。
怪訝(けげん)な心持ちが、まんま顔に表れていたのだと思う。
こらちにチラと視線を投げかけた彼女は、わずかに吹き出した。
「手前(てめえ)も裁けん奴が、人さま裁くワケにはいかんよな?」
「は……?」
言ってる意味は分かるが、ワケが分からん。
額(ひたい)の違和感は、先頃からひっきりなしに眉根がねじ曲がってるせいか。
変われば変わるもの。
よもや彼女の口から、そんな言葉を聞くことになるとは思わなかった。
昔はもっと、ド直球な性格の持ち主だったはずだ。
いや、ある意味それは今でも変わらず。
「お前さんクビな? すっかり腑抜けちまって、使いもんにならんわ」
攣(つ)りそうだった眉間(みけん)が、すっと平らになる感覚を知った。
当節では死刑宣告に等しいそれが、やけに甘ったるく感じるのは、組織の内情を知る身としては当然か。
しかし、これを鵜呑みにする訳にはいかない。
こちらにも面子(めんつ)がある。
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