テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
“あの日、私だけが取り残された坂道”
Episode 10 #自分の足で、新しい空を
担任の先生が、眼鏡の奥から真剣な目で私を見つめた。
手元にある私のプリントには、「まだ分かりません。でも、自分で探したいです」という文字が、少し歪んだ青いインクで刻まれている。高校生の進路希望としては、あまりにも不真面目で、抽象的な回答だ。怒られるかもしれないと、背中に少し緊張が走る。
けれど、先生は小さく息を吐くと、優しく微笑んだ。
「いいと思う。最初からガチガチに決めて、自分で自分の可能性を狭める必要はないからな。これからは塾のクラスも一つ下がるそうだし、まずは焦らず、自分のペースで『基礎』を固め直していこう」
「……はい。ありがとうございます」
職員室を出ると、廊下の窓から差し込む西日が、床をオレンジ色に染めていた。
不思議と、胸の中はすっきりとしていた。塾のクラスが落ちることも、医者という目標がなくなったことも、今の私にとっては「失敗」ではなく、ただの「現在地」として受け入れられていた。
教室に戻ると、千尋が自分の机の上に教科書を広げて待っていた。
「おかえり、美咲! 先生になんて言われた?」
「別に。これから頑張れって」
「そっか。じゃ、約束通り、勉強会しよ! 私、今日の小テストの範囲、実はちょっと怪しいんだよね」
千尋はそう言って、ノートを開いて見せた。
相変わらず要領よくポイントを押さえているけれど、よく見ると、千尋のノートにもいくつかのバツ印や、悩んだ形跡の残る消しゴムの跡があった。
前までの私は、千尋のことを「何もしなくてもできる天才」だと思い込み、勝手に嫉妬して、勝手に絶望していた。でも、それは私が自分の仮面を守るために、彼女を都合のいい怪物に仕立て上げていただけだったのだ。千尋だって、悩むこともあるし、間違えることもある。
「千尋、ここの文法なんだけど……」
「あ、そこね! それはね、この単語が後ろにくるから――」
千尋の解説を聴きながら、私は一文字一文字、丁寧にノートに書き写していく。
前みたいに「全部暗記しなきゃ」という強迫観念はない。分からないところは「分からない」と言い、間違えたら「あ、間違えた」と笑って書き直す。
ただそれだけのことなのに、勉強が、昨日までよりずっと軽く感じられた。
夕方、塾の自習室には行かず、私はまっすぐ家に帰った。
玄関を開けると、お母さんがリビングで夕食の準備をしていた。トントンと響く包丁の音が、どこか温かい。
「おかえり、美咲」
「ただいま。お母さん、これ、学校に出してきたよ」
私はカバンから、先生にコピーしてもらった進路希望調査の控えを手渡した。
お母さんは手を止め、その紙をじっと見つめた。私の書いた、お医者さんではない、不格好な決意表明。
お母さんはしばらく沈黙した後、紙をそっとテーブルに置き、私を見て微笑んだ。
「……そう。自分で探すのね。大変だと思うけど、応援するわ」
その言葉に、嘘偽りはなかった。お母さんもまた、私を「優等生の娘」としてではなく、一人の「美咲」という人間として見ようと、一歩を踏み出してくれたのだ。
夜、自分の部屋の机に向かう。
山積みにされた参考書は、もう私を脅かす自鳴琴ではなかった。
私は新しいノートを開き、今日間違えた英語の文法を、もう一度最初から解き直す。
結果はすぐには出ないかもしれない。
また誰かに追い抜かれて、悔しい思いをすることもあるかもしれない。
でも、もう私は逃げないし、誰かの影に怯えることもない。
私は私のスピードで、私の足で、この長い坂道を上っていく。
窓の外には、どこまでも広がる、深い夜空が輝いていた。
“あの日、私だけが取り残された坂道”完結!
短い期間でしたが読んでくれた読者の皆様
ありがとうございました!
次回からは連載が止まっていた小説の方を書いていくので、ぜひ良かったら他の小説も読んでください!
ではまた。
#現実世界
雪代 真希奈
107
#進化
雪代 真希奈
25
#儚い
nanaha.
236
コメント
1件
那月さん、完結おめでとうございます。第10話、とても温かい気持ちになりました。特に、美咲が「自分で探したい」と書いた進路希望調査を先生もお母さんも受け入れてくれた流れ、そこに「お医者さん」という仮面を外した彼女の成長がしっかり詰まっていて胸がじんわりしました。千尋のノートに消しゴムの跡があったという細かい描写も、二人の距離が縮まった感じがして好きです。自分の足で坂道を上っていく――その決意が爽やかな余韻を残してくれました。短い期間でしたが、素敵な物語をありがとうございます。次の作品も楽しみにしていますね。