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朝の街はいつもと変わらずに、活発な音が響き続ける。通りを渡る子供の笑い声、屋台の鍋が弾ける音、遠くで鳴るエンジンの低い唸り。それらは表面の雑音でしかない。私に届くのは、雑音の一つ一つの「輪郭」だ。音の端がほんのわずかに震えた瞬間、その震えが誰の呼吸に由来するのかを分離する。街は賑やかだが、私の感覚は常に分解と再構築を繰り返している。
私の目はただ見ているだけではない。そして耳はただ聞いているだけではない。皮膚のわずかな振動、呼吸の乱れ。その全部がひとつの波形になって胸の奥に触れる。歩道に足を落とす感触、袖の擦れ、コンクリートの温度差。そうした細部が重なって「物の状態」を描き出す。痩せた息遣いは焦りを示し、浅い呼吸は恐怖を告げる。私はそれらを無感情に拾い上げ、解析しているだけだ。
すると1匹のイカボーイが右側の狭い通りから出てきた。T字の先端の、光が二分されるほう。日が差している場所からすれば影が深い側だ。彼の出方はぎこちなく、地面の反射を嫌うように一歩一歩を刻む。太陽光が肩のラインを撫でるたびに、彼の影が細く震え、影の縁が不安定になる。影が濃く落ちるほうへ身体を寄せているのが見て取れる。
顔を見る。他の連中より若い。童顔なのかもしれないが、身長的に三十路に向かう程老けてはいないか。骨格と皮膚の張りからはそう判断できる。目の端に不安が走っている。瞳孔の収縮と、視線の微かな左右揺れ。それが恐れのパターンだ。頬の筋肉は強張り、唇の端は乾いている。まぶたの裏に浮かぶ血管の収縮まで読める。若さは不安とセットだが、それは実務的なデータに過ぎない。手はポケットに無理に押し込まれ、指先が服の縫い目を探る癖が出ている。衣服の縫い目、袖口の擦れ、肩の僅かな丸まり。縫い目を探る指先の動きの速さ、爪先の角度、肘の引き方。それらはすべて、彼が自らを落ち着かせようとする反射だと解析できる。「安心を得ようとする動き」だ。
彼の気配は普通じゃない。いつからかは知らないが、チーターというものは気配でわかる。チーターであれば誰でも出来るものの様だが、消す事は出来ない。私はそれを嗅ぎ取る。瞬時に分かる。彼はチーターだ。それだけだ。興味があるわけでも、同情があるわけでもない。事実を確認しただけだ。チーターの気配は皮膚の奥で小さくざわめくような波形になる。普通の波形とは異なり、そこには「抑圧」と「耐える意思」が重なる。私にはそれが分かる。彼が何を選ぶかは彼の問題だ。私の関与は必要な時だけに限定される。
フランの店の前、そこから出てきたのではないかと一瞬思った。あの店の近くだ。彼がそこに寄るのは知っている。私には、どうでもいいささやかな事実だ。彼がどの店のコーヒーを好もうが私の狩りには関係ない。ただ、目の前に「動く標的」がいる。それだけだ。
その「ささやかな事実」は記録としてのみ価値がある。フランの店の暖簾の端、カウンターの木目、店先に残る油の匂い。それらは彼がどんな足取りでそこを出たかを証明する。だが証明は感情を生まない。標的がどう動くか、それだけが重要だ。
彼が私を見ても、表情は変わらない。だがその目には、即座に何かが走る。見破られたときの、俗っぽい恐怖だ。彼は口を開きかけて閉じる。唇が震えた。彼の発する空気が、私のナイフの冷たさを思い出させる。ナイフはまだ鞘にある。私は抜かない。今日はただ、見るだけと決めている。彼が焦っていること、彼が隠していることは確かだ。チーターなら、隠す理由がある。隠されるほど,こちらの足取りも重くなる。
