テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
35
67
44
その日の、夜も更けた頃。
隣ですやすや寝ていたはずの花斗から聞こえた小さな「ふえん」という泣き声に、私の目はパチッと開いてしまった。
花斗とともに寝落ちしたはずだったのに。
どうしてこうも母親というものは、少しの子どもの変化で目が覚めてしまうものなのだろう。
仕方なく布団をかぶり直し、もう一度目を閉じた直後だった。
「ふえん」と小さな泣き声が、もう一度聞こえた。
これは、もしや……。
その予感は、見事に的中してしまった。
小さな泣き声はやがて大きくなり、耳をつんざく。
久しぶりの、〝夜泣き〟だ。
花斗は三歳になった今も、日中になにかしらイベントがあると、時折夜中に泣き出すのだ。
興奮することがあった日は夜泣きしやすいというけれど、このところ夜はぐっすり寝ていてくれたから油断した。
引越なんて、大人の私にとっても大イベントだ。子どもの刺激にならない訳がない。
私は怠い体を起こして、花斗を抱き上げた。
それでも泣き止まない花斗に淡い期待を打ち砕かれながら、ふと見た枕元の目覚まし時計は、午後十一時半を示していた。
大きな声で鳴き続ける花斗の背中をとんとんと優しく叩きながら、体を前後に揺らす。
早く寝て、壱月にも迷惑じゃないか、と思いながら「大丈夫だよ~」と声をかける。
そんなこんなで一時間が経過。
やっと寝静まった花斗を布団に下ろし、背中からそうっと手を抜き取る。
「んん……」
花斗はそのまま、寝息を立て始めた。それで、ほっと安堵の息をつく。
その後、私は冴えてしまった脳を休めようとリビングにやってきた。
「お疲れ」
ちょうど壱月が自身の寝室から出てきて、ひそひそ話をするような声でそう言った。
「ごめんね、起こしちゃった?」
「いや、起きてたから。それにしても、あんなに泣くんだな」
「……うるさかったよね」
壱月はなにも言わなかったけれど、大窓から入る月明かりで、苦笑いを浮かべたのがわかる。
「ごめんね」
もう一度小さくそう言うと、壱月は「ちょっと、話さないか?」と大窓の方を指差す。
壱月がそのまま歩き出したから、私もその後に続いた。
大窓の前のソファに、壱月と並んで座る。
暗い中、明かりも点けずに並んでいるのは、なんだか変な気分だ。
「子育てって、大変なんだな」
「え……?」
突然壱月がそう言ったから、私はまじまじとその横顔を見てしまった。
壱月は窓の外をぼうっと眺めている。
「甘やかすだけじゃダメ。優しく接するだけでもダメ。色々気を張ってなきゃいけないのに、予想もしない行動するし、口を開けばヤダって言う。おまけに、夜泣き。今日ちょっと一緒にいただけだけど、親ってすごいんだなって、思ったんだ」
壱月はもしかしたら、気づいているのかもしれない。花斗が、自分の子供であることに。
だから、花斗をよく見てくれたのかもしれない。〝父親〟らしいことをしようとして。
この同居は、あの時私との連絡を絶ってしまったことへの懺悔。
もしかしたら、彼なりに〝父親〟になろうとしているのかもしれない。
そう思ったら、怒りからなのか、悔しさからなのかわからない感情が、胸の奥からせりあがってくる。
私は膝の上で、ぎゅっと拳を握った。褒め言葉を並べられたはずなのに、拳がプルプル震える。
胸の奥からせりあがってきた感情が、目頭をじわんと熱くした。
「愛音は、すごいよ」
「そうだよ」
壱月がこちらに向き直りそう言ったから、反射的にそう返してしまった。
思ったより涙声だったけれど、沸いてしまった感情が言葉になって、そのままあふれてしまう。
「私は、あの子がお腹にいたときからずっとひとりでやってきた。親に見離されても、仕事を時短勤務にしても。母親になるために、いろんなこと捨ててきたんだよ」
――あなたのせいで、と続けようとして、私ははっと言葉を止めた。
紡ごうとした言葉は、目前に迫った壱月の胸にのみ込まれてしまったのだ。
背に回った彼の腕の感覚に、流れていた涙が引っ込む。どうやら、私は壱月に抱き締められているらしい。
彼の大きな手は私の後頭部を優しく包み、その胸に押し付けている。反対の手は、私の背中を優しく擦っていた。
「……壱月?」
絞り出した声は彼のパジャマに吸い込まれていく。
壱月は私の頭に自身の顎を乗せるようにして、抱き締める腕に力を込めた。
「愛音がどんな思いだったかとか、それに対して俺が言えることはなにもない。でもさっき、『子どもって案外単純』と言ったのは、悪かった。愛音の苦労も、知らないで」
彼の言葉に、色々な思いが再びの涙とともにあふれ出す。
そうだよ、たくさん苦労したんだよ。辛かった。寂しかった。
あなたがそばにいてくれさえすれば。何度、そう思っただろう。
馬鹿、馬鹿、馬鹿。壱月の馬鹿!
「うう……うう……」
背中を優しく撫で続ける壱月の大きな手が、すごく憎いのに、すごく安心する。
なんて矛盾だろう。
悔しい。彼の腕の中で、泣いてしまっている事実が。
それでも涙を止められないでいると、壱月が不意に口を開いた。
「でもさ、もうひとりじゃないから」
その言葉に、私はそっと顔を上げた。壱月は眉をハの字に曲げて、優しい瞳をしている。
「俺も乗りかかった船。甘えてくれて、構わない」
「でも……」
つい否定の言葉を口にすると、壱月は静かに首を横に振った。
「家主の権限。ここに住む限りは、甘えること。絶対条件」
そう言いながら、壱月は私の頬を流れる涙を、その長い指の腹で拭ってくれる。
彼の言葉は厳しいのに、それとは裏腹な優しい口調に、私の胸はドキドキと高鳴る。
何で? 壱月は、私を捨てたサイテーな男なのに……。
淡い思いが、芽生えてしまいそうになる。
けれど次の瞬間、壱月は小声でケラケラ笑い出した。
「ひでえ顔」
「……馬鹿」
私は壱月の胸を押し返し、服の裾でごしごしと目元を拭った。
それからそっと立ち上がり、「おやすみ」と逃げるように部屋に戻った。
コメント
1件
夜泣き対応で疲れた愛音の心情がひしひし伝わってきて、読んでるこっちも胸がギュッとなったよ。壱月が「甘えること、絶対条件」って言いながら抱きしめてくれたところ、憎いのに安心しちゃう愛音の気持ち、すごくわかる……! 過去を清算するみたいな同居じゃなくて、ちゃんと向き合おうとしてるのが伝わってきた。次が気になる!🔥