朝廷の一室。
櫻塚 時也は
机の上に広げた書簡を整理しながら
静かな夜を過ごしていた。
薄い紙障子の向こうから
ゆるやかな風が流れ込む。
政務を終えた後の静寂は
彼にとって唯一
心を休める時間だった。
しかし
微かに、空気が揺れた。
「⋯⋯青龍、か?」
時也は視線を上げる。
次の瞬間──
彼の目前に
銀白の長髪を揺らす青年
青龍が跪いていた。
「時也様。お久しゅうございます」
琥珀色の角を持つその姿は
変わらず凛然としている。
時也は
微笑を浮かべたまま
ゆっくりと身を起こした。
「どうしました?
当主の命⋯⋯ではないですね」
青龍の表情は微かに引き締まり
頭を垂れた。
「はい。
雪音様よりの命で ⋯⋯これを」
青龍は
懐から一通の文を取り出す。
その上質な和紙は
触れるだけで微かに香が残る。
時也は、その封を見つめた。
「⋯⋯文、ですか。」
雪音らしい、端正な筆の文字。
紙に触れた瞬間
指先に懐かしさが滲む。
雪音の手が、此処に触れたのだ。
時也は、静かに封を解く。
そこには
流れるような美しい筆致で
こう書かれていた。
⸻
『お兄様へ。
この文が届く頃には
もう夜も更けているでしょう。
どうか
お身体をご自愛くださいませ。
本題にございます。
明日の帰宅は、決してなりませぬ。
山より、禍が降りる刻
道は崩れ、川は怒り
帰路は断たれることとなりましょう。
お兄様が、其処に留まるのならば
櫻塚家の名は護られます。
お心に掛かる事もありましょうが
どうか雪音の言葉を疑わず
ただ、朝廷に留まり続けてくださいませ。
それこそが
お兄様を護る道でございます。
それでは──雪音より』
⸻
静かに文を読み終えた時也は
ふっと唇を綻ばせた。
「⋯⋯雪音が言うのなら
そうなるのでしょうね」
言葉は淡々としていたが
その声音には深い信頼が滲んでいた。
彼女が語る〝未来〟は
もはや揺るがぬ定め。
ならば⋯⋯それに従うまで。
「明日は、朝廷に留まりましょう」
時也は文を折り畳み
丁寧に袖の中へと仕舞う。
「ご苦労でした、青龍」
青龍は深く頭を下げた。
しかし
彼はその場を動かず再び口を開いた。
「では、このまま私も
屋敷に戻られるまでお傍に居ります」
その言葉に
時也は一瞬、目を細めた。
「⋯⋯それも、雪音からの言葉ですか?」
青龍は、静かに頷く。
「左様でございます」
時也は微笑んだ。
「……ふふ」
穏やかに、静かに
しかし何処か切なげに。
彼の瞳が、ふと夜空を見上げた。
星々が瞬く漆黒の空。
ーまるで、半身を探すようにー
「では、久しぶりに話しましょうか」
時也はゆっくりと杯を傾けた。
「雪音の様子を教えてください」
青龍は
静かに膝を正し杯を受け取ると
深く頭を下げる。
「お望みのままに」
彼の声が、静寂に溶けた。
こうして、夜は更けていく⋯⋯。
⸻
「もう一杯いかがです?青龍」
時也が、杯を傾けながら静かに言った。
その言葉に
青龍は目を細める。
「⋯⋯あのお小さかった時也様が
酒を嗜まれる頃になりましたか」
どこか感慨深げな声音。
確かに
時也はもう二十歳になった。
しかし
その目に映るのは幼き頃の影。
「ふふ。
お前には⋯⋯
幼い頃より随分助けられましたね」
時也の微笑みは穏やかだった。
だが
その微笑みを見た瞬間──
青龍の心に
微かな痛みが走る。
それは
感情から生まれた笑顔ではない。
まるで
鎖に肌を痛めぬように詰められた
綿のようなものだ。
自らを守る為に作られた
痛みを和らげる為の笑顔。
青龍は
ふと昔を思い出していた。
父にも母にも愛情を貰えず
それでも支え合うように生きてきた
双子の事を。
あの座敷牢の中で