見破られた瞬間の反応は、行動の予測精度を上げる鍵だ。唇の震え方、舌の位置、気道の僅かな開閉。それらが彼の次の一手を示唆する。私の手は鞘の近くにあるが、あくまで観察者である。刃は最後の証拠として取っておくだけだ。
「お前、チーターだろう?」
その言葉は事実の確認だ。問いかけではない。返答は不要で、返答の有無すらもまた情報だ。彼が言葉を選ぶ間に、私は彼の次の動きをすでに想定している。声は平坦で、まるで天気予報でも伝えるようだ。彼の肩が小さく跳ねた。言葉が身体の中を通り抜けるとき、彼の影がうごめくのが見えた。
「い、いや、違うよ。俺は、ただ…」
彼はたどたどしく続けようとするが、言葉がどこかで切れる。目が泳ぐ。彼の手が一瞬だけ開き、掌の内に隠した小さな紐か何かを見せるようにぎゅっと握る。私はそれが何かを見ようとも思わない。知っていても仕様は変わらない。けれど、彼が自分を守ろうとしているのは分かる。護るという意志。守る者の匂いだ。
「俺は殺すために生まれたんじゃないんだよね。」
彼が低く言う。言葉に嘘は含まれていない。だが嘘をついているわけでもない。彼の声は本当の部分と、それを守ろうとする似非が混ざっていた。私はそれを分析して、無意味だと判断する。言葉はふるいにかけられ、余分な感情は落ちる。残ったのは、彼が戦いたくないという事実と、戦わざるを得ない状況にあるという事実。
「ここで死にたくないなら逃げりゃいいじゃない。」
私は答える。冷たい。だが、それが正直な提案だ。逃げろ。でなければ、斬るだけだ。私にとっては選択肢が多くない。彼の心が一瞬だけ軽くなったように見えた。顔の筋肉がほんのわずか緩む。逃げる気が芽生えたのかもしれない。私はそれを促す。興味はないが、効率は重んじる。無駄な殺戮は好まない。
彼は後ろを振り向き、足の動きを確かめる。T字の先、道は左右に分かれている。右へ出て、さらに狭い裏道へ伸びる。そこへ走れば、人混みに紛れて事は済むかもしれない。彼は決断したように左目を細め、右足に力を込める。動く。
彼は右の路地へ入る。砂利が微かに跳ねる音がする。私は歩幅を変えずにそのまま残る。追うつもりがなかった。空気の中に残る彼の気配が、私の感覚に小さな皺を作る。護るということは、他者に向ける弱さだ。私はそれを理解しない。だが、理解する必要もない。彼は走る。足元の影が乱れ、彼のインクが路地の暗がりに溶け込む。
振り返った瞬間、彼の表情が完全に崩れた。逃げる彼の肩と首筋に滲む汗。恐怖が一皮剥けて流れている。私はその瞬間だけ、無意味に心を覗き込むふりをする。深いところは見たくない。
彼は角を曲がり、消えた。音が途切れ、空気が戻る。T字路には私とフランの店の窓の反射だけが残る。私はナイフの位置を確かめる。柄は冷たい。刃は見当たらない。私はもう一度、彼の背中を思い出す。若さと不安の混じった背中。守るために戦う者は、どこかしら醜くもあった。私はその評価を心の外でつぶやいた。
「リガル・ラグナス……とかいってたかな……。」
私は小さく、ただ名を呟いた。声は風に消えた。彼の名を覚えて、私の世界は少しだけ厚みを増す。用が終われば、それでいい。
