テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
「連絡もよこさずデートの待ち合わせに二時間以上遅刻する男を殺すのは法律的にセーフなんだっけ」
高見沢夏見のその物騒な疑問は、駅前の喧騒にかき消された。
物騒で、そして正当な疑問だった。
夏見は、自分と同じく恋人と待ち合わせをしていたカップルが、無事に落ち合い、仲睦まじくどこかへ歩いていくのを、遠い目で眺めていた——憧憬半分、殺気半分の眼差しで。分かりやすく八つ当たりである。周囲の人間は剣呑な雰囲気を察してか、彼女の座る長いベンチには他に誰も座っていない。
(あのアホ、令和の人間だよな? スマホ持ってるよな? 山育ちとかじゃないよな?)
何十回と電話とメッセージを繰り返しても繋がらない。
三月二十四日月曜日。春。天気快晴。陽気。桜満開。駅前の雑踏。午前十時を示す時計台。
そんな絶好のデート日和に、夏見も自慢の彼氏とデートの約束をしていた。しかし、ただのデートではない。二泊三日の卒業旅行である。彼女の前にある赤いキャリーケースが、行き先の遠さを物語っていた。
乗る予定だった電車は、とっくに発車してしまっている。
行き先は、栃木県北部にある、日光・鬼怒川温泉。ここから電車で二時間ほどだ。夏見としては、もう少し背伸びをして海外旅行へと洒落込みたい気持ちもあったのだが、まあ、その辺は高校生の身の丈に合わせた。
……もっとも。
あの男と一緒ならば、正直言って場所なんて何処でもいい。
そう思えるくらいには熱々である。
だったはずだ。
「…………」
夏見は、生まれつきの鋭い目つきを、より一層尖らせた。火のつくような眼光である。
だいたい、
『来月からは学校関係でお互い忙しくなりそうだし、その前にひとつ、卒業旅行と洒落込まない? 泊まりで海とか温泉とか行こうよ』
なんて調子のいいことを言って誘ってきたのは向こうなのだ。彼氏を海に沈めたい気分である。この際温泉でもいい。あの、いつも飄々とした男の顔を苦痛で歪ませてやりたい。
「……はああぁぁぁぁぁ………」
せっかく、楽しみにしていたのに。もう、なんというか台無しな気分である。
彼氏の言う通り、進学先が違うので、来月の新学期からは今までのように会うことは難しくなる。
離れた途端に冷めるカップル。高校では仲が良かったのに、大学に入ってすぐ破局するカップル。どちらもよく聞く話だ。ただでさえ最近マンネリ気味だったので、夏見は内心気が気でなかった。
だから彼氏の誘いは本当に嬉しかったのだが——二時間も待った後では、そんな感情はとうの昔に風化している。
(法学部では、殺人罪について詳しく学びたいな……)
ふいに、夏見のすぐ横に人が座った。
(これだけ空いてるんだから、もっと間隔空けてくんないかな……)
気が立っていた夏見は、咄嗟に隣を睨みつけた――が、すぐに表情が緩んだ。
「えー、何? お米も切らしてるの? もっと早く言ってよー。いやいや、あんな重いの一人じゃ無理だって。ユウタもいるんだから」
別に、相手が通話中だから気を遣ったわけではない。
その女性が、ベビーカーを引いていたからだ。日除けで陰になっているその奥に、くりっとした目を夏見に向ける、小さな生き物がいたからだ。
「うっうー、あー」
短い手足をばたばたと動かしている。そうかと思うと今度は親指を咥えたり、両手を広げて伸びをしたりする。
しかし、身体は元気に動いているのに、なぜか、その子は夏見から目を離さなかった。夏見も目を離さないでいると、まるで意思が通じたように、にっこりと微笑んできた。
「……あはは」
夏見は悶えた。
可愛い。可愛すぎる。心臓が雑巾のように絞られる感覚。他人の赤ちゃんでこれなら、なるほど、自分の子なら、目に入れても痛くないだろう。
(いくつなんだろう。私の顔が見えてて、こんなに活発に動いてるってことは筋肉は発達してきてるってことだから……生後五ヶ月くらいかな?)
