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第十八話 深海神域、願いは沈まない
冬木に、海鳴りが響いていた。
本来なら、街の中心部まで届くはずのない音だった。
潮騒。
波が岸壁を叩く音。
遠くで船が軋むような音。
深い海底で、巨大な何かが身じろぎするような低い響き。
それが、夜の冬木全域を覆っている。
窓ガラスが微かに震えた。
庭の木々が、風ではなく潮気に揺れる。
空気が湿り、畳の匂いに塩の匂いが混ざった。
衛宮邸の居間で、凛の宝石板が青黒い光を放っていた。
「海王反応、急拡大。港湾区から霊脈を逆流して、新都、深山町、冬木大橋周辺まで侵食してる」
凛は唇を噛んだ。
「これ、ただの水害じゃないわ。神杯が“冬木という土地の境界”を海へ書き換えようとしてる」
士郎は顔を上げる。
「境界を書き換える?」
メディアが頷いた。
「陸と海の境界を消す。街を海へ沈めるのではなく、“ここは最初から海だった”という神話に上書きするつもりよ」
ジャンヌが静かに言う。
「存在した生活や記憶まで、海の底に沈めるということですか」
「そうなるわね」
その言葉に、居間の空気が重くなった。
終末。
裁き。
死。
狩猟。
因果。
いくつもの層を越えてきた。
だが、海の層はそれらとは違う。
海はすべてを飲み込む。
境界を曖昧にし、形を削り、名を洗い流す。
凛が画面を拡大する。
「中心は港湾区。だけど反応の核は、冬木大橋の下流にある霊脈合流点。そこに久遠寺零士と海王ポセイドンがいる」
アルトリアの表情が引き締まる。
「最初に戦った神ですね」
士郎は頷いた。
神杯戦争の始まり。
冬木大橋に現れた少年姿の神。
三叉槍。
空に浮かぶ海。
神器と宝具の違いを、最初に突きつけてきた存在。
あの時、士郎は神器を解析できなかった。
神の武器とは、武器である前に権能なのだと知った。
今は違う。
神器を完全に理解したわけではない。
神に届くほど強くなったわけでもない。
だが、士郎はここまで来た。
願いを一つずつ、神杯から本人へ返しながら。
イリヤが胸元の豊穣の種に手を当てた。
「海に沈んだら、私たちの家もなくなるの?」
士郎は答えに詰まった。
イリヤは続ける。
「おはようって言う場所も、卵焼き作る台所も、なくなる?」
「なくさせない」
士郎は即答した。
イリヤは少しだけ安心したように頷く。
「うん」
桜が静かに言った。
「私も行きます」
凛が振り返る。
「桜、今回は危険よ。海王の神域は範囲が広すぎる」
「だから行きます」
桜は凛をまっすぐ見た。
「沈められるのは、街だけじゃない気がするんです。今まで取り戻してきたもの全部が、海の底に沈められる気がする」
メドゥーサが桜の隣に立つ。
「サクラが行くなら、私は守ります」
クー・フーリンが槍を肩に担ぐ。
「海の神か。槍投げには向いてねぇ足場だな」
バゼットは拳を鳴らす。
「足場が悪いなら、なおさら短期決着を狙うべきです」
ギルガメッシュは不愉快そうに窓の外を見た。
「我の視界を海底に沈めるだと? 不敬にもほどがある」
エルキドゥは静かに言う。
「でも、海は古い。ギル、油断しない方がいい」
「誰に言っている」
アーチャーは士郎を見る。
「今回は、お前が前に出るほど危険だ。海は境界を消す。投影の輪郭も曖昧にされるぞ」
「分かってる」
「本当にか?」
「たぶん」
「その返事をやめろ」
凛が深く息を吐く。
「とにかく、作戦は三つ。第一に、街への侵食を止める。第二に、海王と神杯の接続を切る。第三に、神杯核へ続く海底門を開く」
士郎は頷いた。
「行こう」
◆
港湾区は、すでに半分海になっていた。
道路の上を波が流れている。
コンテナは浮き、街灯は水面から斜めに突き出している。
倉庫の壁には、海藻のような黒い神杯の根が絡みついていた。
だが、ただ水没しているわけではない。
水面の下に、別の街が見える。
沈んだ冬木。
あり得たかもしれない冬木。
最初から海の底にあったかのような、青黒い街並み。