路地の石畳に還る光は鋭かった。太陽が壁を擦り、影をほそく、だが濃く落とす。リガルの息遣いが耳に届く。浅い。速い。生き物の焦りの音。私はそれを数える。彼の背中の筋肉の震え、肩甲骨の動き、右足の片寄り。全部が意味を持つ。
反撃のチーターがそこに居る。初めて視界に入った瞬間の私の印象は「重量」だった。空間が詰まるように、空気が凝縮する。瞳は赤い。黒みを帯びた静脈が皮膚の下で脈動している。表皮の裂け目から淡い光が漏れ、そこに揺らめくような粒子が滲んでいた。見てはいけないものを見た気がする。だが、見る。私は見ることを止めない。
リガルが先に動いた。両腕を前に出し、掌から透明な膜が伸びる。膜は薄いが張りがあり、風を切る音を立てて壁に吸い付いた。彼がバリアを張る間の指先の震えは、守ることの必死さを物語る。私は彼を見下ろす位置に立ち、ナイフの在処を確認する。柄。冷たい。鞘にきっかり納まっている。抜かない。まだ抜かない。今日は「観察」だ。刃は無言の証言者であるべきだ。反撃のチーターはゆっくり笑った。声が低く、金属が擦れるような余韻を残す。
「逃げてんのか? 同族から。」
その言葉に嘲りが混じる。彼は殴られることを愉しんでいる。殴られ、吸収し、返す。その行為のリズムが彼の存在理由だということは一目でわかる。リズムは乱さないものの方がいい。私はそれを確かめるように、ゆっくりと眼を細める。
最初の衝撃は、意図せずに私の皮膚を震わせた。反撃のチーターが一歩踏み込み、拳を振るう。拳は壁を撥ね飛ばし、砂利が四散する。リガルのバリアがその拳を受け止める。薄膜が大きく波打ち、押し戻される。バリアの表面は鈍い音を放ち、そこから細かい火花が散った。リガルの顔色が白くなる。掌の筋が浮き、血管がきしむ。私はバリアの軋み音を数えた。三回の波紋の後、膜はなんとか耐えた。だが、拳のエネルギーは吸収され、反撃のチーターの体表が一瞬、白く亮いた。
「吸ったな。」
私は冷たく言う。反撃のチーターはそれを楽しげに咳ばらいしたように受け流す。
「もっと殴れ。」
その言葉は挑発だ。挑発は戦いを誘う。誘われた者は殴るか逃げるかのどちらかを選ぶ。リガルは逃げる意志を持った。だが逃げるだけでは追いつめられる。彼は裏道に逃げ込み、そこに罠があるのを見誤った。私はそれを見ていないふりをした。観察だ。無用の干渉はしない。
「データは揃った。」
反撃のチーターは次の拳を振るった。そのとき、私は動いた。動きは無音に近く、ただ足が滑っただけのように見えたかもしれない。だが実際には速度は十分で、反撃のチーターの視界の端に私が入り込んだ。ナイフは柄から滑り出し、鞘との摩擦音が極めて低い。相手は攻撃を蓄積し、次の一撃に全てを賭けようとしている。そこを「殴られる」以外の方式で削ぐのが私の狙いだ。私は攻撃しないで傷を与える。
刃は頰に沿って滑った。皮膚が薄く裂け、黒い血が細く霧状に吹き出す。その瞬間、反撃のチーターの体内の光が収束した。彼は驚愕した顔を見せた。殴られずに血が出るという事実が、彼の事象モデルを混乱させる。エネルギーを溜める条件は「外力」。しかし私の刃は外力を与えた。それは与えたが、その入力は「吸収可能な衝撃」ではなかった。鋭い、切断の方向性。彼のシステムはそれを即座に分類できず、蓄積プロセスが狂った。肩の筋が跳ね、皮膚表面が一瞬痙攣する。
(俺に吸収出来ないものはない…!だが…狩人が直接持ってるもんは嫌いだ…!あいつ…切るタイミングを少しずらしやがった……!!)