夏見はベビーカーに顔を近づけて、手を振った。衝動的に触りたくなったが、ぐっとこらえた。さすがに、それはお母さんが嫌だろう。
「…………」
そのお母さんは、通話に夢中で、夏見に気づいていなかった。そして通話を終えると、ベビーカーを押して、すぐに歩いていってしまった。
(……大変なんだろうな、きっと)
早歩きで去っていく名も知らぬ女性の背中を見て、夏見はそう思った。
そして一人になり、また現実に戻される。そうだ、私は彼氏を待っている最中だったのだ。二時間遅刻して連絡もつかない彼氏を。
(……ま、あいつが変なのは、今に始まったことじゃないしね……私ってば心広っ)
思い返せば、出会った時から変な男だった。これまでの彼氏の奇妙奇天烈な言動を思えば、二時間の遅刻くらい、あの男の彼女として許容すべきなのでは? と、思えなくもなくもなくもなくもなくもなくもなくもない。
(そもそも、ラインにも電話にも反応なしって、どういうこと? スマホをどこかへ忘れていっちゃったのか、それとも、スマホの使い方を忘れちゃったのか)
本気でそんなことを考えた。
あの男なら、どっちもあり得る話だ。どこか人間として、ネジが外れているというか、致命的に足りないところがある奴なのだ。
(いや、でも、もっと現実的な可能性として、連絡が返せる状況じゃないってこともあるんじゃ……たとえば、来る途中で車に轢かれたとか、緊急搬送されてるとか……)
本当ならそっちのほうが先に考慮すべき可能性ではあったが……ともあれ。
彼女の感情が怒りから心配に変化したタイミングで、まるでその瞬間を見計らったかのように、
「ごめんなっちゃん!」
彼は来た。
走って。
髪も乱れて。
息も絶え絶えで。
血相を変えて。
汗びっしょりで。
「………………」
やっと来た。なんて言ってやろう。どんな罵倒をしてやろう。どうやっていびってやろう。とりあえず荷物を持たせるのは確定。一ヶ月は私に絶対服従。
などと、色々考えていたはずなのに、彼の顔を見た瞬間、そんな思考は消失した。
「あはははははは!」
ツボにはまったのか、夏見は腹を抱えて笑い出す。
「あんたのそんな必死な顔、初めて見た……く、くふふ……」
「そんなに笑う……いや、まずはごめんなさい。すみませんでした夏見様。これには色々と退っ引きならない事情が」
「……もういいよ、あとで埋め合わせしてくれれば。それより、次の電車もうすぐだよ、はやく行こ!」
二時間待たされたことへの怒りとか、連絡一つよこさなかった理由とか、色々と言いたいことがあったはずなのだが、彼氏の間抜けな顔を見て、全部どうでもいっかと、夏見は思った。これから始まる楽しい時間を、そんなことに割きたくない。
かくして、一見ありふれた高校生カップルの、一見ありふれたデートは、なんとか問題なく始まった――
――かのように思えた。
沢山喋った。
沢山見た。
沢山聞いた。
沢山嗅いだ。
沢山触った。
沢山食べた。
沢山笑った。
そして、夜になった。
予約していた旅館は、山あいにひっそりと建つ老舗だった。この辺りにはコンビニもスーパーもドラッグストアもない。最寄駅も未だに駅員さんが切符を受け取るスタイルの、時の止まったエリアである。
会席料理を食べた後、ふたりは客室専用の露天風呂へ向かった。
「はあー」
「さいこー」
山の中に咲き乱れる夜桜と、僅かに灯った照明が空中の湯気に乱反射して、桃源郷のような雰囲気を醸し出していた。この浮世離れした空間に、ふたりきり。
肩を並べて、その絶景を眺めていた。
「そういえばなっちゃん、ロビーの自販機にビール売ってたよ。あがったら飲む?」
「法学部生に未成年飲酒を勧めないでよ」