凛が宝石板を確認して叫ぶ。
「現実と神話が重なってる! 水面の下に見えてるのは、神杯が作った“海底冬木”よ!」
メディアが杖を掲げる。
「沈んだ方が本物だと定義されれば、地上の冬木が消えるわ」
その時、海面が割れた。
巨大な波が左右に開き、中央に道ができる。
その奥に、一人の少年が立っていた。
いや、少年だった存在。
最初に会った時よりも、姿が変わっていた。
髪は深い海の色。
瞳は嵐の海。
額には珊瑚のような冠。
手には三叉槍。
海王ポセイドン。
その隣に、久遠寺零士が立っている。
黒いコートは濡れていない。
表情は以前と変わらず静か。
だが、その右手の神紋は肩まで広がり、青黒い光を放っていた。
ポセイドンは士郎たちを見た。
「また来たか、人間」
声は以前より低い。
海そのものが喋っているようだった。
士郎は一歩前へ出る。
「神杯と繋がってるのか」
ポセイドンは三叉槍を軽く傾けた。
「繋がっている。だが、完全に従っているわけではない」
凛が鋭く言う。
「街を沈めようとしてる時点で十分迷惑よ」
久遠寺零士が静かに口を開いた。
「沈めるのではない。戻すんだ」
「戻す?」
零士は水面を見た。
「陸は境界を作る。家、道、塀、名前、所有、血筋、勝者、敗者。すべてを分ける。だが海は違う。海は分けない。沈めれば、すべてが同じ深さになる」
士郎は眉をひそめる。
「同じ深さ?」
「そうだ。苦しみも、罪も、願いも、名前も、全部が海に溶ければいい」
その言葉は静かだった。
だが、そこには深い諦めがあった。
ジャンヌが問う。
「あなたは、何を沈めたいのですか」
零士はしばらく黙った。
そして答えた。
「自分の家だ」
凛の目が細くなる。
「久遠寺家……」
「魔術師の家は、血を分ける。才能を分ける。役目を分ける。残す者と捨てる者を分ける。僕は、そういう陸が嫌いだった」
零士の神紋が脈打つ。
「神杯は言った。海なら、すべてを等しくできると」
ポセイドンは目を伏せる。
「海は等しい。だが、等しさとは、個を消すことでもある」
士郎はポセイドンを見る。
「分かってるなら、なぜ止めない」
海王は静かに答えた。
「海は求められた時、押し寄せる。人が境界を捨てたいと願うなら、海はその願いを受け入れる」
メディアが冷たく言う。
「神らしい言い訳ね。受け入れるふりをして、全部飲み込む」
ポセイドンの瞳がわずかに険しくなる。
「魔女よ。海を侮るな」
「侮っているのはそちらでしょう。人間の願いを、海で一括りにできると思っている」
零士の右手が震えた。
神杯の黒い根が、彼の足元から海へ伸びている。
ポセイドンは三叉槍を掲げた。
「だが層は開かれた。海の問いを越えぬ限り、神杯核への道は開かぬ」
海が鳴る。
空が青黒く染まる。
港湾区の地面が消え、全員の足元に水面が広がった。
神域展開。
「深海神域――タラッサ・アビュッソス」
◆
世界が沈んだ。
上も下も分からない。
空気はある。
だが、そこは明らかに海中だった。
冬木の街が、青い水の中に揺れている。
電柱も、家も、橋も、街灯も、すべてが海底に沈んでいる。
人はいない。
音もない。
ただ、遠くから波の重い圧だけが届く。
凛が即座に結界を張る。
「全員、離れないで! この神域、存在の輪郭を溶かしてくる!」
桜が自分の手を見る。
指先が水に溶けるように淡く揺らいでいる。
メドゥーサが彼女の手を握る。
「サクラ」
「大丈夫です」
桜は深呼吸する。
「影を抱えたままなら、輪郭は消えません」
メドゥーサは静かに頷いた。
イリヤは胸元の豊穣の種を押さえていた。
黄金の光が、水の中で小さく揺れている。
「ここ、怖い」
士郎が問う。
「苦しいか」
「うん。でも……沈みたくない」
その言葉に、豊穣の種が強く光った。
小さな根が、海底のような神域に伸びる。
海はすべてを溶かそうとする。
だが、種は根を張ろうとする。
デメテルの力が、イリヤを支えている。
ポセイドンが三叉槍を振るった。
海中に巨大な渦が生まれる。
水圧が刃となって襲いかかる。