彼は怒声を上げ、拳を振るう。腕に稲妻のような光が走る。拳が空間を引き裂く勢いで飛んだ。私は受けるつもりだった。受ける予定だった。だが、受ける前にナイフを柄から引き戻し、反撃の拳に刃を当てる。金属が金属を削るような高音が短く鳴り、火花が跳ねる。反撃のチーターはその瞬間、手首の感覚を失ったように見えた。エネルギーが逆流する。自身が吸収していたエネルギーの一部を、刃の切断面から弾き返されたのだ。
彼の顔が歪む。そこに一瞬、怯えが混ざる。怯えは暴力の前では滑稽だが、観察には有用だ。リガルは壁に伏せ、両膝をついて息を整えている。バリアはところどころ穴が開き、そこから小さな煙が漏れている。彼は私を見上げ、言葉を発しかけるが、声にならない。震えている。私はそれを無視して、再び刃を振るう。今回の切断は浅かった。頸の筋を薄く裂き、血が勢いよく噴いた。反撃のチーターは咆哮し、足元の石を粉砕する。だがその咆哮の最中、内部で過負荷が発生する。彼の体表に亀裂が入り、そこから滲む光が急速に明るくなる。
「やめろ!」
リガルが叫ぶ。あのチーターにいったのだろうが、それは私を思って言ったのかとなぜか一瞬思った。叫びは途切れ、彼は手の甲で顔を覆う。彼の目には、ただ恐怖だけがある。守るためのバリアが彼を守り切れない現実が、彼の内側で砕け散っている。私は彼の叫びを聞き流す。行為は事実を変えない。
私はチーターに攻撃し続けてる。奴を殺さない程度に。痛ぶるのを見たいのではない。作がある。チーターは怒りを覚え、握り拳を作る。エネルギーの塊が見えて力を増幅させる。しかしその瞬間、処理能力が追いつかなかった。胸部のひび割れが広がり、粘稠な血とともに光が噴き出す。
「こんな所が……俺の限界な訳が……!!」
体内で臨界が達した瞬間、その膨張が構造の限界を超え、彼は自分で自分を裂いた。爆発的な音がして、石が舞い、埃が舞う。私の耳にその音が届くが、私は音ではない結果だけを注視する。彼の胴が二つに裂け、中から粘液と光と、何かの破片が滴り落ちる。
静寂が戻る。世界が再び音を取り戻すまで、ほんの数秒が経つ。リガルは壁に寄りかかっている。顔に灰と血が混ざり、瞳孔が震えている。私は息つくことすら忘れていない。刃を鞘に戻す。柄が鞘に当たる乾いた音が、路地に小さな波紋を作った。
「……やった…のか?」
リガルの声は砂を噛むようだった。震えた言葉。
「やった。」
私は平坦に答える。
「どうして……。」
彼は続ける、だが言葉は途切れ、ただ嗚咽だけが漏れる。私は彼を見下ろす。若い顔が、昼の光に不釣り合いなほど真っ白に映えている。彼の手が空に伸び、見つめる先に何もない。私は胸の中で評価をする。彼の行為は守るためにあった。守るための手段は不十分だった。結果、他者を死に至らしめた。悲劇だが事実である。
「お前は……俺を殺さないのか?」
彼が絞り出すように言った。声が震える。
「お前が襲わない限りはな。」
私は答えた。私の声には余情も含まれない。条件が揃えば、私は躊躇を捨てる。だが今のところ、彼はまだ価値がある。守るという意志は、それだけで計測値が上がる。
リガルはゆっくりと膝をつく。鼻から息が荒く漏れる。血が指に付く。私は側を離れ、路地の出口に向けて歩き出す。振り返ったとき、彼は小さく、だが確かに私に向かって呟いた。
「ありがとう。」
その言葉の意味は曖昧で、私の世界には干渉しない。私は返答をしない。足音が遠ざかり、昼の空気がまたいつもの喧騒を取り戻していく。私の狩りは続くだけだ。
リガル・ラグナス
イカボーイ。24歳。
実は「守護のチーター」。
空間を隔てるバリアを作れる。耐久性はかなり強い。
バレたら殺されるので、誰にも自分がチーターである事は言っていない。(尚、スロスには気配でわかる模様)
どちらかといれば弱気で臆病な性格。フランの店にはかなり前から行っていて心をまともに開けているのはフランだけ。他が覚悟決まり過ぎているだけで正直引いてる。
自分は狩人としての度胸がないのであくまで自己防衛として戦うが、使うのはインクの武器。殺すつもりはない。
幼い頃、4つ上の兄を失った。