「大丈夫、まだ大学生じゃないでしょ?」
「その論理はおかしい……まあ、飲みたいなら付き合うけどさ。ああでも、お風呂上がりだと酔いやすそう……んん? もしかしてそれが狙い?」
「ぎくぎく」
「私を酔わせて良からぬことをしようと?」
「ぎくぎくぎくぎく」
「えっちぃね」
「どきどき」
「酔わせなくったって、させたげるのに」
「…………」
「わたし、子供はできるだけ沢山欲しいな」
「ははは」
「いやいや、冗談じゃないってば。一人っ子は寂しいからね。私がそうだったから分かる。子供は沢山いたほうが、育てるのは大変かもしれないけど、絶対楽しいよ」
「そういうものか」
「光一はどう思う? 子供は何人がいい?」
「俺は……正直、子供はそんなに欲しくないかな」
「そうなの?」
「うん」
「どうして?」
「うーん……お金かかるし、時間かかるし、面倒だから?」
「ええー、だからいいのに」
「まあ、なっちゃん家はお金持ちだから、お金の心配はいらないだろうけど」
「……あれ、言ってなかったっけ? 私、大学からは、あんな犯罪者連中の力なんて借りないよ。ひとりで……じゃなくて、あなたと生きていくから」
「……へえ、そうなんだ」
「そうなんだって……そんな他人事みたいに言われると傷つくんですけど。光一もちゃんと考えてよ、将来のこと。もう子供じゃないんだから」
「――――」
「――どうしたの? そんな、夢から覚めたみたいな顔して。のぼせた? そろそろあがる?」
「……いや、大丈夫。全然平気……だけど、そうだね、そろそろあがろうか」
「ふふ、変なの」
ふたりは湯の中で立ち上がる。
「……光一?」
〝彼〟が、夏見を背後から抱き締めた。両腕を彼女の華奢な肩に乗せて、腕を一周させる。素肌が密着し、彼氏の息が、彼女の耳にかかる。
「もう、我慢できない?」
蕩けた声で夏見は言った。
「ああ、そうだね。――もう、我慢の限界かな」
平坦な口調で彼は言った。
彼は続けて、こうも言った。
「この短い青春も、ようやく終わりだ」
「――えっ」
彼は、彼女の頭部を両腕で包むようにして、首を絞めた。
抱き絞めた。
絞めあげた。
力のかぎり。
彼女の髪から香る、蜂蜜の匂い。
彼女も力のかぎり抵抗した。何が起きたのか理解できなかっただろうが、それでも背後から締めあげてくる腕を握り返し、引き剥がそうとした。たとえそれが、完璧な形で決まった裸絞めであっても、勝ち目がなかったとしても、生物の本能としてそうする他ない。
引っ掻きもしたし、暴れもしたし、蹴りもした。ばしゃばしゃと温泉が波を打つ。
しかしそんな彼女の足掻きに、彼は、どこか予定調和のような虚無感を覚えていた。
無理もない。一年間付き合っていた恋人が、突然殺人鬼に変貌したのだ。心が追いつくはずもない。……実際には変貌でもなんでもないが。
数分で事は決した。
腕を離すと、彼女は糸の切れた傀儡のように、ばしゃんと、透明なお湯に沈んで、背中をぷかぷかと浮き上がらせた。
そこからの彼の行動は迅速だった。
彼女の死顔を拝むことすらなく、シャワーを浴びて、脱衣所で体を拭いて、旅館の浴衣ではなく自分の服を着て、客室に戻り、カバンの奥に手を伸ばし、普段使っていないほうのスマホで、電話をかけた。
「もしもし」
「おう、終わったか」
「はい。予定通り、後始末お願いします」
「掃除屋はもう手配してある。今日のお前の寝床と、そこまでの送迎車もな」
「そうでしたか」
「一年間の長期任務お疲れさん。クライアントにも良い報告ができる。後のことは専門の奴らに任せて、しばらくはゆっくり休んでくれ」
「ありがとうございます。そうさせてもらいます」