セイバーが前へ出る。
不可視の剣で水刃を斬る。
だが、切ったはずの水はすぐに戻る。
「水そのものが武器ですか」
ランスロットが横から黒剣で渦を押し返す。
「王よ、足場が悪い!」
リチャードが水中を泳ぐように剣を振る。
「なるほど! これは陸の王には厳しい!」
イスカンダルの戦車は海中でも走った。
牛たちが雷をまとい、水を割って進む。
「海であろうと道にすればよい!」
エルメロイⅡ世の悲鳴が響く。
「無茶苦茶だ!」
クー・フーリンは水流の中で槍を回す。
「やりづれぇが、魚相手よりはましか!」
バゼットは水圧の流れを読み、拳で迫る水刃を弾く。
「水でも、力の向きがあるなら崩せます」
ギルガメッシュはヴィマーナを展開しようとして、眉をひそめた。
「海中で舟を出せとは、実に不愉快だ」
エルキドゥは鎖を広げ、水中に固定点を作る。
「ギル、怒ってる場合じゃないよ」
「怒ってなどおらん。これは不快だ」
アーチャーは士郎の隣で弓を構えた。
「来るぞ」
海中の沈んだ街から、無数の影が浮かび上がる。
人影ではない。
家。
道。
校舎。
商店街。
土蔵。
衛宮邸。
冬木にあった場所の影。
それらが海に溶け、輪郭を失いながら士郎たちへ迫ってくる。
凛が青ざめた。
「街の記憶を使ってる……!」
メディアが言う。
「神杯は冬木そのものを海へ溶かすつもりよ。場所の記憶を消せば、人の願いの足場も消える」
士郎は沈んだ衛宮邸の影を見た。
縁側。
台所。
土蔵。
居間。
そこが海に溶けようとしている。
イリヤが叫ぶ。
「だめ!」
黄金の種が光る。
「あそこは、明日卵焼き作る場所!」
その声に、沈みかけた衛宮邸の影が揺れた。
完全には溶けない。
士郎も叫ぶ。
「そこは、帰る場所だ!」
彼は投影する。
剣ではない。
杭。
家の基礎を留めるための杭。
流されるものを繋ぎ止めるためのもの。
「投影、開始!」
士郎は無数の杭を海底へ打ち込む。
だが水圧が強い。
杭はすぐに抜けかける。
アーチャーが同じ杭を投影し、士郎の杭へ重ねる。
「固定が甘い!」
「分かってる!」
エルキドゥの鎖が杭を縛る。
凛の宝石魔術が杭へ霊脈固定の術式を付与する。
メディアが神代文字で補強する。
ジャンヌの旗が祈りの光を広げる。
衛宮邸の影が、海中に踏みとどまった。
ポセイドンの目がわずかに細くなる。
「場所に願いを繋ぐか」
士郎は叫ぶ。
「場所はただの土地じゃない! そこに誰かが帰るなら、沈めていいものじゃない!」
零士が静かに言う。
「帰る場所がある者は、そう言える」
士郎は彼を見る。
零士の表情は変わらない。
だが、その声には深い空洞があった。
帰る場所がなかった者の声。
海へ沈めたいと思うほど、陸に居場所を失った者の声。
士郎は言葉を詰まらせる。
その隙に、ポセイドンが三叉槍を突き出した。
巨大な水圧の槍が士郎へ迫る。
セイバーが間に入る。
聖剣で水槍を受け止める。
「シロウ、迷うなら後で!」
「分かってる!」
士郎は再び走る。
目指すのはポセイドンではない。
零士だ。
彼と神杯を繋ぐ黒い海根を切らなければ、この神域は止まらない。
◆
海中の戦いは激化した。
ポセイドンの三叉槍は、空間そのものを海へ変える。
ギルガメッシュの宝具は放たれるたびに、水圧で軌道を歪められる。
しかし英雄王はそれを力技で上回り、海中に黄金の軌跡を刻む。
エルキドゥの鎖は神性へ届こうとするが、海の流動性が拘束を逃がす。
「掴んでも、形が変わる」
エルキドゥが呟く。
ギルガメッシュは冷たく言う。
「ならば変わる前に貫け」
宝具と鎖の連携が、水流の中でポセイドンを一瞬だけ縛る。
アルトリアとランスロットがその隙に斬り込む。
聖剣と黒剣が、三叉槍とぶつかる。
衝撃で海が割れた。
ポセイドンは後退しない。
「騎士王。湖の騎士。陸の王の剣で海を斬るか」
アルトリアは答える。
「海を斬るのではありません。そこに沈められようとしている人の明日を守るのです」
ランスロットも続く。
「王の道を沈める海ならば、騎士の剣で支えるのみ」