たった二人きりの世界を作り
お互いを支え合うように
生きていた幼い兄妹。
時也と雪音は
誰よりも孤独だった。
それでも⋯⋯
青龍の前でだけは
双子は子供らしく振る舞う時もあった。
ーかつて、座敷牢の中—
時也と雪音は
青龍の膝の上で小さく笑っていた。
「⋯⋯青龍
たかいたかいして?」
雪音が
小さな手を伸ばして青龍にねだる。
「雪音様⋯⋯
お怪我をされては大変です。
座ったままの私の背では
それほど高くはなりませんよ?」
「でも!あに様よりは高いでしょう?」
「⋯⋯お前は
僕を馬鹿にしているのですか、雪音?」
時也が、口を尖らせる。
雪音は、にんまりと笑って
青龍の袖を引いた。
「だって、あに様は⋯⋯
座ってる青龍より小さいもの!」
「ふふ⋯⋯そうですね。
雪音様の仰る通り。
ですが直ぐに
時也様も大きくなられましょう」
青龍が静かに微笑み
雪音を軽々と持ち上げた。
「わぁぁ⋯⋯っ!」
雪音は
ふわりと宙に浮いた感覚に目を輝かせる。
その光景を見ながら
時也は腕を組みじっと青龍を睨んだ。
「⋯⋯青龍」
「はい、時也様?」
「⋯⋯僕も、お願いします」
雪音が、けらけらと笑った。
「お兄様
やっぱり悔しかったんですね?」
「⋯⋯⋯⋯違います」
「ふふ⋯⋯では、参りますよ」
青龍は、静かに時也を持ち上げた。
しかし──
「⋯⋯っ!」
時也の小さな手が
青龍の襟をぎゅっと掴む。
そのまま、震えた。
青龍は、はっとする。
「⋯⋯時也様?」
時也の身体が
小さく震えていた。
「⋯⋯高いところは⋯⋯あまり⋯⋯」
そう呟く声が、僅かに震えている。
「お兄様、怖いのですか?」
雪音が、じっと見つめる。
「むぅ⋯⋯怖くなど、ありません」
しかし、その手は確かに
青龍の着物を握り締めたままだった。
青龍は、そっと時也を降ろす。
「⋯⋯申し訳ございません、時也様」
時也は、唇を噛んで
青龍を睨むように見た。
「⋯⋯笑わないのですか?」
「何を、でしょう?」
「⋯⋯僕が⋯怖がった事を」
青龍は、静かに頭を振った。
「いえ⋯⋯
時也様は、よく耐えられました」
その言葉に
時也は驚いたように目を瞬く。
「⋯⋯耐えた⋯?」
「ええ」
青龍は、静かに微笑んだ。
「⋯⋯怖くても、時也様は
逃げなかった」
時也は、じっと青龍を見つめた。
「⋯⋯ふふ」
小さな笑い声が漏れる。
「⋯⋯青龍
貴方は⋯⋯変わり者ですね」
その言葉を残し
時也は静かに
座敷牢の奥へと歩いて行った。
⸻
青龍は
時也の笑顔を見つめながら
静かに杯を取った。
「⋯⋯時也様」
「なんです?」
「本当に、よく⋯⋯成長なさいましたね」
その言葉に、時也は微笑む。
「⋯⋯そうですか?」
「ええ」
「⋯⋯ならば、また
昔のように僕を持ち上げてみますか?」
青龍は、ふっと息を漏らす。
「さすがに、それはご勘弁を」
「ふふ、残念ですね」
時也の微笑みは
どこまでも静かで
どこまでも遠かった。
青龍は
その笑みの裏にあるものを
もう言葉にはしなかった。
ただ、杯を傾ける。
「では、時也様」
「なんです?」
「⋯⋯私がいる間だけは
心から酒を楽しんでください」
時也は、ふっと息を漏らした。
そして──
「⋯⋯ええ。
では、貴方の言葉に⋯⋯甘えましょう」
二人は、静かに杯を交わした。
夜は、ゆっくりと更けていく──⋯
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愛する妹を守るため、すべてを捧げた兄。 運命に抗うため、自ら鎖となった妹。 断末魔の夜、すべてが燃え尽きた。 ──半身を失った絶叫が、運命を引き裂く。 絶望の果てに、何もかもを喪った兄妹の物語。