「……で、どうだった? ヤクザの娘を落とすのは、さすがのお前も骨が折れただろ? よくもまあ、親に内緒で縁もゆかりもない土地までご足労いただけたもんだな」
「ええ……でも、付け入る隙はありましたよ。ヤクザの娘という立場も、色々大変みたいで」
「へえ……いや、終わった仕事の話はもういいか。近いうちに改めて、お前の慰労会でも開こう」
「それはどうも。僕なんかのためにありがとうございます」
「…………なんか、お前、キャラ変わってね?」
「え、そう……ですかね」
「役が抜けきらないってやつ? 調子狂うし、前のお前に戻してくんね?」
「ええっと、『前』と言われましても、一年前の自分のキャラなんて、覚えてないですよ」
「ええ……まじ?」
「はい。今、必死に自分の本名を思い出そうとしています」
「名前も忘れてんの⁉︎」
「苗字は思い出したんですけどね。他にも色々忘れてます。生年月日とか、利き手とか、地声とか」
「人間って、一年演技するとそんなことになんのか……恐ろしいな」
「ちょっと、感心してないで、知っているなら教えてくださいよ。僕の名前とか、前のキャラとか」
「ああ……そうだな、じゃあ、もう二度と忘れねえように、大声で言ってやる。ごほん――お前の名前は有坂良助! 年上の俺にも敬語なんて使わねえクソガキの十九歳! 誕生日は俺も知らん! 家族もいなけりゃ親戚もいねえ! 高校どころか、たぶん中学も碌に通ってねえ! 容姿も戸籍も人格も声色も自由自在の七変化! 長期任務もなんのその! 至る所に潜り込む! 今、裏社会で最も勢いのない殺し屋だ!」
「――おおっと、そーだったそーだった。いっけねえ忘れてたぜ。あんがとよ、鳶のおっさん。ところで、俺様が今日泊まる場所にメシはあるか? なかったら手配しといてくれ。できれば中華料理がいい。さっき会席料理?ってのを食ったんだけど、俺にゃあ量が少な過ぎて、全然食った気がしねえんだ。万が一、寝てる間に餓死なんてしちまった日にゃあ、俺ぁ一生同業連中の笑いもんになっちまうからよ、後生だぜ、へへっ」
かくして、彼――有坂良助の約一年にわたる潜入任務は、なんの感慨も余韻も罪悪感もなく幕を閉じた。
そして。
いかなる運命の悪戯か、数奇な宿命の働きか。
あるいはもっと分かりやすく、彼女を弄んだ天罰か。
夏見を殺害した今現在から、丁度一年後の同日。
わけも分からず死んでいった彼女――高見沢夏見の命日である、この日、三月二十四日に、彼は命を落とすことになる。
勿論、このときの彼はそれを知る由もないが、もし仮にこの段階で自分の命日を知ったとしても、彼は何とも思わないだろう。いつも通り暮らすだろう。いつも通り殺すだろう。自分が死ぬのも他人が死ぬのも自分が殺すのも他人が殺すのも、事象として全く変わらないと彼は考えている。自分の死を特別視できるほど、彼はまともな人間ではない。まともな人間のフリなら、してみせるだろうが。
あるいは、そんな彼と比べれば何千倍もまともだった彼女なら、恋人であり自分を殺した張本人である彼と命日を同じくすることに対して、間違いなく何かを思うだろう。何を思うかは、今ではもう知る由もないことだが。
ともあれ――これから始まるのは、死んだほうがいい彼が最後に生きた、数奇な一年の記録である。
コメント
1件
読了しました…これは、もう、ずしりと来るものがありましたね。 最初のデートのシーン、夏見さんの心情がすごく丁寧に描かれていて、普通の恋人同士の日常かと思って読んでいたのに、ラストで全部裏返る感じが本当に怖かったです。「この短い青春も、ようやく終わりだ」の台詞、心に残りました。光一(良助)の一年間の潜入任務と、それで壊れたものの大きさを思うと…。 続きが気になります。応援してます🌙