ポセイドンの表情がわずかに動いた。
イスカンダルは戦車で渦を突破し、リチャードと共に海中の支点を砕く。
「征服王よ! 海路というのは便利だな!」
「はっはっは! 海も道にできれば征服の範囲よ!」
エルメロイⅡ世が叫ぶ。
「もう少し静かに征服しろ!」
クー・フーリンとバゼットは零士へ向かう黒い根を牽制していた。
クー・フーリンの槍が水中でも鋭く走り、バゼットの拳が水圧の流れを砕く。
「坊主! 行くなら今だ!」
士郎は頷いた。
桜とメドゥーサが士郎の進路を守る。
桜の影が海底に広がり、流されそうになる足場を繋ぎ止める。
「影は、水に溶けません」
桜は静かに言った。
「沈んでも、そこにあります」
メドゥーサの鎖が水流を切り裂く。
「サクラ、無理はしないでください」
「はい。でも、今は立ちます」
桜の影に支えられ、士郎は零士の前へ辿り着いた。
零士は逃げなかった。
「衛宮士郎」
「久遠寺零士」
「君は、どうしてそこまで浮かび上がろうとする」
零士の声は静かだった。
「沈めば楽だ。名前も、罪も、願いも、全部が薄くなる。誰かを救えなかったことも、選ばれなかったことも、捨てられたことも、海は責めない」
士郎は息を整える。
「責めないかもしれない。でも、答えてもくれない」
零士の目が揺れた。
士郎は続ける。
「沈めたら、痛みは見えなくなるかもしれない。でも、そこにあった願いも見えなくなる。イリヤの明日も、桜の怒りも、切嗣の謝罪も、ランスロットの赦しも、アルターエゴの未完成も、全部同じ海の底に沈む」
零士は黙る。
「俺は、それが嫌だ」
神杯の黒い根が零士の背後で蠢く。
士郎は手を伸ばす。
「沈みたいって思うことが悪いとは言わない。でも、神杯に沈めさせるな。お前の願いを、海王の権能に丸投げするな」
零士の神紋が激しく光る。
神杯が彼を通じて海王の神域をさらに深くしようとしている。
零士は苦しげに顔を歪めた。
「僕は……もう、陸に立つ理由がない」
その時、イリヤの声がした。
「じゃあ、理由を作ればいいよ」
全員が振り返る。
イリヤが来ていた。
凛とジャンヌの結界に守られ、豊穣の種を光らせながら。
士郎が叫ぶ。
「イリヤ!」
「ごめん。でも、言いたかった」
イリヤは零士を見る。
「私も一回、終わりたいって思った。全部終われば楽だって。でも、生きたいって言ったら、ちょっとずつ理由が増えたよ。おはようとか、ご飯とか、明日の卵焼きとか」
零士は呆然とイリヤを見る。
彼にとって、それはあまりにも小さな理由だった。
だが、その小ささこそが、海に溶かせないものだった。
イリヤは続ける。
「陸に立つ理由って、最初から大きくなくていいんじゃないかな」
零士の神紋が揺らぐ。
ポセイドンが遠くで目を細めた。
「白い少女……」
神杯の黒い根がイリヤへ向かって伸びる。
士郎が即座に前へ出る。
投影する。
今度は錨。
海に沈めるためではなく、流されないための錨。
「投影、開始!」
巨大ではない。
粗雑で、不完全な錨。
だが、そこにエルキドゥの鎖が繋がる。
凛の宝石魔術が固定する。
メディアの術式が霊脈へ結ぶ。
桜の影が足場を作り、ジャンヌの旗が光を注ぐ。
士郎は錨を海底へ打ち込んだ。
「ここは、沈めない!」
イリヤの豊穣の種から伸びた根が、錨に絡む。
小さな黄金の芽が海底に生えた。
海中に、陸の始まりが生まれた。
零士の目が大きく揺れる。
ポセイドンの神域が震えた。
海はすべてを飲み込む。
だが、海底にも根は張れる。
沈んだから終わりではない。
そこから浮かび上がることも、そこに新しい足場を作ることもできる。
◆
神杯が激しく反応した。
黒い海が渦を巻き、巨大な海竜のような形を取る。
神杯が作った、沈没の怪物。
海底冬木を完全に現実へ上書きするための防衛機構。
ポセイドンはその怪物を見て、初めて明確な怒りを見せた。
「神杯。海を、沈めるためだけの道具にするか」
海王の三叉槍が輝く。
零士は膝をつき、神紋を押さえている。
「ポセイドン……」
