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【ピアニストの卑屈】「なんだー? これ」
今日は歩との練習、けどその前に楽器屋に寄りたいので、そのために少し早めに家を出た。ポストを確認してみれば、切手も何も貼られていない真っ黒な封筒が中に置かれてあったのだ。
「えー黒とかセンスな〜〜ファンレターか? いや俺ファンレター募集してないし」
そもそも、ファンレターを貰うほどの知名度はない。なんとなく黒色の封筒というのに嫌悪を感じたが、その場で封を切ってみる。
『ご主人様のお呼びである。その音に魂捧げ、神に終生仕えよ。神の目覚めである』
驚くほど綺麗な達筆で書かれたその羅列は、その文字に相反して読む者を不快にさせた。
「……は」
少しの間思考が停止する。なんとなく、気持ち悪い。
「本当になんなんだよ……」
残念ながら丁寧に書かれたその文字の羅列の意味を汲み取ることは困難に等しかった。その文字を見ているとだんだん脳の奥底が焼かれ、目の端がピクピクと怯えだすのだ。本能が、これを拒絶している。
「うわ〜〜コレ所謂ヤバいストーカーってやつなんじゃね〜〜!? こわ〜! これ俺刺されるーー!?」
どうせイタズラの一種だ。あとで歩に見せてやろう。
とりあえずカバンに入れて、楽器屋に急いだ。
楽器屋に特に用事があるわけではなかったが、なんとなく楽器が並んでいるのを見ると気分が上がる為、たまに行っている。何かを買うわけではないが、最近大手メーカーが新しい電子ピアノを発表をしたのでそろそろ店頭に並んでいるのではないか、といった具合だ。買う予定は全く無いが。
「お、あんじゃーん!」
黒と白のニつのバージョンが横並びに目立って置かれてあった。見るからに新品で、音楽家の魂がビビビと反応する。
「うわ〜〜かっけぇ〜〜!」
我ながら大人気ない。
触ってみようかと試みたが、なんとなく神聖な真新しいピアノに触れるのは気が引けた為、そのまま奥へと向かう。
「あ、ヴァイオリン……いやこれヴィオラか」
弦楽器は専門外、正直ヴァイオリンとヴィオラの違いはイマイチ分からない。コレ、歩に言えば怒られるんだろうな。
歩とはなんだかんだ十年近くの付き合いだ。良いところもダメなところも、全部知っている。
初めて会った時はこんなに悲観的な奴が居ても大丈夫なのか……と心配したものだが、なんだかんだずっと音楽を一緒にしてくれて、俺の大嫌いだった音楽を好きにさせてくれて、歩のおかげでこうして今音楽を職に出来ている。こう見えて感謝しているのだ、彼には。きっと彼が居なければ、今頃俺は……
「……いや、良っか」
もしもの世界なんて考えなくて良い。どうせ両親が音楽家の家に生まれたのだから、嫌々にも音楽を続けているだろう。どんなに嫌いでも、どんなに逆らいたくても、俺には一生音楽がまとわりついてくる。獲物を捕らえる蜘蛛のように、もうしっかりと音楽という糸にがんじがらめにされた俺は、逃げることはできない。
音楽は好きだ。人を感動させる力があり、奮い立たせる力がある。どんなアーティストの名言より、リリックに乗せられたメッセージの方が影響力が高い。同じ人間の発する綺麗事は人間の醜い部分を知っているが故にどうしても裏を考えてしまい、所詮ただ一つの意見にすぎなくなってしまうのだ。しかし表現方法を音楽に変えてみれば、途端そのメッセージの信憑性が上がり共感、感動を生み出す。素晴らしいコンテンツだと言えるだろう。
けれども、誰かに強いられて、無理矢理するというのは趣味ではない。誰だってそうだ。嗜む程度、というのが一番気楽でやりやすい。生きる時間のほとんどをピアノに費やし人生を捧げられるほど、俺は音楽に心酔していなかった。
ただ遺伝子というのは恐ろしく、俺は同年代の中で随一の楽才を誇ってしまっていた。期待も羨望も嘱望も、煌めくようで一周回れば毒となる。トラウマなんて四文字で表せないくらい、無理強いされた音楽に与えられた傷は深かった。
けど、今の俺は一人じゃない。デュエットは個人戦ではないのだ。自由に、好きなようにピアノを弾ける。好きなものを、好きなように弾けばいい。
何より、一緒に戦ってくれる戦友がいるのだ。もうこの道を独歩しなくて構わない。
蜘蛛よりも強い生き物は、この世に何億といるのだから。
ふと、店内の時計を見る。
「……そろそろ行かねーと」
俺の音楽を続けられる理由には、間違いなく伊東歩の存在があった。