「久遠寺零士。お前の願いは聞いた。だが、海に全てを溶かすことは、お前の救いにはならぬ」
零士は何も言えない。
ポセイドンは士郎を見る。
「人間。今だけ、海はお前たちの道となる」
士郎は頷いた。
「ああ!」
ポセイドンが三叉槍を振るう。
海流が変わった。
敵だった海が、士郎たちを押し上げる。
セイバーとランスロットが海竜の正面へ走る。
クー・フーリンの槍が海流に乗り、竜の目を貫く。
バゼットが水圧を踏み台にして接近し、拳で神杯の黒い核を揺らす。
ギルガメッシュの宝具が黄金の流星群となって海中を貫き、エルキドゥの鎖が竜の身体を縛る。
イスカンダルの戦車が雷をまとって水を裂き、リチャードの剣が開いた道を広げる。
桜とメドゥーサは黒い根を足元から封じ、ジャンヌは全員の願いが海に溶けないよう祈りを張る。
凛とメディアは海底冬木の上書き術式を逆流させる。
「士郎!」
凛が叫ぶ。
「核への接続線、見えた! 海竜の胸部!」
「分かった!」
士郎は錨から鎖を伸ばす。
投影した鎖ではない。
エルキドゥの鎖を借りる。
桜の影を足場にする。
凛の宝石を支点にする。
メディアの術式で海流を読む。
士郎一人では届かない。
だが、一人ではない。
士郎は海竜の胸部へ向かって飛び込む。
アーチャーの声が響く。
「衛宮士郎!」
「分かってる!」
「なら行け!」
アーチャーの矢が士郎の進路を塞ぐ黒い根を撃ち抜く。
士郎は手を伸ばす。
作るのは剣ではない。
栓。
海と神杯を繋ぐ穴を塞ぐための、不格好な栓。
「投影、開始!」
手に現れたのは、ただの鉄の塊に近かった。
だが、それでいい。
神器ではない。
宝具ではない。
神を殺す武器でもない。
ただ、これ以上願いが流れ出さないようにするための蓋。
士郎はそれを海竜の胸に叩き込んだ。
「願いを、海に流すな!」
栓が黒い接続線を塞ぐ。
凛とメディアの術式が流れ込む。
ポセイドンの三叉槍が海流を断つ。
イリヤの豊穣の根が錨を固定する。
ジャンヌの旗が祈りを結ぶ。
海竜が咆哮する。
その身体が崩れ始めた。
海底冬木が揺らぐ。
沈んだ街並みが、泡のように浮かび上がる。
消えるのではない。
地上の冬木へ戻っていく。
道が。
家が。
橋が。
衛宮邸が。
海底から浮かび上がる。
◆
神域が崩れた時、士郎たちは港湾区の濡れた地面に立っていた。
水は引き始めている。
コンテナは元の場所へ戻り、街灯はまっすぐ立ち、道路には海藻ではなく雨上がりのような水溜まりだけが残っていた。
ポセイドンは海の上に立っていた。
その姿は、また最初に会った時の少年に近く戻っている。
久遠寺零士は膝をついていた。
神紋は薄れ、神杯の黒い根は消えている。
士郎は彼に近づく。
「立てるか」
零士は士郎の手を見た。
しばらく迷ってから、その手を取った。
士郎は彼を引き上げる。
零士は港の地面に立った。
濡れていて、冷たくて、決して居心地のいい場所ではない。
だが、それは陸だった。
「……重いな」
零士が呟く。
士郎は少し笑った。
「陸だからな」
零士は遠くの海を見る。
「沈めば楽だと思っていた」
「そう思う時もあるんだと思う」
「君は、沈まないのか」
士郎は少し考える。
「沈む時はある。でも、誰かが引っ張ってくれる」
零士は黙った。
イリヤが近づいてきた。
「卵焼き、食べる?」
零士は驚いたように彼女を見る。
「何?」
「明日作るから。たぶん失敗するけど」
士郎が横から言う。
「最初から失敗前提なのか」
「だって初めてだし」
零士はしばらく二人を見ていた。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「考えておく」
それは小さな返事だった。
だが、陸に立つ理由としては十分だった。
ポセイドンは三叉槍を肩に担ぐ。
「海の層は開かれた」
凛が宝石板を見る。
「本当だ……神杯核への接続路、さらに安定。これでかなり深部まで見える」
メディアが目を細める。
「残る防衛層は、多くないわね」
ポセイドンは士郎を見た。
「人間。神杯の核へ行くなら覚えておけ。海の底より深い場所に、願いの原初がある。そこでは、個々の願いはまだ名を持たない」
「名を持たない願い?」
「生きたい、救いたい、戻りたい、終わりたい。そう名づける前の、もっと曖昧で、もっと危険な衝動だ」
士郎は息を呑む。
ポセイドンは続ける。
「神杯の核は、それを燃やしている。お前たちが返してきた願いは、表層にすぎぬ」
凛の表情が険しくなる。
「まだ奥があるってことね」
ポセイドンは頷く。
「次に開くのは、智慧と迷妄の層。知ることで救われるのか、知らぬことで守られるのか。その問いが来る」
メディアが静かに呟く。
「智慧神……アテナの再登場ね」
士郎は夜空を見上げる。
黒い神杯には、また深い亀裂が増えていた。
終末。
祝祭。
裁き。
愛憎。
創造。
死。
王権。
月影。
豊穣。
狩猟。
因果。
海。
十二の層を越えた。
神杯の核は、もう目前だ。
だが、近づくほど問いは深くなる。
願いを知ること。
願いの本質を見ること。
それは本当に救いなのか。
◆
衛宮邸へ戻った時、夜は明けかけていた。
イリヤは疲れ切っていたが、台所に立った。
士郎は当然止めようとした。
「今日は寝ろって」
「やだ。約束した」
イリヤは卵を一つ持つ。
「明日になったから、作る」
士郎は時計を見る。
確かに、夜は明けていた。
明日が来ていた。
士郎は苦笑し、隣に立つ。
「じゃあ、一個だけな」
「うん」
桜も台所へ入り、凛も呆れながら後ろから覗く。
アルターエゴは真剣に記録している。
「卵焼き作成は、生存確認行為?」
イリヤは卵を割りながら答えた。
「うん。たぶん」
卵の殻が少し入った。
士郎が取り除く。
凛が笑いを堪える。
桜が優しく火加減を見ている。
イリヤは真剣な顔で卵を巻こうとして、少し崩した。
「……失敗した」
士郎は皿を出す。
「最初はそんなもんだ」
イリヤは崩れた卵焼きを見つめる。
そして、小さく笑った。
「でも、できた」
「ああ」
「海に沈まなかったね」
「ああ」
士郎は頷いた。
「沈まなかった」
イリヤは崩れた卵焼きを一口食べた。
「しょっぱい」
「塩入れすぎたな」
「次は甘くする」
「次があるなら、それでいい」
イリヤは嬉しそうに笑った。
「うん。次がある」
その言葉は、黒い神杯の下で何より強く響いた。
◆
同じ頃。
柳洞寺の地下。
かつて智慧神が神杯の構造図を残した場所で、銀の羽根が再び光り始めた。
その光の中に、灰銀髪の女神が立っている。
智慧神アテナ。
彼女は静かに目を開いた。
「ついに、海を越えましたか」
彼女の隣に、一人の青年が立っている。
東雲カナタ。
智慧神のマスター。
カナタは神杯の亀裂を観測しながら言った。
「次は、知ることの層ですね」
アテナは頷く。
「はい。彼らは多くの願いを返してきました。ですが、神杯の核を破壊するには、知らなければならない」
「何を?」
アテナは冬木の空を見上げる。
「神杯が、なぜ生まれたのか」
その言葉に、空気が冷えた。
アテナは続ける。
「願いを叶える杯ではなく、願いを燃料にする杯。そんなものを、誰が、何のために作ったのか」
黒い神杯の亀裂から、淡い銀の光が漏れる。
それは知恵の光であり、同時に暴いてはならない真実の光でもあった。
神杯戦争、第十八夜。
海王は冬木を沈めようとし、士郎たちは帰る場所を海底から引き上げた。
久遠寺零士は、初めて陸に立つ理由を受け取りかけた。
そして次に待つのは、智慧の層。
知れば救われるのか。
知らなければ守れたものがあるのか。
神杯誕生の真実が、ついに開かれようとしている。
第十九話へ続く。
コメント
1件
おー、第18話お疲れ様です!いやあ、今回はもう本当にね…「海」のイメージが圧巻でした。ポセイドンが「沈めるためだけの道具にするか」って怒るところ、海王としての誇りを感じて痺れましたよ。零士くんの「自分の家を沈めたい」って告白も重くて、でも「卵焼き食べる?」ってイリヤちゃんが言うシーンでぶわっと涙腺来ました。次はアテナの層か…仕掛けがどう繋がるか楽しみです!